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アテネ・オリンピックのキーパーソンからキーワード
 

野村忠宏  のむら・ただひろ

1974年12月10日生まれ。奈良県出身。柔道選手。

ミキハウス

1971(昭和46)年、ベビー・子供服の製造卸売業者として発足。赤をコンセプトカラーとしたカラフルな色使いと日本製にこだわった品質の高さが人気を呼び、現在は子供から大人まで幅広い層の衣料品を手がける。いっぽう、絵本の出版や幼児教室の運営など教育面にも事業内容を広げている。

また、企業のスポーツ支援が下火になる中、数種目のスポーツクラブを持つなど、国際的に活動する選手への支援を続けている。これは木村社長自らの、小児マヒを完治させたリハビリ経験からきている。曰く「夢や目標を持って、努力することの素晴らしさを自分の体が教えてくれた」「感動と夢を与える若者を育てたい」と。

その支援の成果、99(平成11)年入社の野村忠宏をはじめ、13人の所属選手がアテネ五輪代表入りを果たした。

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背負い投げ

柔道の技の一つ。双手背負い、一本背負いなど技の入り方によっていくつかの呼び名がある。相手を引きつけ、背中に乗せるようにして肩越しに投げるというスピードと豪快さを兼ね備えた技。バルセロナ・オリンピック男子71kg級金メダリストの古賀稔彦などが達人として有名。野村忠宏は多彩な技の持ち主として有名で、シドニー・オリンピックでは全て違う技で勝つほどだったが、アテネ・オリンピック前には背負い投げを一番の得意技として挙げ、磨きをかけてきた。本番では、2、3回戦で背負い投げを放ち、みごと一本勝ちを決めた。

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篠原信一

兵庫県出身の柔道家。内股と大外刈りを得意技とし、1999年バーミンガム世界選手権大会では100kg超級、無差別級の2階級を制覇、世界最強と称された。2000年シドニー・オリンピック100kg超級銀メダリスト。シドニー大会でのドイエ(ドイツ)との決勝戦では「世紀の大誤審」により敗退、その判定をめぐって大きな論争が起こったが、本人は「弱いから負けた。それだけです」と潔よさを見せた。2003年に現役を引退、現在は母校・天理大学の講師、柔道部監督として後進の指導にあたっている。野村忠宏とは天理大学の先輩後輩の間柄で親交も深い。

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敗者復活戦(柔道)

柔道競技でトーナメント方式で試合を行う場合、基本的には一度敗退したら終わりだが、敗者復活戦がある場合は負けた者同士で再度トーナメントを組み、上位者は本トーナメントに復活することができる。敗者復活戦に出られる条件、本トーナメントに戻れる者の数などは大会ごとに異なる。野村忠宏は2003年の世界選手権で第3回戦で破れたものの相手のルニフィ選手が準決勝に進出したため敗者復活戦に出場。すべて一本勝ちで3位決定戦に臨み、銅メダルを獲得した。この負けと敗者復活戦での苦い勝利が、後のオリンピック3連覇の原動力となった。

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豊徳館

野村忠宏の祖父、彦忠さんは1932年、奈良県広陵町に柔道の私塾「豊徳館」を創立。野村の父、基次さんと叔父の豊和さんもこの道場から柔道家の道を歩んだ。基次さんは天理高校柔道部の監督となり、豊和さんは1972(昭和47)年ミュンヘン・オリンピック軽中量級金メダリストに。野村はこの柔道一家の環境に生まれ、物心つく前から祖父の道場に足を運んで柔道を学んだ。しかし、中学まではあまり勝てず、頭角を現したのは高校に入ってからだとか。豊徳館は現在、高校監督から退いた基次さんが引き継いでいる。

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酒井葉子

野村忠宏が2001年に結婚したお相手は、元モデルで、野村より1歳年上の旧姓酒井葉子さん。大阪府寝屋川市の出身で、高校生の時からモデル事務所に所属。携帯電話会社のCMなどにも出演していた。共通の知人を介して知り合い、グループ交際から徐々に愛を深めていったそう。アテネの応援席に現れた葉子さんの美しさがネット掲示板などで話題に。

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