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オリンピックの歴史に燦然と輝くキーパーソンからキーワード
 

円谷幸吉  つぶらや・こうきち

1940年5月13日〜68年1月9日。福島県須賀川出身のマラソン選手。

「国民の面前で抜かれて申し訳ないことをした」

円谷幸吉は、独走するアベベの後を追い、ゴール目前の代々木競技場に2位で入ってきた。しかし、後からイギリスのヒートリーが猛追してきたことに気がつかず、ゴールの手前わずか200メートルのところで並ばれ、そのまま追い抜かれてしまう。幼い頃運動会で父親に一喝されて以来後を振り向かないことをモットーにしてきたことが仇(あだ)となった。ともに東京オリンピックを走った君原に、円谷は生前にそう語っていたという。

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「もう走れない」

メキシコ大会での活躍が期待されていた円谷幸吉は、その年の10月にオリンピックをひかえた1968年1月に、自衛隊体育学校の自室で遺書を残して自殺する。正月に帰郷した際には兄の前で「もう走れない」とつぶやいていたという。メダルへの重圧、アキレス腱痛、椎間板ヘルニアなどの相次ぐ故障、競技生活に支障が出るからと務めていた自衛隊の上官から反対されたためにかなわなかった結婚、それまで一緒に歩んできたコーチの解任、などから追いつめられ自殺にいたったといわれている。

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三日とろろ

正月三日の朝に食べるとろろ汁のこと。これを食べると悪霊を払える、風邪をひかないなどとされている。円谷幸吉の実家・福島県須賀川市に伝わる郷土料理。

27歳という若さで自らの命を絶った円谷は、2通の遺書を残した。一通は体育学校関係者に宛てた謝罪、もう一通は家族や友人に宛てたものである。家族・友人宛ての遺書は「父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました。(中略)父上様、母上様。幸吉はもうすつかり疲れ切つてしまつて走れません。何卒お許し下さい。気が休まることもなく御苦労、御心配をお掛け致し申しわけありません。幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」とあった。

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君原健二

東京オリンピックで円谷幸吉とともに走った君原健二は、1961(昭和36)年の秋田国体で円谷と出会っている。このとき2人は5000メートル走に出場し、円谷2位、君原3位の結果を残している。君原はその後62年の初マラソンで日本最高記録を出し、東京オリンピック代表選考レースで優勝する。最もメダルが期待された君原だが、結果は8位だった。円谷とは対照的に、結婚したあといったんは競技者から身を引く。しかし、恩師の熱い説得で復帰し、メキシコ大会でみごと銀メダルに輝いている。

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陸上自衛官

高校を卒業した円谷幸吉は、陸上自衛隊に入る。配属先だった須賀川駐屯地には陸上部がなかったため、先輩とともに陸上部を設立する。その後、参加した近所で開かれた長距離走で優勝したことからその才能を買われ、事実上メダリストを養成する機関だった自衛隊体育学校に入る。そこでさらに磨きをかけ、1963年に世界新記録を樹立し、一気に日本代表候補者の一人となる。なお、メダル獲得後は、防衛庁長官から第一級防衛功労賞を授与されている。

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円谷メモリアルマラソン

福島県須賀川市にある円谷の生家は、現在「円谷幸吉記念館」となっている。円谷の死から4年後の1972(昭和47)年に開設された。そこでは、世間に衝撃を与えた遺書など円谷の遺品が展示公開されている。また、地元須賀川市は、円谷の偉業をたたえるとともに後進のランナーを育成することを目的に、83年から「円谷幸吉メモリアルマラソン」を開催しており、子どもから大人まで毎年多くの一般ランナーが参加している。

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