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釜本邦茂 かまもと・くにしげ1944年4月15日生まれ。元サッカー選手。 ◆日本歴代最高のフォワード日本のサッカーについては決定力不足、あるいは攻撃の軸をつくるエースストライカーの不在が指摘されることが多い。そんな日本にもかつて釜本邦茂という抜群の決定力を誇るフォワードがいた。日本代表として国際Aマッチ通算75試合では73得点。またメキシコ・オリンピックでは7得点で得点王に輝くなど、その輝かしい実績から今なお日本歴代最高のフォワードと評価する声が多い。特に右足から繰り出される右45度からのシュートは正確かつ強力だった。 ◆日本サッカーの父「日本サッカーの父」と呼ばれ、いまなおオールドファンには特別な思いを抱かせる存在、それがデッドマール・クラマーだ。1925年ドイツ・ドルトムント生まれ。1960(昭和35)年に東京オリンピック日本代表の特別コーチとして初来日し、代表チームのコーチとして日本サッカーの基礎作りに尽力した。JSLの発足も彼の提唱によるところが大きい。 1998(平成10)年のワールドカップ初出場と並んで、日本サッカーの歴史に残る偉業が、68(昭和43)年のメキシコ・オリンピックでの銅メダル獲得であるが、クラマーをコーチに招聘したり、欧州遠征に出て国際試合を重ねたりするなど、強い意気込みでメキシコ大会に臨んだ。3位決定戦は地元メキシコとの対戦という悪条件ながらチーム一体となって勝利した。 ◆ヤンマーディーゼルセレッソ大阪の前身はヤンマーディーゼルサッカー部。メキシコ・オリンピックで得点王に輝いた釜本邦茂には、世界中のクラブからたくさんのオファーが舞い込んだ。しかし、釜本は日本に残ってそれまで所属していたヤンマーを優勝させる道を選んだ。そして、彼を中心としたヤンマーは1971(昭和46)年に日本リーグで初優勝する。その後、74年にもリーグ優勝すると、翌年1月の天皇杯でも優勝し、ヤンマーは国内最強のクラブとなる。釜本は84年の引退まで大学卒業以来ヤンマーに所属し続けた。 ◆202得点釜本邦茂は日本リーグで通算251試合出場。7度の得点王に輝き、202得点をあげている。1967(昭和42)年のデビュー戦で2得点をあげて以来、74年には100得点を達成し、1982年に現役最後の202得点目をあげる。単純に比較はできないが、2004年のシーズン終了時点でのJ1リーグの通算得点上位2人、中山雅史(ジュビロ磐田)の148得点、三浦知良(ヴィッセル神戸)の134得点、と比べるといかに偉大な記録であるかが理解できるだろう。 ◆ウィルス性肝炎肝炎ウイルスが原因の肝の炎症性疾患のこと。釜本邦茂は通算202得点という輝かしい記録を残したが、この記録の過程には選手生命を危うくする病気との闘いがあった。1968(昭和43)年10月にオリンピックでメダルを獲得し、翌年1月の天皇杯で優勝した半年後、釜本は日本代表合宿中に倒れ、ウィルス性肝炎と診断される。25歳のときのことだった。50日間入院し、さらにその後4年間は通院を余儀なくされる。そのため、69年のワールドカップ予選はチームの柱として期待されていたが、出場することは叶わなかった。 ◆引退試合サッカー界では大きな功績を残した選手の引退に際して、旧知のチームメイト、ライバルなどを集めて引退記念試合が行われることが多い。引退する選手の活躍・貢献に対する敬意を表すイベントとして、洋の東西を問わず定着している。近年のJリーグでは「アジアの壁」とよばれた井原正巳(日産−マリノス−ジュビロ−レッズ)、福田正博(三菱−レッズ)らの引退試合が行われた。 日本サッカーの一時代を背負った釜本邦茂の引退試合は、1984(昭和59)年8月、国立競技場に6万2000人の大観衆を集めて盛大に行われた。釜本に敬意を表するとともに興行的にも低迷している状況を打開するために日本協会と日本リーグも支援した。ヤンマー対日本リーグ選抜という形で行われ、ヤンマー側にはゲストとして元ブラジル代表のペレ、元西ドイツ代表のオベラーツが加わった。結果は釜本が先制ゴールし、3対2でヤンマーが勝利した。 ◆ガンバ大阪1991(平成3)年のJリーグ発足とともにガンバ大阪はスタートした。前身は90年に天皇杯を制した松下電器産業サッカー部であり、Jリーグ参加にあたっては釜本邦茂を監督に迎えた。釜本は94年まで在籍し、92年は天皇杯ベスト8、Jリーグが開幕した93年はリーグ8位と6位、天皇杯2回戦敗退、94年はリーグ10位と10位、天皇杯ベスト4、という成績を残している(当時のJリーグは1年間にサントリーとNICOSの2つのシリーズがあった)。 ◆スポーツ議員タレント議員と並んで、その実力のあるなしとは別にあるときは注目され、あるときには揶揄されることが多いのがスポーツ議員。これまでもアントニオ猪木、江本孟紀、橋本聖子、大仁田厚らがいる。 釜本邦茂は、1995(平成7)年の参議院議員選挙に比例区で自民党から立候補し、当選を果たす。自民党内では、森前首相、小泉現首相、福田前官房長官、橋本聖子らとともに森派に属した。2000年には労働総括政務次官に就任している。任期を終えて臨んだ2001年の参議院議員選挙では、再び比例区で自民党から立候補したが、過半数を獲得した自民党の躍進とは裏腹に落選する。 |
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