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戦後60年に去来したブームたち

政治と経済のブーム

特需・特需ブーム

1951年版本誌掲載。以下

朝鮮事変を契機として増大した特別需要、即ち(1)米軍の緊急買付、(2)米国の対韓援助費(昨年度の繰越額7500万ドル、今年度分1億ドル)による買付、(3)各種基地の建設資金による買付、を含めて通称特需と呼んでいる。しかし特需はかかる直接的な軍事関係に限られず、朝鮮の復興が具体的に進捗するようになれば交通機関関係の車両、通信放送施設、基地建設資材、雑貨、医薬品等の需要増大が期待される。特需によって惹起された好況的現象即ち(1)滞貨の現象、(2)ドル資金による買付によって手持ドル貨の増加が期待され、さらにこのドル貨の円換算化による支払によって金ずまりの打開が期待されていること、(3)進駐軍関係労務者の雇傭が増大していること、(4)以上の需要増加に伴って思惑需要が増大していること、以上の諸現象が特需ブーム又は朝鮮ブームと呼ばれている。

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市制ブーム

1955年版本誌掲載。以下

最近目立って多くの市が濫設されている現象を指す。これは町村合併促進法がもたらした傾向である。この法律はもともと弱小町村の合併を目的としていたが、市の設置要件が従来3万人であったところから、産業・文化上の利点を見越して、若干町村が合併した機に、市の設置へ進んだわけである。この法律が施行された昭和28年10月1日から29年の4月1日までの半年間に、96の市が出現して、全国で都市の総数は383となった。とくに、29年の第19国会で、自治法が改正され、市の人口要件が、3万から5万に引き上げられたが、この改正を見越して、市の設置を急いだため、市制ブームが生じたわけである。

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輸出ブーム

1956年版本誌掲載。以下、

貿易不振といわれながら、鋼鉄や銅の如き設備財の輸出増加により、わが国の輸出額は最近とくに目立って多くなり、世間を驚かせた。中小企業の基礎に立つ雑貨雑品の輸出増加なら、一般大衆をも輸出の恩恵に浴させるが、こうした特殊輸出は一般の景気からは遊離して、数字の上だけで大きく取扱われがちである。一種の空景気の意味をもたせて、輸出ブームと呼ばれている。

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タンカー・ブーム

1960年版本誌掲載。以下、

石油輸送船(タンカー)の建造ブームをいう。造船工業は、わが国機械工業中戦前からもっとも進んだものの1つであったが、当時はもっぱら軍需および国内商船の建造にあてられていた。戦後造船業は全面的に輸出産業に転換した。とくに、昭和29年秋以降、未曾有の輸出ブームに恵まれた。ブームの中心は、世界的な大型タンカー需要の激増であった。戦後は、中東石油の登場や世界的な石油消費の増大によって石油の海上輸送量が激増し、輸送コスト引き下げのため、タンカーは戦後数年間の1、2万トン級から最近の10万トン級まで急速に大型化し、これら超大型タンカー(スーパー・タンカー、ジャイアント・タンカー、マンモス・タンカーなどと呼ばれる)建造ブームが日本造船業を最大限にうるおした。31年の建造量は174万トンとイギリスの138万トンを抜いて、世界第一の造船国、船舶輸出国となり、32年にはさらに240万トンと拡大して、わが国輸出の大宗となった。しかしその後、世界的なタンカー需要が一巡してこのブームは終わり、造船業は不況に落ち込むようになった。

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地下街ブーム

1972年版本誌掲載。以下、

現在の日本の大都市ではターミナル駅前を地下街にするのは常識化しているようで、世界にも類を見ない超過密都市の地下街風景を現出している。東京には昭和45年末現在、17カ所の地下街があり、そこには約40万人の従業員が働いているという。ここでひとたび火災、水害など起こればひとたまりもなく、また、建設方法、設計、建材などについても、さらに、検討を要すると同時に、地下生活者の健康管理についても、未研究の部分が多い。

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第2次シンクタンク設立ブーム

1987年版本誌掲載。以下、

シンクタンク(think tank)は昭和40年代に設立ブームがあったが、昨今、再びシンクタンクが設立されている。40年代設立のシンクタンクは当初、未来学ブームを背景に、わが国の成長にかかわる研究調査を多く扱った。昨今設立のシンクタンクは、都市銀行系のマクロ経済、地方銀行系の企業経営のコンサルティング、地域開発を対象とするなどがある。また、証券会社系、地方自治体と民間による第3セクター型も多い。この型は、地域の活性化のキメ細かい研究調査にむいているという。一方、採算性を危惧する意見もある。最近発足したシンクタンクには三井銀総合研究所、たくぎん総合研究所、三和総合研究所、富士通システム総研などがある。

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マネー・ブーム(money boom)

1987年版本誌掲載。以下、

マネーはお金、ブームはにわか景気、人気という意味だから、マネー・ブームはマネー商品花盛りと解していいだろう。その表れはいたるところに見られる。第一はマネーに関する月刊雑誌が西武タイムと日本経済新聞から出ていることであり、各大新聞は週1回「ウィークエンド経済」だとか「MONDAY NIKKEI」などのマネー特集を組み、また週刊誌も女性雑誌にも必ずといっていいほど貯蓄の記事が掲載され、各カルチャーセンターでも貯蓄講座が人気をよんでいる。貯蓄商品も銀行、証券会社、生命保険会社、損害保険会社から次々に新商品が売りだされる。それも銀行と証券会社、銀行と保険会社、証券会社と保険会社との提携商品も外国銀行までまきこんで新商品が繰出される。また金融商品を扱うのは金融機関だけでなく、デパート、スーパーにまで及んでおり、会社も余裕資金で利益を生む財テクに精をだしている。まさに、世はマネー・ブームである。

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土井ブーム

1988年版本誌掲載。以下、

昭和61年9月に行われた日本社会党委員長選挙でミニ政党を除いて憲政史上初の女性党首土井たか子の誕生をきっかけとするブーム。土井委員長を中心とする、女性文化人の会合が開かれたほか、土井委員長のテレホンカードが爆発的売れ行きを示した。統一地方選挙では、マドンナ作戦と銘打って女性議員候補が多数擁立され、政治への女性の再進出を印象づける結果にもなった。

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婦人会館建設ブーム

1990年版本誌掲載。以下、

婦人会館は婦人団体の活動の拠点として、民間施設でスタート。その後、公設民営・公設公営などの形で増加し、現在は全国でほぼ200余りある。東京都、大阪府、愛知県、京都市など相次いでセンター建設計画の発表もなされている。近年になって名称も会館からセンターへと変化、ホール、福祉、消費部門などもふくめた複合施設としての機能をもつところも多い。

「エルパーク仙台」、福岡市「アミカス」、「エソール広島」など都市再開発事業の一環として建設される婦人センターもある。1982年設立の「神奈川県立婦人総合センター」には金森トシエ館長、88年オープンの「横浜女性フォーラム」には有馬真喜子館長と、ともにジャーナリスト出身。88年11月オープン「アミカス」は緒方世喜子(西日本銀行取締役)館長と、民間から人材が起用される例もでてきた。また、公設民営と運営を財団法人にして、活性化をはかるなど、ソフト面について民活に頼る動きがみられる。

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女性センター建設ブーム 

1992年版本誌掲載。以下、

婦人会館は婦人団体の活動の拠点として、民間施設でスタート。その後、公設民営・公設公営などの形で増加。最近では情報の拠点としての機能を重視し、国立婦人教育会館(埼玉県嵐山町)は全国各地から検索できるデータベース「婦人教育情報ネットワークシステム」愛称「WINET(ウイネット)」を1991(平成3)年7月始動。名古屋市女性会館(愛称・イーブネット)5月開館は、ウイネットとオンラインで結ばれ情報の活用、発信を援助する。東京都は全国の自治体で初めて「男女平等推進基金」100億円をもうけ、計画中の女性センター「東京ウイメンズプラザ」(仮称)の事業費にあてる予定。91年開設予定の「せたがや女性センターらぷらす」、93年度完成予定の大阪府「DAWN(ドーン)」など幅広い市民層対象の多機能センターをめざす。運営は公設民営、財団法人等、民活で行政の手を離れる動きもある。

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市町村合併ブーム

1993年版本誌掲載。以下、

最近、市町村合併の動きが活発で、明治の市制・町村制施行、戦後の町村合併促進法に続く“第3次合併ブーム”と指摘する向きもある。合併の要因は地域の中核都市づくり、弱市町村の大同団結、県庁所在地都市の政令指定都市昇格とさまざまだが、現在浮上している合併構想は22都道府県で42件、延べ250市町村にも上っている。

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女性行動計画第2次ブーム

1993年版本誌掲載。以下、

1977(昭和52)年に、政府の「婦人の10年国内行動計画」が策定されて以来15年、市町村レベルで行動計画策定の動きが顕著になっている。75年の国際婦人年から17年、女性施策に対する市民の関心が高まり主体的に計画づくりに参画する等積極的な動きがみられる。

92年4月現在での市町村レベルの策定は22特別区、126市、19町。大阪府のように府下43市町村のうち22市町村が行動計画を策定、検討中という自治体もある。

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新党ブームの中での政党再編

1994年版本誌掲載。以下、

経世会の分裂によって生まれた改革フォーラム21(羽田孜代表)は、政治改革を最大の政治目標に掲げて、自民党内で、宮沢政権を揺さぶり続けた。この羽田・小沢グループは、衆院で35名を有し、このグループの行動で、衆院での過半数が左右される。1993(平成5)年6月18日の宮沢首相不信任案の可決も、羽田派の不信任賛成票による。

この羽田派は、自民党を離党した後で、新生党と名乗り、小沢一郎代表幹事を中心に、公明党との連携を図り、非自民勢力の中心的位置を占めた。総選挙後は、議席を衆院だけで55議席とし、公明党と合計して、110近い議席となり、衆院の5分の1の勢力となった。羽田代表は副総理・外務大臣として、閣内に入り、連立の調整役としては、小沢一郎が剛腕をふるっている。

日本新党は、結党1年3カ月で、総理大臣を出す政権政党になった。まさに、風のように出現し、国民の政治批判の風に乗っての大躍進である。93年の各地方選挙で、日本新党の推薦候補が活躍し、都議選では、20名という第三党へ躍進し、社会党をしのいだ。総選挙では、全員が衆院1年生議員という快挙で、35名が当選し、政治のキャスチングボートを握った。選挙戦の最中から、武村正義率いる新党さきがけと選挙協力などし、将来に向けての新・新党の方向を打ち出し、政党再編の先導的役割を果たした。代表の細川護煕が連立政権の中心に座ることで、日本政治に新風を吹き込み、80%近い高い内閣支持率に、国民の政治の変革への期待が込められている。

新党さきがけのグループは、92年来、ひそかにチャンスを待っていたと言われ、政治改革が宮沢政権の下で、再び挫折するや、即座に自民党を10名で離党し、政治の流動化の引き金になった。自民党内の改革派の中心勢力であり、“政治に志を与える”というスローガンは、国民の広い共鳴を得ている。

これら3新党は、総選挙で100議席を超える大躍進を果たし、自民党の過半数割れをもたらし、政権交代の基盤を造った。

一方、野党となった自民党は、再出発にあたって93年7月河野洋平新総裁を誕生させ、次期総選挙での政権奪回を目指している。河野総裁誕生の裏には、後藤田正晴法務大臣の強い影響が見られ、確実に自民党は世代交代の時を迎えた。河野総裁、森喜朗幹事長、橋本龍太郎政調会長は共に37(昭和12)年の生まれであり、細川首相が38(昭和13)年生まれなど、昭和2ケタの政治リーダーの時代となり、大正生まれ政治リーダーは、政治の表舞台から後退し始めている。

38年ぶりの政権交代は、55年体制といわれる自民党長期一党支配にピリオドを打って、連立政権と政党再編成を喚起させている。社会党は結党以来の大惨敗で、分裂の危機に直面し、山花貞夫委員長の退陣を受けた委員長選挙では、妥協人事で村山富市委員長、久保亘書記長が選出された。しかし、消費税率、選挙改革、自衛隊法改正など、社会党の選択が今後の政党再編の方向を決めることになるだろう。

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新党ブーム

2002年版本誌掲載。以下、

平成の時代に入って、政党は大きく揺れた。自民党から新党さきがけと新生党が離脱した。1993年の政変は、竹下・金丸経世会という、田中型政治といわれる”数の政治”の終焉でもある。武村正義を中心に、新党さきがけが結成された。このなかに、鳩山由起夫がいる。金丸の直系といわれた小沢一郎も、スキャンダルに見舞われた金丸から離反し、羽田孜と共に、新生党を結成し、大自民党の終わりを予感させた。

一方で、日本新党の細川護煕も、93年の総選挙で、衆院に進出し、大善戦した。この夏、日本新党の細川護煕を首班として、非自民非共産の政治改革連立政権が成立した。これには、自民党から離脱した新生党の小沢一郎の役割が大きかった。また、新党さきがけも加わり、公明党、社会党も参加した。文字通り、新党ブームのなかで、自民党は変革を期待する国民=有権者の前に屈した。

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