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戦後60年に去来したブームたち

ブームと人

横井さんブーム

1973年版本誌掲載。以下、

昭和47年1月グアム島のジャングルの中に28年間かくれていた、元歩兵第38連隊横井庄一軍曹が発見された。同じグアム島で皆川、伊藤の両氏が見つかってから12年ぶりの発見に、国をあげての歓迎になった。横井さんは、見つかるまでの後半の15年間、タロホホ川ほとりのほら穴で生活、応召前洋服屋だったという経験を生かし、木の皮の繊維で服を作ったほか、さまざまな生活用具を自分でこしらえていた。発見当初、意外に早く環境の変化に順応した横井さんだったが、日本へ帰って療養生活を送り、さらに故郷の名古屋に帰るにいたって、いろいろな精神的あつれきを経験したようだ。デパートでは横井庄一展をやる、本は出るわで、ちょっとした横井さんブームだが、他の生き残り兵を求めてグアム島捜索を行ない、成果をあげられなかった政府の施策はドロナワの感をまぬがれない。

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ミッチー・ブーム

1975年版本誌掲載。以下、

昭和33年11月27日日清製粉社長長女正田美智子が、皇太子妃に決定、初めての民間からのお妃とあって、学生時代の愛称をとってのブームが日本にひろがった。

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サッチャー・ブーム

1976年版本誌掲載。以下、

1975年4月、イギリス保守党は党大会とで女性のマーガレット・サッチャー女史を党首に選んだ。イギリス保守党史始まって以来のことで紳士を標榜するイギリスのしかも、その伝統を背負う保守党の党員に女性が選ばれたことで、がぜんサッチャー・ブームが湧いた。イギリスのみならずヨーロッパ中で影の内閣の首相が女性になったことで漫画や雑誌にとりあげられたが、その後、サッチャー女史の力量を批判する声も出てきており、本当のサッチャー・ブームが起きるのは選挙の洗礼を経てからとみられている。

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コリー・ブーム

1987年版本誌掲載。以下、

黄色いシャツと大きなファッション・グラスがよく似合う53歳の主婦が一躍、世界政治の立役者となった。愛称コリーことコラソン・アキノ・フィリピン大統領である。彼女はルソン島タルラック州の大地主の娘に生れた。

同じく名門のベニグノ・アキノと結婚。彼はトントン拍子に政界にのしあがりマルコス前大統領の最大のライバルになった。1972年ベニグノは戒厳令下で逮捕、80年アメリカに亡命、83年8月帰国の途につきマニラ空港で射殺された。これを機に反マルコスの気運が一気に強まり、そのシンボルとされたのがアキノ未亡人コラソン女史である。選挙結果は国際的に注目されたがついにマルコスはアメリカに亡命、その後推されてフィリピン大統領となった。彼女の政治的信条は徹底した非暴力主義である。はじめは演説もおぼつかな気だったが、試練にきたえられ今日は堂々と演説もする。誠実な語り口が共感を得ているというが、内部に反米を掲げる共産主義を抱え、マルコス以後の政治の舵をどうとるか。まだまだ危ぶむ声も強い。

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毛沢東ブーム

1993年版本誌掲載。以下、

1989年の終わりごろから毛沢東に対する関心が高まり、毛沢東関係の映画・演劇・著作・レコードが大量に出現している。毛沢東のカラーの肖像写真が、1000万枚以上発売された。経済体制改革により貧富の差が増大した今日の状況にくらべ、貧しくとも平等であった毛沢東時代を、民衆が懐かしんでいるという見方がある。あるいは、青年たちが、農民の息子から身を起こした一代の英雄であった毛沢東を畏敬し、その威力にあやかろうとしているのだという見方もある。共産党内の保守派は、毛沢東ブームを積極的に肯定し、改革開放政策を牽制する拠りどころにしようとしている。

トウ小平の南巡講話以後、貧困、個人崇拝、文章中の大混乱などの側面から、改革派による毛沢東ブームに対する批判が出現し、ブームには下降のきざしがみられる。

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きんさん・ぎんさんブーム

1993年版本誌掲載。以下、

名古屋市に住む2人の100歳双児老人の成田きんさんと蟹江ぎんさんが、マスコミなどに引っ張りだこになった。1991(平成3)年の敬老の日に名古屋市長が2人を訪問祝福したことをはじめに、テレビのCM出演、インタビューや新聞・雑誌の記事や特集、テレホンカードやコンパクトディスク収録、はては2人を祝ったデパートの大売出しまで繰り広げられた。

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マッキーブーム

1995年版本誌掲載。以下、

田中真紀子・科学技術庁長官就任以来の人気。

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