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戦没者はどう慰められているかの用語集
 

日本で悼む

全国戦没者追悼式

東京・新宿御苑において1952(昭和27)年5月2日、天皇・皇后両陛下ご臨席の下に戦没者追悼式が挙行されたのが始まり。毎年8月15日に全国民的行事として天皇陛下ご臨席いただき、政府主催で執り行うことが閣議決定されたのは63年。第1回は同年8月15日に東京・日比谷公会堂で開催。翌64年は靖国神社、65年からは日本武道館に会場を移している。正午の時報とともに黙祷を捧げて哀悼の意を表し、御霊を慰めている。

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靖国神社

本誌2003年版収録。以下、

東京都千代田区九段にある戦没者を祀る神社。1869(明治2)年に東京招魂社として始まり、1879年に靖国神社と改称し、別格官幣社に列せられた。陸海軍省の所管となり、合祀には神社神道形式が採用された。この神社には幕末維新の争乱における「国事殉難者」に始まり、戦争のたびに多数の戦没者が合祀され、敗戦までに240万人以上を数えた。その基準は天皇の国家のための死にあり、戊辰戦争でも幕府側の死者は「賊軍」として合祀されなかった。戦後、占領軍の神道指令で国家と分離され、単一宗教法人となった。しかし1950年代半ば以降、国営化の動きが活発化し、69(昭和44)年以後、国営化をめざす靖国神社法案が毎年国会に提出されたが、いずれも廃案となった。また78年には東京裁判のA級戦犯刑死者14名も合祀された。法案の廃案以後、政府は首相の公式参拝の推進に方針を変更した。2001(平成13)年夏そして02年春の小泉首相の靖国神社参拝問題では中国などアジア諸国から抗議を受けるなど、緊張をもった流動状況が続いている。

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戦没者墓苑

本誌1959年版収録。以下、

第二次大戦中に戦死した身元や身寄りのわからない無名戦士の墓。東京九段の靖国神社に近い千鳥ヶ淵公園にでき、1959(昭和34)年3月28日完工式と合わせて追悼式が行われた。墓は建坪284平方m、高さ5.5mの六角塔で、この中に遺骨を入れた約80cmの骨壷18個が収められている。この墓の建立は53年吉田内閣のときに決められたがその後主として予算などの関係から遅れ、58年7月にやっと着工されたもの。総工費は4800万円。

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国立戦没者墓苑構想

これまで靖国神社への参拝が問題化する中で幾度となく浮かんでは消えてきた、靖国神社に替わる代替施設建設構想。2002(平成14)年末、福田康夫官房長官の私的懇談会「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」が「国立・無宗教の恒久的施設が必要」とする報告書をまとめたが、04年前半の時点では特に実現へ向けた新たな動きは見られない。ちなみにアメリカにおけるアーリントン墓地は清教徒の国にあって「宗教不問」としている。死者に対する追悼に際し、どのような形式を採用したとしても宗教と無縁ではあることは難しいためであろう。

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公式参拝

本誌2003年版収録。以下、

1984(昭和59)年4月、自民党総務会は、首相・閣僚の靖国神社公式参拝や玉ぐし料の国費負担などが合憲である、という解釈を党の見解として決定した。いわゆる国家護持をめざした靖国神社法案が不成立に終わった後、自民党は公式参拝実現へと戦術を転換してきた。この問題は75年8月15日の三木武夫首相の参拝のときから顕在化し、当初は私的参拝であるとされたが、しだいに公式参拝へと変わっていった。85年8月15日、戦後初の首相・閣僚の公式参拝が行われた。これに対して、国の内外から批判の声が高まった。外交上の配慮もあってか、当時の中曽根康弘首相も春秋の例大祭には参拝をとりやめ、86年以降の8月15日も首相の公式参拝は行われていない。

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政教分離と「靖国」

本誌1989年版収録。以下、

靖国神社や各県の護国神社、あるいは地域の忠魂碑等、軍人兵士を慰霊する宗教施設に政府や自治体が関与することをめぐって、いくつもの訴訟が行われている。国が特定の宗教団体を援助することを否定した憲法の政教分離の原則に反するかどうかが主たる争点である。1987(昭和62)年3月盛岡地裁は、岩手県による靖国神社玉串料の県費支出と岩手県議会の靖国神社公式参拝決議に反対する原告側住民の主張を退けた。ついで88年6月最高裁はいわゆる「自衛官合祀拒否訴訟」に判決を下した。これは68年に勤務中に事故死した自衛官の夫が無断で山口県護国神社に合祀されたのは信教の自由や政教分離の原則に反するとする山口市在住のキリスト教徒の妻によって訴えられたものである。この判決で最高裁は、国(自衛隊山口地方連絡部)の関与は、目的と効果の点から見て政教分離原則には違反しないとして1、2審判決をくつがえし、原告側の主張を退けた。このところ国側に有利な判決があいついでおり、政教分離原則の空洞化を憂える声も上がっている。

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靖国神社法案

本誌2001年版収録。以下

靖国神社は明治維新およびそれ以後の国事に殉じた人びとや戦没者250万余の霊を合祀する神社。1869(明治2)年、九段坂上に招魂社として創建、79年靖国神社と改称して別格官幣社となったが、戦後は一宗教法人として現在に至っている。1969(昭和44)年に発表された自民党の靖国神社法案は現在の靖国神社から宗教性を除去して内閣総理大臣の監督下におき、その儀式行事などの業務に必要な経費の一部を国費で負担とするという趣旨で、いわゆる国家護持をめざしたもの。これに対して、遺族の悲願、国民感情などの立場からなる賛成論と、憲法第20条(信教の自由、政教の分離)、第89条(宗教団体に対する公金支出の禁止)の規定や国家神道復活への警戒などによる反対論が激しく対立、自民党と野党、神社神道側と諸宗教側の論争から、国民的論議の的となった。74年の衆議院で強行採決されたが、参議院で廃案となった。

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神道と日本の諸宗教

本誌1996年版収録。以下、

戦後、神社神道が基盤としていた地域共同体や家は、社会構造の変化に伴って、著しくその紐帯を弱めていった。過疎地では、伝統的な祭の維持が困難になっていった。他方大都市では、昼間人口の増大とは裏腹に、都心でのドーナツ化により、神社を支えてきた氏子組織がしだいに弱体化するとともに、氏子意識が希薄化していった。他方で、環境問題への取り組みや、伝統文化の保存など、神道の担う課題は依然として大きなものがある。

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神道  Shintoism

本誌2003年版収録。以下、

日本列島における民族の形成以来、保持してきた日本独自の伝統的宗教。日本国家形成以前の部族宗教は、外来の宗教伝統によって排除されてしまうことなく、日本国家の精神的支柱のひとつとして生き続けた。宮廷祭祀の確立と記紀神話の成立は、神道成立の重要な契機である。一方、道教、仏教、儒教等の影響を受けてしだいに神道の教理も生み出されていった。また、それとは別に、民俗宗教のなかにも神祇信仰は根強く残存し、神社神道という形をとり、また教派神道へと発展した。神道とは、外国宗教の伝来以後に名づけられた名称で、もともと体系化に乏しい。伝統的宗教自体の発展や、また仏教、儒教、道教、陰陽道(おんみょうどう)などの影響あるいはその反動としての「純粋な」神道の提唱、さらには、習俗となっている民間の行事など多様である。天皇家の祭祀としての宮廷神道、神社を中心とする神社神道、年中行事、習俗に見出される民間神道、および教派神道などに分類される。

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仏教  Buddhism

本誌2003年版収録。以下、

キリスト教、イスラム教(回教)と並ぶ3大世界宗教のひとつ。開祖シャカ(釈迦)すなわちブッダ(仏陀)の教えという意味で、さらにこれに基づき、後世新しく展開された教説をも含めて、広く仏教と総称する。約2500年前のインドに始まり、主としてアジアの南部、中部および東部に広がった。思想・儀礼の面でも教団系統の面でも、非常に複雑に分化していて、時代、場所、民族などによる偏差が著しい。客観的にみれば、開祖自身の宗教からはかなり離れたものも少なくない。大別すれば、南伝(方)仏教(だいたい上座部仏教)、北伝(方)仏教(大乗仏教)に大別することができる。全世界に2億5000万人の信徒がいるとされる。

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ひめゆりの塔

沖縄戦末期、非業の最期をとげたことで知られる「姫百合(ひめゆり)学徒隊」の少女(15〜19歳)ら219柱を祀る慰霊塔。学徒隊は沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒と教師で編成され、看護要員として沖縄陸軍病院(南風原陸軍病院)に動員された。“姫百合”の名は師範学校の校友会誌「乙姫」と女学校の校友会誌「白百合」のそれぞれ一部をとってつけられた。ひらがなで表記されるようになったのは戦後から。また、植物のひめゆりとは無関係。1953年には今井正監督による「ひめゆりの塔」(東映)が制作・上映され、当時は大ヒットとなった。

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忠魂碑

戦死者を慰霊する碑のこと。当初は個人を対象とする招魂碑と呼ばれるものが多かったが、日露戦争以後、共同祭祀碑としての忠魂碑が各地に建立された。忠魂碑は慰霊とともに、国家への忠誠心を養成するための装置としての役目もあったとされる一方で、箕面(みのお)忠魂碑・慰霊祭判決において最高裁第3小法廷は「忠魂碑について戦没記念碑的なもので、靖国神社や護国神社の分身とはみることはできない」と判断している。

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護国神社

国事殉難者の御霊(みたま)を祀る神社で、はじめは招魂社として各藩に設置された。内務省令により護国神社となる。靖国神社の祭神対象が日本全国であるのに対して、護国神社はその神社のある(鎮座する)地域の殉難者を祭神対象としている。神社によっては軍馬や軍犬の慰霊碑を設けているところもある。

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