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「日本新語・流行語大賞」からみる今年のキーワード
 

拉致

「拉致」は、辞書的には「無理に連れて行くこと」の意であるが、2002年の意味としてはもっぱら「北朝鮮工作員による日本人拉致問題」となる。

2002(平成14)年9月17日に平壌で行われた小泉・金会談の直前に北朝鮮側は、日本が求めていた拉致被害者の安否にかかわるリストを提示した。それまで否定していた「拉致」を認めたわけである。日本側が捜索を依頼した8件11人について、生存者が蓮池薫さん(拉致当時20歳)、奥土祐木子さん(22)、地村保志さん(23)、浜本富貴恵さん(23)、曽我ひとみさん(19)の5人。死亡者が横田めぐみさん(13)、田口八重子(朝鮮名 李恩恵)さん(22)、市川修一さん(23)、増元るみ子さん(24)、原敕晁さん(43)、有本恵子さん(23)、松木薫さん(26)、石岡亨さん(22)の8人と北朝鮮側は述べた。横田めぐみさんについては娘が平壌市内で生活していることが明らかにされた。生存者の5人は、02年10月15日に日本への一時帰国を果たした。

なお警察庁によれば、数十人が同様に拉致された疑惑がある。

受賞者:この言葉は今年の日本を震撼させた一語として記録するものであり、これに関する人物の選定などは行わない。

関連項目

日朝国交正常化本交渉

1991(平成3)年以来日朝国交正常化交渉は間欠的に行われてきた。議題は「日朝国交正常化に関する基本問題」「経済的諸問題」「国際問題」「その他の問題」の4つ。難問は、戦前、戦中36年間の日本の植民地統治にからむ請求権問題と北朝鮮の核関連施設へのIAEA(国際原子力機関)の査察受入れ問題である。第7回交渉で日本側は、IAEAの査察受入れ、南北相互査察や再処理施設保有禁止をうたった「南北非核化共同宣言」の早期実施を要求した。これに対して北朝鮮側は「査察問題は解決ずみ」と主張し、相互査察問題については「新たなハードルを加えるものだ」と反発を示した。このほか北朝鮮側は「従軍慰安婦問題」につき補償を要求し、日本側は「実定法上の根拠を提示して請求してくれば、議論に応じる」と答えた。第8回交渉で日本側が日本人女性の消息を調査してほしいと要請したところ、これは北朝鮮と無関係の問題で、これ以上日本側の発言を聞く必要はないと一方的な主張を行って退席した。以後両国間の交渉は中断したままだが、95年に入ってから、北朝鮮からコメ支援の要請が日本に対して行われ、結局日本は何らの条件を付さず、有償、無償、計50万トンを供与した。その後、北朝鮮のミサイル発射実験や不審船問題などが重なった。99年12月1日から3日まで村山富市元首相を団長とする政党代表訪朝団が北朝鮮を訪問した後、2000年4月に第9回の日朝正常化交渉が7年半ぶりに平壌で、8月下旬には東京と千葉で開かれ、「拉致」問題と北側が主張する日本の植民地支配に対する「過去の精算」問題がとりあげられたが、大きな進展はなかった。02年7月31日にブルネイでASEAN関係の会議が開かれた際、川口外相は白南淳外相と会談し、中断していた国交正常化交渉をできるだけ早期に開催することで合意した。

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日朝平壌宣言

2002(平成14)年9月17日に小泉首相と金正日総書記との会談後に発表されたものO(平壌宣言)Pで、双方が日朝国交正常化の交渉を「02年10月中に開催することにした」と述べた。宣言は、<1>日本が無償資金協力、低金利の長期借款供与を行う、<2>双方が財産請求権を放棄する、<3>北朝鮮は日本国民の生命と安全にかかわる懸案問題が再び起こらぬようにする、<4>北朝鮮はミサイル発射のモラトリアムを03年以降もさらに延長する、などを内容としている。金総書記は会談で「拉致」問題の存在を認め、謝罪したが、それは宣言には盛り込まれていない。拉致の責任について金総書記は「特殊機関の一部で妄動、英雄主義があった」「責任ある人々が処罰された」と述べた。

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日朝首脳会談

2002(平成14)年9月17日、小泉首相が平壌を訪問して、金正日総書記との会談で、日朝国交正常化交渉の再開に合意し、「日朝平壌宣言」に署名した。過去の植民地支配に関して、日本側は「痛切な反省と心からのおわびの気持ち」を表明し、国交正常化後、無償・有償の経済協力などの実施を約束した。また、財産および請求権は相互に放棄された。本会談に先立つ事務折衝で、北朝鮮側は8件11人のO拉致事件P被害者を含む14人の消息を明らかにした。その内訳は8人(横田めぐみ、田口八重子、原敕晁、有本恵子、松木薫、石岡亨、市川修一、増元るみ子)が死亡、5人(地村保志、浜本富貴恵、蓮池薫、奥土祐木子、曽我ひとみ)が生存、該当者なしが一人(久米裕)というもの。小泉首相の強い抗議を受けて、金総書記は率直に謝罪し、「1970年代、80年代初めまで特殊機関の一部が盲動主義、英雄主義にはしった」と説明した。不審船(工作船)の浸透についても、特殊部隊の「自発的訓練」と弁明し、再発防止を約束した。

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日朝国交交渉(第1次)

1990年9月の日朝・3党共同宣言に基づいて、北京での3回の予備会談の後、91年1月末、国交樹立のための本交渉が開始された。議題は「国交正常化に関する基本問題」「経済的諸問題」「国際問題」および「その他の諸問題」(在日朝鮮人の法的地位、日本人妻の里帰りなど)とされ、会談場所は第1回が平壌、第2回が東京、第3回以後が北京とされた。日本側首席代表には中平立・日朝交渉担当大使、北朝鮮側首席代表には田仁徹・外交部副部長(その後、田の死亡にともない、李三魯が昇格)が任命された。

第1回本交渉以来、日朝双方はそれぞれの原則的な立場を堅持した。例えば、「不幸な過去」の清算について、日本側が財産請求権の存在のみを認めたのに対して、北朝鮮側はそれに加えて戦争賠償および戦後補償を要求した。また、日本側は核査察問題の解決、南北対話の進展などを交渉進展の事実上の前提条件とし、大韓航空機爆破事件の犯人金賢姫の日本語教師であった李恩恵の身元を照会したが、北朝鮮側はそれに強く反発した。しかし、92年11月に開催された第8回日朝国交正常化交渉で、北朝鮮側は日本側が李恩恵問題に言及したことを非難して交渉を中断した。

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日朝国交交渉(第2次)

1999年12月初め、村山元総理を団長とする超党派の政党代表団が平壌を訪問して、金容淳アジア太平洋平和委員会委員長と会談し、両国政府に国交正常化交渉の早期再開を促すことで合意した。その結果、日本政府は98年8月のテポドン発射に抗議する制裁措置を解除し、12月下旬に両赤十字会談が開催された。第9回日朝国交正常化交渉は、翌年4月、7年5カ月ぶりに平壌で開催された。日本側団長は高野幸二郎大使、北朝鮮側団長は鄭泰和大使であった。日本側が、植民地支配の過去清算と現在の懸案(拉致疑惑、ミサイル)の一括解決を主張したのに対して、北朝鮮側は過去清算の先行に固執した。6月の南北首脳会談以後、8月には第10回会談が東京で開かれた。しかし、9月に50万トンのコメ支援が決定され、10月にアメリカのオルブライト国務長官が平壌を訪問すると、北朝鮮側の交渉意欲は急速に衰え、10月末に北京で開かれた第11回会談を一方的に決裂させた。

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