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世代交代のキーパーソンからキーワード
 

巨人軍監督など

プロ野球界は社会の縮図である。フロント・監督・コーチ・選手という重層的な管理社会、そしてそれらの力関係の駆け引き…スポーツを純粋に楽しむだけでは済まない構造が、また世間の興味を誘うのだろう。まかでも読売ジャイアンツは、見る者にアンチ巨人という層まで生み出すほど、強烈な人間模様を繰り広げてきた。2003年オフシーズンは原監督から堀内恒夫新監督への電撃交代が話題をさらい、同時に、ナベツネこと渡邉恒雄オーナーの影響力が再認識された年であった。

堀内恒夫

1948年、山梨県生まれ。65年ドラフト1位で巨人入団。66年に新人王。MVP、最多勝、沢村賞を獲得するなど、巨人V9時代のエースとして活躍した。鼻っ柱の強さから、「甲府の小天狗」「悪太郎」の異名も。83年現役引退。203勝139敗6セーブ。巨人投手コーチ、ヘッドコーチを務めたあと、野球評論家。2003年、原辰徳(→別項)退任のあとを受け、監督に就任した。

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江川卓

1955年、福島県生まれ。作新学園3年で春夏甲子園出場。73年、ドラフトで阪急1位指名を拒否して、法政大学に進学。77年にはクラウン1位指名を拒否してアメリカ留学した。翌年、巨人と契約し、社会問題となったが、これは1位指名した阪神にいったん入団しトレードで巨人入りするという後味のわるいもの。81年にMVP、最多勝、最優秀防御率。87年引退。135勝72敗3セーブ。野球評論家、タレントとして活躍。堀内とともに、原監督の後任として名が挙がった。

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原辰徳

1958年、福岡県生まれ。父が指揮をとる東海大相模で1年夏から甲子園出場。東海大に進学後、80年、ドラフト1位で巨人入団。81年新人王。83年、打点王、MVP。95年現役引退。通算成績は打率.279、382本塁打。1093打点。野手総合コーチ、ヘッドコーチを経て、01年オフに長嶋茂雄監督の後任となる。1年目はリーグ優勝および日本シリーズでも勝利。2003年の低迷の責任を取るかたちで辞任。任期2年での辞任は球団史上異例であり、コーチ人事をめぐるフロントとの確執も伝えられている。

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渡邉恒雄

1926年、東京生まれ。東京大学文学部哲学科卒。1950年、読売新聞社入社。政治部勤務を経て、ワシントン支局長、政治部長、論説委員長、副社長、主筆。1991年、読売新聞社代表取締役・社長・主筆に。歯にきぬ着せぬ発言で球団経営にも影響を及ぼしてきたが、1996年には巨人軍オーナーに就任。オーナーは選手の成績を評価し、年俸を決める権限がある。渡邉は2003年6月に1年以内のオーナー辞任を表明したが、勇退後も球団取締役にはとどまり、影響力を維持するとみられる。

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フロント  front

正面、全面。転じて、オーナー、球団社長、球団代表など、プロ野球で球団の経営陣、首脳陣を指す。原監督解任騒動寸前の2003年9月9日、巨人は土井誠球団代表の球団社長兼オーナー代行昇格と、読売新聞東京本社・三山秀昭執行役員経理局長の球団代表就任を決定。土井社長は球団経営全般を担い、三山球団代表が戦力補強など現場でチームづくりに手腕を振るう。三山は、江川卓入団騒動のときは、オーナー秘書として事後処理にあたった実績を持つ。

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長嶋茂雄

1936年生まれ。千葉県出身。立教大学を経て巨人入団。1958年の四打席連続三振でのプロデビューや、59年、天覧試合でのホームランは有名なエピソード。名実ともに日本プロ野球を代表するスーパースター。1974年、現役引退。75年〜80年、93年〜2001年の2度巨人監督を務め、監督として900勝を達成した。2004年のアテネ五輪では日本代表を率いての出場が決定。

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王貞治

1940年生まれ。東京出身。早稲田実業を経て巨人入団。三冠王2回、MVP9回、首位打者5回、ホームラン王15回、打点王13回など。ベーブ・ルース、ハンク・アーロンを抜いて世界一の868ホームランの偉業を達成、「世界の王」と称された。1984〜88年、巨人軍監督をつとめ、リーグ優勝1回。現在はダイエーホークス監督。

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藤田元司

1931年、愛媛県生まれ。慶応大学、日本石油を経て、1957年巨人入団。新人王、MVP、最多勝など数々のタイトルを獲得。81〜83年と89〜92年の2度巨人の監督を務め、リーグ優勝4回、日本一2回を達成。ちなみに、就任順序でいうと長嶋→藤田→王→藤田→長嶋となり、2度ともスーパースター監督のあとを受けて再建をおこなうという役回りだが、本人は「引き受けるのが人の道だと思った」と語っている。

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川上哲治

1920年生、熊本県出身。熊本工業高校卒。1938年の入団以来、20年にわたって巨人軍で活躍。49年から56年まで8年連続3割を達成、うち3度首位打者となり、「打撃の神様」「弾丸ライナー」「赤バット」などと呼ばれた。61〜74年監督を務め、日本シリーズ優勝11回を達成、65〜73年の「V9時代」を築いた。正力松太郎からは信頼を受けていたが、長男でやはりオーナーだった亨(1918年生。96年、名誉オーナー)と折り合いが悪く、亨の支持を受けた長嶋との確執にも発展したとされる。引退後は野球解説者として活躍。「悪の管理学」「遺言」「監督の条件」など、著書も多数。1992年、文化功労者。

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正力松太郎

1885〜1969

富山県出身。巨人軍の創設者にして、日本プロ野球の父とも呼ばれる人物。警察勤務を経て、1924年、読売新聞社を買い取り、社長に就任。大衆的な記事に力を入れるなどの方法で部数を伸ばす。1934年、日本初のプロ野球球団、大日本東京野球倶楽部(のちの巨人)を創設、大リーグとの試合でファンを増やした。戦後A級戦犯とされたが、1951年に追放解除され、読売に復帰。日本テレビを創設するなど、大衆文化の発展に貢献した。球界では「大正力」と呼ばれており、川上哲治なども、生涯の師として慕っていた。

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