月刊基礎知識
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中心と周縁、絶対と相対などなどについてあらためて考える用語集
 

絶対

絶対者  das Absolute 独

本誌1985年版収録

他に関わりなく、他に依存することなく、それ自身において自らにより存在し、他に制限・制約されることのなきもの。「相対者」に対する語。移ろいやすい相対的な現実世界を超えて、その根底に存すると考えられる。たとえばプラトンではイデアが絶対者であり、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教では唯一神が絶対者であるが、西欧近代哲学では、個人的自我意識の主体性を個人を超えた普遍的自我と考えて、これが絶対者とされる。ヘーゲルの「絶対精神」がその代表である。現代の哲学では、このような絶対者という考え方は、批判され否定されている。

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絶対地代

本誌1949年版収録

しかし土地が私有され独占されているかぎり地主は最劣等地といえども地代を要求する。これを絶対地代という。土地私有は農業への資本の自由は移動を制限するので、そこに最劣等地といえども、平均利潤率以上の超過利潤が可能となる。この部分は地主が土地所有権にもとづいて取りあげる。(かくて農産物の生産価格は最劣等地の生産価格に絶対地代を加えたもので決定されることになる。)絶対地代は土地私有権の廃止(土地国有)により除去される。

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絶対的および相対的剰余価値の生産

本誌1954年版収録

資本家はできるだけ多くの剰余価値を手に入れるために、まず、労働時間を延長する。一日の労働時間から労働力の価値に等しい価値を生産する時間(必要労働時間)を差引いた残りが剰余価値を生産する時間(剰余労働時間)であるから、労働時間を絶対的に延長すれば、剰余労働時間が長くなる。これを絶対的剰余価値の生産という。つぎに資本家は、技術を改良して生産力を高め、労働者の生活資料の価値を小さくして、労働力の価値を小さくする、そうすると、一日の労働時間の絶対的な長さは同じでも、必要労働時間が短くなり、したがって剰余労働時間がそれだけ長くなる。これを相対的剰余価値の生産という。

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絶対的賃金と相対的賃金

本誌1955年版収録

マルクスが「資本論」その他の著作のなかでもちいた言葉。相対的賃金とは、剰余価値の大きさにくらべてみた賃金のことである。剰余価値1万円、賃金1万円であったものが、剰余価値2万円、賃金1万5000円になれば、賃金の絶対額は大きくなるけれども剰余価値とくらべてみた賃金(相対的賃金)は小さくなっている。一賃金をそれ自身でみたものは絶対的賃金である。ふつう賃金とよばれているものは、絶対的賃金である。剰余価値も賃金も労働者があたらしくつくりだした価値であるから、相対的賃金について考えることはとくに重要である。

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絶対兵器  Absolute Weapon

本誌1951年版収録

或は最終兵器(Ultimate Weapon)原子力エネルギーを利用した原子爆弾或は水素爆弾の別名で、破壊兵器として絶対的(或は最終的)な域に達した意味が含まれている。

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絶対戦争  absolete war

本誌1974年版収録

手段に制限なく、敵味方の相互反応から極端な激しさとなる、理論上の純粋な、戦争形態をいう。また無制限戦争(unlimited war)という言葉を制限戦争にたいして使い、冷戦にたいして熱戦(hot war)、暖かい戦争(warm war)ともいう。撃ち合う戦争(shootng war)は広く冷戦にたいして、砲火の飛ぶ戦争に使われる。原・水爆使用が予想される全世界的熱戦を全面戦争(global war)と呼び、朝鮮、インドシナ戦争のごときを局地戦争という。

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相対評価と絶対評価

本誌1972年版収録

相対評価は、集団の中の相対的位置を問題にする評価であり、その基準は、その集団の得点分布に依存する。一方、絶対評価は評価が集団内ではなく、外部の基準(たとえば一定のカリキュラムの達成度等)に依存して行われる評価である。従来、通知簿において正規分布曲線をもとにした相対評価が多く行われてきているが、数十人の学力の分布が正規分布するかどうかは疑わしい。また、個人の努力や成長が適切に表われないという欠点をもつ。絶対評価では外的基準が何であるかが明確にされる必要がある。どちらを使うかは、その評価の利用のしかたにかかっている。

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音感教育/絶対音感教育(1953)

本誌1953年版収録

耳でピアノのキーの音の高さを覚えることである。またピアノのいろいろのハーモニーを耳で聞いて、その混ぜ合わせた音を知るように耳を訓練することである。それは本を読むためには文字を覚えるということとまったく同じ習練である。音楽を作り、奏するにも音楽を聞くにも、音そのものを知らなくてはお話にならない。音感教育は人間の教育としては、文字を教えると同じように大事なことである。戦争中に飛行機や潜水艦などから出る音を聞きわけるための役に立てようとしたが、それは全く見当違いである。そのようなものから出る音は、噪音といってピアノの音のような楽音とは音のたちが非常に違う。それはそれでまた別な音感教育がいる。工業国としてニホンが立ち直るには、耳の鋭い機械技師が沢山出なくてはならない。この種類の非楽音についての音感教育もまた非常に大切である。

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絶対音感(1999)

本誌1999年版収録

おそらく他のページに詳しく解説されていると思われるが、言葉だけが勝手に独り歩きする今日的状況の恰好のサンプルとして選んでみた。最相葉月の同名のノンフィクションによって流行語になった言葉だが、あの本をちゃんと読んだ人ならご存じの通り、あれは「絶対音感と音楽的創造性とはまったく無関係である」という、むしろ絶対音感教育批判の書だった。実際、各地の音楽教室から少なからぬ抗議も寄せられたという。ところが著者の思惑とは逆に、巷に絶対音感ブームの嵐が吹き荒れるという皮肉な現象が起きてしまった。言葉がいかに皮相的イメージとして流通し消費されているかが、よくわかる。さらにこの場合、あらゆる価値が相対化される時代のなかで、「絶対」という言葉が著者の意図を超えた倒錯的な魔力を持ってしまった側面もあるだろう。その実態が「音当てクイズの的中力」にすぎず、その成果が「カラオケの採譜者」程度のものであったとしても、幼児教育ママの胸騒ぎを誘うには充分な魔力である。それが音感だろうが鈍感だろうが「絶対」であることこそが重要なのだ。絶対そうなのだ。それにしても、子供がママの言葉を「ミソソソソラファ♯?(忘れ物ない?)」などと音名でしか聞き取れない、なんてことになったら……ちょっと面白いかもしれない。いっそ家族ぐるみで『サウンド・オブ・ミュージック』的日常を生きてみるのも悪くなかろう

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