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国連がとめられなかったアメリカの覇権
―― 大国とは…の特集
 

覇権

「覇権」というのは漢字だ。つまりこの単語をこの表現で使いはじめたのは中国か日本のどちらか…、正解は中国だ。

パックス・ルッソ・アメリカーナ

本誌1973年版収録。以下、

Pax Russo-Americana 米ソ2大勢力のバランスの上に保たれる平和。Paxはラテン語で平和の意味。かつて被征服諸民族を含むローマ帝国内での平和を Pax Romana イギリスの指導権のもとで確立された平和を Pax Britannica とよんだように、今日では米ソが世界の平和を維持する積極的体制を示し、奇襲防止のための直通電話の開設、部分的核停条約の締結、核拡散防止条約など一連の措置をとった。ケネディ米大統領、フルシチョフ・ソ連首相時代には両者の頭文字をとってKK時代と呼ばれたのも、米ソによる平和共存時代を意味し、両国の指導者が代った今日も基本的には変化していない。フランスのド・ゴール大統領はこれを米英ソの寡頭支配と見て、新ヤルタ体制と呼び、中国共産党は米ソの反動神聖同盟と呼んで非難した。

本誌1989年版解説より

…米ソは依然として超大国であるが、今日、国際政治の構造変容により、50年代、60年代の覇権的地位を大きく低下させている。

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米ソ・デタント政策

本誌1988年版収録。以下、

1973年6月のブレジネフ・ソ連共産党書記長の訪米のさいに結ばれた核不戦協定は、主要国際紛争について、米ソだけで緊急協議することを定めたが、以来、米ソは、両国による緊張緩和、すなわちデタント(detente 仏)政策を一層進めた。73年10月の第4次中東戦争にさいしての米ソの「危機管理外交」はその著しいあらわれである。その後、ソ連はアフリカで武器援助、キューバ兵の派遣などの手段で、その影響力を強め、またソ連海軍の著しい増強があって、アメリカはソ連のデタント政策についての疑念を強めた。その結果、フォード・アメリカ大統領時代にソ連が好んで使うデタントということばは誤解を招きやすいとして緊張緩和(relaxation of tension)という表現を使うことにした。

その後、79年のカーター・ブレジネフ会談の結果、SALTII(第2次戦略兵器制限協定)が調印されたが、同年12月のソ連のアフガニスタン侵攻によってデタントは崩壊した。85年ジュネーブで、また86年レイキャビクでレーガン・ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長による米ソ首脳会談が開催され、具体的な成果が得られなかったものの、新デタント構築への努力がみられる。

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米ソ空母外交

本誌1973年版収録。以下、

中東諸国への影響力を考慮してソ連は艦隊を黒海から地中海に配し、米海軍に対抗していたが、1971年には「アメリカの海」でありイギリス海軍の影響力の残るインド洋にも進出し、「砲艦外交」あるいは「艦隊外交」の呼称を呼んだ。印パ戦争のさいには米第7艦隊10余隻、ソ連艦隊20余隻がインド洋でけん制し合ったが、米ソは海軍戦略を転換し、空母に重点を置く機動艦隊による示威その他の行動を背景とする空母外交の時代に入りつつあるといわれる。

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米中共同声明

本誌1973年版収録。以下、

1972年2月21日から28日までニクソンアメリカ大統領は史上はじめての訪中を行ない、毛沢東主席、周恩来首相と会談したが、27日、米中共同声明を発表した。声明は両国の見解の一致点と併行点とを記しているが、<1>平和5原則を相互関係に適用、<2>米中関係の正常化はすべての国の利益、<3>国際的な軍事紛争の危険の軽減を希望、<4>双方ともアジア太平洋地域での支配権を求めず、第3国による支配権確立にも反対、<5>双方とも第3者に代って交渉したり、協定・了解を結ばないことで一致している。またアメリカは台湾の米軍を緊張緩和に従って段階的に縮少することをあきらかにした。

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米中ソ時代

本誌1973年版収録。以下、

米中ソ3極時代ともいう。1971年4月のピンポン外交から7月のニクソン訪中発表にいたる一連の米中接近は、米中ソ3極時代の幕あけといわれた。将来は国連安保理事会の議席も、この3超大国に限ろうとする提案が、舞台裏で話合われているともいわれた。軍事的にみれば世界の3極化の傾向はあきらかであるが、経済的には西欧、日本を加えて5極化、あるいは開発途上国をあわせて6極化の時代ともいわれ、政治的には、これらの条件を反映して複雑な過程が現われるであろう。

さらに世界の大勢の中で国際社会の中における中国の占める位置を無視しえず、71年10月の第26回国連総会においては中国招請・国府追放のアルバニア決議案が大差をもって採決され、安保理事会の議席も国府から中国に移った。

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米中ソ新時代

本誌1990年版収録。以下、

1989年2月の米中首脳会談、5月の中ソ首脳会談の開催を契機に、米中ソ3極が新たな関係を構築すべき時代に入った。これまでの米中ソ3極構造では、中ソ対立を前提とし、米中が手を結んでソ連に対抗する路線であった。ソ連に対し、アメリカは「中国カード」を、中国は「アメリカ・カード」を使うことが可能であった。しかも、米中ソ3極構造といっても事実上は、米ソ関係の比重が高いアメリカ中心の内容であった。

89年2月の米中首脳会談で、ブッシュ大統領は中ソ首脳会談を歓迎するとし、中国は中ソの正常化が第3国との関係を損なうものではないことを説明しており、それは米中によるソ連対抗路線を転換させることを意味する。中ソ関係正常化によって米中関係の比重が低下し、ソ連に対し、アメリカの「中国力ード」も、中国の「アメリカ・カード」も容易に使えなくなる。しかし、中ソ和解によって、アメリカ自身の地位が低下したことにはならない。中ソ関係改善といっても、両国関係が50年代の共産主義イデオロギーの下で、一枚岩の団結状態に自動的に戻ることはない。中ソ接近の要因がそれぞれの国内の経済改革を第一の目標とする共通分母の認識からとすれば、中ソ和解が対米共同戦線を意味するものではない。むしろ、米中ソ3国が脱イデオロギー化で、相互の和解図をはじめて描いて見せたのである。現実主義に立脚した新しい米中ソ関係の時代は、グローバルなレベルでの緊張緩和の潮流をさらに促進させ、多極化傾向を一段と助長するだろう。

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平等の安全保障

本誌1973年版収録。以下、

1971年6月11日、ブレジネフ・ソ連共産党書記長は、クレムリン宮殿での選挙人集会で演説をしたが、その中で「平等の安全保障」を強調して軍縮を呼びかけた。

彼は、アメリカがソ連の防衛強化措置を脅威としながら自国は戦略的軍事力を増強していることを指摘し、自分の行動と他人の行動を評価するさいの2重の物差、2重の規格は捨てるべき時がきたと述べた。

この原則に基づいてソ連としてはどのような提案をも討議する用意があるとし、ソ連艦隊の地中海・インド洋海域遊戈(よく)についても、アメリカ艦隊の遊戈と対等の条件で解決する決意を述べた。

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3極世界

本誌1978年版収録。以下、

戦後30余年、この間、地球上にはローカル的な紛争は数多くあったが、米ソ両国を巻き込むような世界大戦はなかった。この原因は、主として米ソの2超大国の力、特にその軍事力の均衡によるものであった。強大な軍事力のバランスが相互に抑止力として作用しているのである。今日の世界においては、米、ソ2カ国だけが軍事大国であり、その他の主要な国は、概ね米ソ2カ国の何れかのグループに入って、集団的安全保障体制によって自国の安全を考えている。条約を締結していないけれど何らの形で支援を受けている国もある。米ソの何れかと安全保障的な条約を結んでいる国の状況は、次ページの図1のとおりである(※図省略)。この2つのグループのほかに中国が位置し、それが米ソ関係に微妙な影響を及ぼしている。米ソ中を3極といっているが、実体は米ソの2極に中国がからんでいるのである。このような米ソ両国を中心にした力の均衡がお互いに戦争の抑止力として作用して来たのであるが、ここ1両年の間に、この均衡がくずれるかも知れないという新たな現象が確認され出したのである。それはソ連の軍事力の増強振りである。

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多中心時代

本誌1973年版収録。以下、

policentrism 第2次大戦後、西側陣営では、アメリカの指導権が核兵器の独占とドルの威力を背景に確立され、東側陣営ではソ連を中心に共産圏の一枚岩的団結が誇示された。だが核兵器の独占が破れアメリカの威力も昔日の比でなくなった今日、西側陣営ではフランスを先頭に各国が、軍事、経済、政治各部面で独自の道を進み、東側陣営では中ソ対立、東ヨーロッパの自主性回復などによってソ連が共産世界を代表しうる時代は去った。このようにアメリカとソ通を東西の両代表とする両極化の状態から、世界にはいくつもの中心ができるようになったのが1960年代にはいってからの変化で、これを多中心時代と名づけ、この傾向を多極化という。

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5者均衡の平和体制

本誌1973年版収録。以下、

1971年12月、ニクソン大統領はタイム誌編集長との会見で、今年行った最も重要な決定は中国との意思疎通の道を開くことであったと言い、アメリカの目的は、アメリカ・欧州・ソ連・中国・日本の5者が、お互いに協力かつ健全となり、均衡しあうことによって国際平和体制をつくることだと述べた。

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バイゲモニー(共同覇権)

本誌1988年版収録。以下、

bigemony 国による覇権に対して2カ国による共同覇権をいう。アメリカのフレッド・バーグステン元財務次官補は『フォーリン・アフェアーズ』1987年春季号に投稿した論文で、経済大国としての日米両国が世界経済全体の発展と安定維持のために共同覇権を握るよう提案した。従来に比べアメリカの覇権的地位が大きく低下したものの、パックス・ニッポニカ」が「パックス・アメリカーナ」にとって代ることができるものではないので、日米両国による共同覇権によればその目的が実現できると主張した。ただ、一般的に、共同覇権は実際上、米ソの共同覇権の意味で使用されてきたこと、日米による共同覇権はすべての問題領域ではなく、とりわけ経済的意味であること、さらに、それはアメリカの覇権的地位の著しい低下を前提としていること、などに注目すべきである。いずれにしろ、日米共同覇権という用語は、日本が世界経済全体の利益のために果すべき責任と役割が大きくなったことを示している。

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グローバル・パワー

本誌1983年版収録。以下、

global power 世界的規模での秩序維持に関心を抱き、そしてそれを追求する能力をもつ国であり、米ソが該当するとみられる。だがそのいずれもそのための軍事費、経済援助面での支出は大きい。アメリカによる日本への防衛費、対外援助の増額要求は、日本に「グローバル・パワーとしての役割」を分担してもらうことにある。だが、アメリカへの協力はしても、日本がグローバル・パワーの一つになることはありえない。独自の軍事力の面、憲法上の制約それに国民感情の面などからそれがいえる。しかし、レーガン・アメリカ大統領は日本に防衛費や対外援助の増額を要請してこれに成功している。西側の一員であり、国民総生産が世界第2位になった日本に「グローバル・パワーとしての役割」を分担してもらいたいとの意向によるとみられる。

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米ソ中日南北朝鮮6者会談案

本誌1990年版収録。以下、

冷戦構造の枠組みが最も強固に残っている朝鮮半島をめぐる国際環境は、緊張緩和の方向へ一段と進んでいる。1988年8月のソウル・オリンピック後に南北朝鮮間に好ましい積極的な動きが出てくるとの予測のもとで、朝鮮半島問題を解決するための米ソ中日南北朝鮮による6者会談の開催が米ソによって検討されている。朝鮮半島問題の根本的な打開をはかる目的で、<1>離散家族捜しなどの人道問題、<2>相互不審解消問題、<3>軍縮など軍事対決回避問題、への対応が米ソ間で詰められている。こうした問題を討議する6者会談の開催の必要性がでてきている。しかし、米ソ中日南北朝鮮6者会談案は、韓国によって、朝鮮半島の緊張緩和のため、南北朝鮮のクロス承認の問題をからめて早くから提唱されてきた。米ソ案による6者会談の開催は、現在、南北朝鮮それぞれの国内事情から、容易ではないものの、中ソ関係正常化に伴い、朝鮮半島をめぐる緊張緩和が加速する中で開催の必要性と可能性が出てこよう。

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鉄のカーテン

本誌1951年版収録。以下、

1946年春イギリス保守党首チャーチルは、議会演説に於て、ソ連圏の閉鎖的秘密主義的な態度を、「鉄のカーテン」なる言葉を以て諷刺したが、その後に東西両欧の対立相剋が激化するにつれて、この言葉は専ら「自由主義陣営」より「共産主義陣営」への攻撃の言葉として各所で多用され、中国共産党の台頭後は「竹のカーテン」という新語も出来ている。「ドルのカーテン」という言葉も、鉄のカーテンの対立語として間々新聞に表われたことがあった。

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