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こんな時代もありましたの用語集
 

国際政治の時代いろいろ

これまでもいろいろな新時代がやってきたが、今の今、これが「新時代」なのかというおとは、渦中のわれわれには判断しにくい。“識者”は無責任にもたくさんの「新時代をつくる」けれど。

多中心時代

1966年版本誌収録。以下、

第2次大戦後西側陣営ではアメリカの指導権が核兵器の独占とドルの威力を背景に確立され、東側陣営ではソ連を中心に共産圏の一枚岩的団結が誇示された。だが核兵器の独占が破れ、ドルの威力も昔日の比でなくなった今日、西側陣営ではフランスを先頭に各国が、軍事、経済、政治各部面で独自の道を進み、東側陣営では中ソ論争、東ヨーロッパの自主性回復などによって、ソ連が権威をもって共産世界を代表しうる時代は去った。このようにアメリカとソ連を東西の両代表とする両極化の状態から、世界にはいくつもの中心ができるようになったのが1963年ころからの変化で、これを多中心時代と名づけ、この傾向を多極化という。

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米中ソ時代

1972年版本誌収録。以下、

米中ソ3極時代ともいう。1971年4月のピンポン外交から7月のニクソン訪中発表にいたる一連の米中接近は、米中ソ3極時代の幕あけといわれた。将来は国連安保理事会の議席も、この3超大国に限ろうとする提案が、舞台裏で話合われているともいわれた。軍事的にみれば世界の3極化の傾向はあきらかであるが、経済的には西欧、日本を加えて5極化、あるいは開発途上国をあわせて6極化の時代ともいわれ、政治的には、これらの条件を反映して複雑な過程が現れるであろう。さらに世界の大勢の中で国際社会の中における中国の位置を無視しえず、10月の第26回国連総会においては中国招請・国府追放のアルバニア決議案が大差をもって採決され、安保理事会の議席も国府から中国に移った。

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全方位外交時代

1973年版本誌収録。以下、

1972年のニクソンアメリカ大統領の訪中により、米中両国間の関係調整が端緒についたが、これによって世界は「全方位外交時代」に入ったといわれた。それまでアメリカはソ連と接触するが中国とは断絶しており、中国もソ連と接触するがアメリカとは断絶しており、ともに一方的外交だったのだが、補修された。すでにド・ゴールはフランスを全方位外交に転換させたが、イギリスもEC加入にふみきり、西ドイツもブラントの東方外交で、いずれもバランスのとれた外交姿勢を確立しつつあり、これらを総合して「全方位外交時代」の到来というわけである。

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米中ソ新時代

1980年版本誌収録。以下、

米中ソ3極時代ともいう。1971年4月のピンポン外交から7月のニクソン訪中発表にいたる一連の米中接近は、米中ソ3極時代の幕あけといわれた。将来は国連安保理事会の議席も、この3超大国に限ろうとする提案が、舞台裏で話合われているともいわれた。軍事的にみれば世界の3極化の傾向はあきらかであるが、経済的には西欧、日本を加えて5極化、あるいは開発途上国をあわせて6極化の時代ともいわれた。しかし78年の日中平和友好条約の締結、79年1月の米中正常化などの動きから、米中日3国によるソ連との対決の面も表れた。東・東冷戦と重ねあわさって形をかえた米ソ間の東西冷戦ともいわれる様相を呈している。

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新冷戦時代

1982年版本誌収録。以下、

デタントの1970年代は79年12月のソ連によるアフガニスタン侵攻によって幕を下ろし、80年代は「新冷戦」もしくはブレジンスキー元米大統領補佐官のいう「コンテステーション」の時代に入った。81年にレーガン政権が誕生すると、その様相は一層濃くなり、ソ連の対外膨張に歯止めをかける「力の政策」がとられるようになった。

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太平洋時代

1985年版本誌収録。以下、

世界の中心は太平洋に移りつつあるという考え方であり、1984年4月6日の外交演説においてレーガン・アメリカ大統領がアメリカを「太平洋国家」と位置づけて以降に浮上。日米の経済、技術が世界をリードし、両国の国民総生産(GNP) が世界の3分の1を占めていること、韓国、台湾、シンガポールの経済力、中国の影響力の増大などに見られる太平洋国家の台頭についての認識が「太平洋時代」という発言の背景になっているようだ。沈滞気味西欧諸国ではこれらを「太平洋の挑戦」と見るむきもある。

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新多極化時代

1988年版本誌収録。以下、

1960年代に出現した多極化構造以上に多極化の進展した今日の国際関係の現状を「多極化時代」という。村田良平外務次官が国際関係を「新多極化時代」と分析。国際関係を動かすパワー・センター(極)の数が増大し、国際関係はますます複雑なものとなっている。この傾向は偶然的条件よりむしろ構造化され、より一層の多極化が進行することは避けられない。同時に、この新多極化時代の出現は、日本の存在が国際社会に大きく浮かび上がっていることも意味している。

第2次大戦後、米ソが圧倒的に他国に影響力を及ぼす能力をもつ二つのパワー・センターとしての地位を獲得し、この2極を中心に西側陣営と東側陣営の対抗の構図ができ上がる。西側はNATOを結成し、東側はワルシャワ条約機構の軍事同盟で、東西が全面的に対決する冷戦を激化させていった。その後、核兵器の手詰り状態の出現、ソ連の平和共存路線への転換、アジア・アフリカの新興独立諸国の国際社会への登場、非同盟主義や中立主義政策をとる国々の発言力の増大、ヨーロッパ諸国や日本の経済発展に伴う自己主張の動き、東側でも、中ソ対立をはじめ東欧諸国の自立路線の模索から、それぞれの陣営内部で結束のゆるみが出てきて、米ソの覇権的地位が動揺した。とりわけ、軍事的には他国に圧倒的な格差をつけている米ソは二極構造を維持するものの、政治的には米ソの他に、中国が国連に参加して国際的に承認されることで、また第3世界諸国からの支持を受けることで大きな発言力をもち、西側ではフランスはアメリカの支配体制へ挑戦、日本と西欧諸国は経済的な極としての力を獲得することで、米ソ二極構造から緊張緩和へ以降すると同時に多極構造へと変容する。

60年代から70年代にかけてそうして形成された多極構造は、その後も一層進展する。米ソの覇権的地位はさらに低下し、それと対照的に日本の経済力と西欧諸国の経済力・政治力の増大、第3世界の中から新興工業諸国の出現、第3世界内部の資源所有国と非所有国との対立(南・南問題)、社会主義国間の対立抗争(東・東問題)、中東問題やイラン・イラク戦争など、米ソがコントロールできない問題の増大など、今日の多極化傾向はこれまで以上に進んでいる。

この新多極化時代には、国際システムが東西関係と南北関係から構成され、前者では米ソが指導的地位を占めており、また公社では北の先進国と南の開発途上国が対立しているという単純な図式では理解できない現象が多い。60年代から70年代にかけての日本の存在も大きく変容している。協の世界経済で占める日本の地位、影響力の増大は新多極化時代の象徴である。しかし、そうした日本の大きな1極としての地位は、日本が国際社会で果たすべき責任の重さ、積極的発言と行動力の必要性を伴うものであることが今後いっそう認識されねばならない。

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米ソ歴史的新時代

1989年版本誌収録。以下、

1988年5月の米ソ首脳モスクワ階段を契機に、米ソ関係が新時代に突入しつつあるとの認識を表す言葉。レーガン大統領は、モスクワ会談の成果と意義を強調し、第2次大戦後以来、米ソ関係に依存してきた障害が除去され、歴史的な新時代を迎えつつある、と述べた。米ソ関係は、87年12月の「INF(中距離核戦略)全廃条約」を締結することによって大きく進展し、さらに、88年4月の「アフガニスタン和平協定」の成立によるソ連軍撤兵の開始、およびモスクワ会談での協調路線定着の相互確認により、米ソ関係が歴史的な転換期にさしかかっていると見てよい。87年から88年にかけての一連の動きは、第2次大戦後の40年以上におよぶ東西対立の枠組が大きく崩れはじめたことを物語る。

米ソ首脳モスクワ会談では、戦略核兵器50%削減という目標は達成されなかったが、74年調印の「『地下核実験制限条約』の検証に関する合同実権議定書」と「弾道ミサイル発射実権の事前通告に関する議定書」の二つと、「米ソ一般交流協定」や「宇宙協力協定」など7つの議定書が調印され、「INF全廃を著しく醸成するものであり、米ソ両国が従来の敵対的関係から強調関係を模索する意思の存在と、それを可能にするための対話の定着を確実なものにしたことを意味する。核戦略をめぐる安全保障の問題から、海難探索・救助協力などの問題に至るまで、対話による問題解決の可能性の基盤を築いたことの意義は大きい。

米ソ関係は70年代とは異なる新デタント時代に入った。

こうした段階を迎えるに至った背後には、両者に絶対的な戦略的優位という思想の転換があり、不毛な東西体制間対立から生産的な協調体制の構築という政策の転換があり、その上で、緊要な問題解決を取り組むという現実主義が存在する。また、実際には、米国は財政赤字・貿易赤字を抱えての経済状態の悪化や11月の大統領選挙、ソ連はペレストロイカの推進とそれに伴う混乱という国内事情、米ソ両国とも覇権的地位を相対的に低下させ、西側先進諸国や東欧諸国に対して影響力を弱めたのみではなく、中東紛争、中南米問題、アンゴラ紛争などの地域紛争を解決する能力をもっていないという国際事情とが、新たな米ソ関係の模索に反映している。

米ソの歴史的新時代がどれだけ進展するかは、対話の継続、具体的な成果の積み上げ、国内の支持基盤の存在、ブロックの結束、地域紛争の解決能力に依存している。シュルツ米国務長官が、モスクワ会談後述米ソ関係を新デタントではなく、「注意深い対話(careful engagement)」と呼ぼうとする糸に今後の問題の1つがある。だが、それをどう呼ぼうと、米ソ両国の首脳交代後も対話の継続は避けられないであろう。

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対話の時代

1989年版本誌収録。以下、

1988年の米ソ首脳によるモスクワ会談によって、米ソ両国は協調路線の定着を図る首脳会談の定着化を実現し、「対話の時代」に入った。第2次大戦後の米ソ首脳会談は、59年9月のアイゼンハワー米大統領とフルシチョフ・・ソ連共産党第一書記によるキャンプ・デービッド会談以来、今回の88年6月のレーガン大統領とゴルバチョフ書記長とのモスクワ会談で、12回を数える。とりわけレーガンとゴルバチョフによる首脳会談は、85年のジュネーブ会談、86年のレイキャビク会談、87年のワシントン会談、今回のモスクワ会談と4年連続して開かれている。モスクワ会談での最大の課題である戦略的攻撃核兵器50%削減条約成立はみなかったものの、会談が予定とおりに開催され、重要問題が検討され解決を模索したこと自体意味がある。それは、米国は赤字財政、大統領選挙、ソ連はペレストロイカ(社会改革)の推進という国内政治経済状況を反映して、軍縮問題を中心とする米ソ協調の国際政治の枠組みを構築しようとの意図の表れにほかならない。「対決の時代」の定着は、79年のソ連によるアフガニスタン侵攻にはじまる新冷戦から、再び東西関係の緊張緩和を大きく進展させつつあるために、「新デタントの時代」定着といってもよいだろう。

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脱核兵器時代

1989年版本誌収録。以下、

1995年ごろになると戦略ミサイルは命中精度が極度に進歩するため、弾頭に核兵器を装着せずとも、代わりに通常火薬を使うだけで核弾頭と同じような破壊効果が期待できるようになる。弾道ミサイルも、巡行ミサイルも同様である。95年ごろまでに、弾道ミサイルの命中精度は500フィート以下になり、巡行ミサイルは、さらに性格になる。この段階になると、核抑止力としても戦略ミサイルは、なお、その威力を維持していると思われるが、核弾頭は事実上、無用の長物となり、通常弾頭だけで、充分にその威力を発揮できるようになる。

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米ソ新協調時代

1991年版本誌収録。以下、

1990年5月から6月にかけて開かれた「米ソ首脳ワシントン会議」によって、戦略兵器削減条約(START)の基本合意をはじめ、第2次戦略兵器削減条約(START2)の基本方針に合意、「通商協定」の締結などの成果をあげ、米ソ関係は具体的かつ確実に新しい協調体制の構築に向けて新段階に入った。21世紀に向けた90年代は、軍備からの解放を可能にする軍縮10年の新時代の始まりであり、より強力な協調体制をつくり上げていく「米ソ接近の10年」と見ることもできよう。

この「米ソ新協調時代」は、85年のレーガン大統領とゴルバチョフ党書記長との「ジュネーブ会談」から始まる対話を通しての協調の時代の産物でもある。86年の「レイキャビク会談」、87年の「ワシントン会談」、88年の「モスクワ会談」、89年の「マルタ会談」と米ソ首脳会談の定期化と合わせて協調体制が進展していった。とりわけ87年の「中距離核戦力(INF)全廃条約」の締結を契機に信頼関係を基礎とする協調路線が定着した。90年5月の「ワシントン会談」において米ソ間の不信・対立体制(軸)の象徴である戦略核兵器の削減に関しての合意に達したことは、米ソ間のいっそうの信頼・協調体制(軸)への転換を意味する。これまでは、前者の軸と後者の軸とが交錯して現れていたものの、前者の軸が縮小し、後者の軸が拡大しつつある協調の新時代に入った。しかし、明らかに「米ソ新協調時代」の到来のうちに、両国の相対的な力の低下に伴う問題解決能力の限界を見ることができる。そうしたことから「米ソ新協調時代」は、米ソ両国の復権をめざす共同行動戦略の側面をもっていることに注目すべきである。

だが、ソ連国内の民族問題、ペレストロイカの行き詰まり、湾岸危機・戦争への両国の対応のずれから問題が存在しているものの、米ソ両国にとって協調体制を簡単に後退させることはできない。

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ジオエコノミクスの時代

1992年版本誌収録。以下、

今日のように、他国の行動に影響力を及ぼす資源である国力の中で、軍事力よりも経済力の占める比重が高くなっている時代。軍事力は、国際紛争解決に現実的で有効な手段となりえず、代わって経済力が国際紛争のあり方を大きく決定する要因となっている。第2次大戦後の東西冷戦体制は米ソの軍事力を中心とする対決であった。冷戦体制が変容し、崩壊していく過程は同時に、経済力が次第に世界政治の場で大きくモノをいう過程でもあった。ソ連・東欧の経済的行詰り、アメリカの世界経済における指導力の喪失、イラン・イラク戦争につづくイラクの国内経済の瓦解的状況がそのまま、世界政治の場に直接投影される。今後、新世界秩序づくり、中東地域の安全保障体制の確立、ソ連・東欧の経済再建の可能性は、経済力をもつ日米欧3極がそれらにいかに積極的に取り組んでいくかにかかっている。

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エネミーレス時代

1993年版本誌収録。以下、

第2次大戦後から約半世紀にわたって世界政治の枠組みを設定してきた東西冷戦構造の崩壊により、東西間とくに米ソ間の敵対関係が終焉して、敵不在の新しい時代を迎えている。米・旧ソ(ロ)間のレヴェルでの敵対関係が喪失するのに代わって、日米間に敵対関係が存在すると見られている。アメリカは旧ソ連に代わるスケープゴートとして日本を選んだようだ。1989年からアメリカの世論は、アメリカの安全保障にとって旧ソ連の軍事力よりも日本の経済力をより深刻な脅威とみる傾向が急激に一般化している。貿易不均衡、対米投資、知的所有権問題、日本の技術への依存度の増大、湾岸危機・戦争への日本の対応、人種差別発言、などで両国間の関係がぎくしゃくしている。アメリカ側に対日不信感が日本側に嫌米感情が高まりつつある。

日本は真珠湾50周年を契機に過去の歴史を謙虚に反省したうえで、自由貿易体制の維持、途上国援助をはじめグローバルな問題群の解決に主導力を発揮する必要がある。日米間およびアジア・太平洋をめぐる日米間で多角的で積極的な協力関係を蓄積していくことで、真の意味での日米間「エネミーレス時代」を構築していかなければならない。

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敵のない時代/エネミーレス時代

1993年版本誌収録。以下、

第2次大戦後から約半世紀にわたって世界政治の枠組みを設定してきた東西冷戦構造の崩壊により、東西間とくに米ソ間の敵対関係が終焉して、敵不在の新しい時代を迎えている。米・旧ソ(ロ)間のレヴェルでの敵対関係が喪失するのに代わって、日米間に敵対関係が存在すると見られている。アメリカは旧ソ連に代わるスケープゴートとして日本を選んだようだ。1989年からアメリカの世論は、アメリカの安全保障にとって旧ソ連の軍事力よりも日本の経済力をより深刻な脅威とみる傾向が急激に一般化している。貿易不均衡、対米投資、知的所有権問題、日本の技術への依存度の増大、湾岸危機・戦争への日本の対応、人種差別発言、などで両国間の関係がぎくしゃくしている。アメリカ側に対日不信感が日本側に嫌米感情が高まりつつある。

日本は真珠湾50周年を契機に過去の歴史を謙虚に反省したうえで、自由貿易体制の維持、途上国援助をはじめグローバルな問題群の解決に主導力を発揮する必要がある。日米間およびアジア・太平洋をめぐる日米間で多角的で積極的な協力関係を蓄積していくことで、真の意味での日米間「エネミーレス時代」を構築していかなければならない。

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歴史の終焉  The End of History

1993年版本誌収録。以下、

「エンド・オブ・ヒストリー」。アメリカの政治学者フランシス・フクヤマは、1990年代の初頭にいちはやく東欧やソ連の社会主義・共産主義体制の崩壊と自由民主主義(リベラル・デモクラシー)の完全勝利を鋭く見抜き、「歴史は終焉した」と喝破した。もちろん「人類社会が存続する限り“歴史”が終わりを告げることなどあり得ない」とか、「冷戦状況が終わったあとも“湾岸戦争”や“旧ユーゴスラビア内戦”のような葛藤場面はますます増える傾向にあり、弁証法的な発展過程としての“歴史”は依然として繰り返されている」…などと様々な立場から厳しい批判や反論を投げかけるものは少なくない。しかし、フクヤマは次のような理由から「いや、それでも歴史は終焉したのだ」と主張している−−。

ここでいう“歴史”とは、プラトンやソクラテスの時代から人類社会が必死に追い求めてきた普遍的な真理、すなわち“ユニバーサル・ヒストリー”(普遍的な歴史)のことである。そして、カントは1789年に著した『世界公民的見地における一般歴史の構想』の中で、「個人の目から見れば混沌このうえもない人類史ではあるが、その中にも、長期間にわたるゆっくりとした進化の歩みを示すような規則的な動きが厳存しているのではないか」と考え、「歴史には必ずや終点があるはずだ」と示唆した。カントにいわせると、「この“終点”とは、いわば人間の潜在能力の中に秘められた最終目標のようなもので、それあるがゆえに歴史全体の意味も明らかになる」というのだ。そして、彼は、そのような人類社会の“最終目的”こそは「人間の自由の実現(realization of human freedom)なのだ」と言い切った。この考え方を継承・発展させたのがヘーゲルで、「歴史は絶え間のないコンフリクト(葛藤)場面を通過するが、そこでは思想の体系もみずからの内部矛盾のために衝突し合い、バラバラに壊れてしまう。そして、その代わりに、より矛盾が少なく、したがってより高度な体系が登場するのだが、やがてその体系もまた新しい別の矛盾を生み出してゆく……。こうして弁証法的な発展過程を繰り返しながら、やがて人類社会は“根源的な矛盾”がなくなった状況にたどりつく」と考え、その最終的な段階を「歴史の終焉」と呼んだのだ。すなわち、ヘーゲルによれば、“普遍的な歴史”への進展とは「すべての人間に平等に自由が与えられていく過程」として理解し得るものであり、より具体的には「近代的な立憲国家(リベラルな民主主義体制)の中においてのみ実現される」ということになる。なぜならば、「もっとも進歩的な国々の中では“近代自由主義国家”の基礎をなす自由や平等の原理が見出され、かつ実現されてきたのであり、自由な民主主義よりすぐれた別の社会的・政治的な制度や原理はあり得ない」からである。

そして、フクヤマは、このヘーゲル的な史観をさらに深く考究した結果、「社会主義や共産主義が自由主義と民主主義の前に屈伏した今日こそ“歴史の終焉”の時なのだ」と結論づけた。

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