月刊基礎知識
月刊基礎知識トップページへ バックナンバーへ
耳ざわりのいい言葉には注意せよ
―― 「改革」「革命」は起こったか、なぜ起こらなかったかの用語集
 

改革

改革というと、それだけで良い結果を志向するものをイメージしがちだが、すべての人にとって良い結果なんてありえない。誰かにとっては“改善”で、誰かにとっては“改悪”だ。場合によっては《抵抗勢力》になるのもやむをえない。

農地改革

本誌1951年版収録。以下、

敗戦までの日本農業の大きな特徴は、封建色の濃い農地制度が農業経営の重圧となっていた点である。日本農業の基盤である田の過半は小作地であるが、その小作料の大部分は現物のまま納める物納割で、かつ収穫の5割に及ぶ高率であり、しかも全農家の7-8割は多少ともその経営に小作関係を含んでいたのである。かかる農地の所有関係は耕作農民を貧困にすると共に、農業生産力の増進(近代化)に対する最大の障害となっていたが、本来それは旧日本の侵略的な資本主義の原因でもあり結果でもあった。だから軍国主義的な経済の発展と共にこの関係も漸次変化してきたが、しかし地主の立場を否認するような多少とも徹底したその改革は敗戦まで実現されなかったのである。即ち敗戦によって日本の農業も経済も危機に陥り、もはや旧農地制度をそのまま維持しえない情勢となった。そこに進駐軍の強力な指令が発せられて、耕作農民の地位の安定と、農業生産力の発展のために、短期間のうちにしかも広い範囲にわたって、従来の寄生的な地主を排除し、自作農を創設するとことを主眼とする農地改革が行われることになったのである。

ページの先頭へ 戻る

農地改革

本誌1958年版収録。以下、

終戦後の日本の農村民主化のために行われた政府による農地買収売渡しによる自作農の創設を中心とする農村の改革。最初幣原内閣は農地改革の必至を見越して微温的な改革を立法化したが、占領軍は農民解放指令を発してさらに徹底した改革を要求した。第2次農地改革として立法された自作農創設特別措置法はこの指令に基いたものである。その結果小作料の金納公定化、農地価格の公定、農地売買貸借の制限のほかに、この改革の主眼目たる小作地の買上売渡しによる自作農の大規模な創設が行われた。

27年10月は農地改革6周年に当たるがこの時までに小作地の国家による買収198万8000町歩、牧野44万6800町歩、買収された地主数約250万人(農地)、売渡しをうけた小作人426万人(農地)など。その結果残存小作地の全農地面積に対する割合は9.3%となり、小作地を耕作する農家数は昭和13(1938)年に総数の70%であったものが、27年には40%となった。また全く自作地を持たぬ農家は13年に26%であったが27年には4%となった。この改革は小作農の土地に対する渇を医すことによって終戦後の社会的動揺をおさえ、農民をより保守的とし、防共の砦とする政策としては一応成功したと考えられる。しかしこの間、小作地の取り上げが行われて経営は零細化し、また租税や物価政策などにおいて自作農に有利な政策がとられず、協同組合が農民のために活動することが不十分なため、この改革が日本農業の生産力を高め農家経済を安定させる点に寄与することは比較的少なかったようである。

ページの先頭へ 戻る

漁業制度改革

本誌1951年版収録。以下、

農地改革と並んで原始産業における戦後の2大改革といわれるわが国漁業制度の改革は新漁業法及び同施行法の成立(昭和24年末公布、25年3月施行)によっていよいよ実現のはこびとなった。漁業制度とは一口にいうと漁場(水産動植物をとるのに好適な場所)をいかに利用するか、すなわち利用する人と人との関係を定めたものであるが、従来の我国漁業制度は、徳川時代以来の封建的な漁場の利用関係や、おくれた技術を前提にして明治34(1901)年に制定された漁業法に基づいていたので、その後多くの改正にもかかわらず根本的には漁法の発達(特に漁船の動力化)や海況の変化によって、今日すでに時代おくれとなっていたばかりでなく、官僚や漁村の中小資本が零細漁民を抑圧するのに好都合な性格をもっていた。ここに戦後の漁業制度改革の理由があり、新しい法律によって向う2カ年以内に既存の漁業権は全部消滅し、漁場の利用関係は漁民(漁業者と漁業従業者)の代表が参加する漁業調整委員会の運営によって全面的に再編成されることになっている。

ページの先頭へ 戻る

漁業制度改革

本誌1958年版収録。以下、

戦後行われた漁業権の再編成。昭和32(1957)年2月第20回定例対日理事会の席上、ソ連代表は「日本近海における漁業権」を議題として、漁業権制度の封建性を指摘し、ついで第24回理事会において、その民主化をマ司令部に要請した。日本政府はマ司令部の勧告に基づき、漁業法の全面的改正を行い、25年3月より施行、27年3月新旧漁業権の切替を終了、現在許可漁業の再編成が進められている。漁業法の改正は漁業制度の基軸をなす漁業権、漁業許可制度に対して民主化することを主旨としているがその重要性は前者にある。

ページの先頭へ 戻る

3度目の正直の税制改革

本誌1989年版収録。以下、

竹下内閣の税制改革提案は、1978、79(昭和53、54)年当時の大平内閣の一般消費税構想、87年の中曽根内閣の売上税法案につづいて、新型間接税(消費税)導入を中心とした改革提案となっている。今回は売上税に代えて消費税という名称のものとし、免税は年売り上げ3000万円以下、非課税取引は11項目、税率は3%、年売り上げ5億円以下の事業者に簡易課税制度の選択を認めるなどの内容になっている。野党はこの消費税が所得税を納めない低所得層に逆進的税負担を課するものとして反対し、新型間接税導入よりは不公平税制の是正が先決問題だとしている。こうした要求に答える形で、今回の税制改革案では、株式売却益課税を強化しようとしている。1953(昭和28)年以降株式売却益は非課税とされてきたが、今後は原則課税とし、有価証券譲渡代金の5%を譲渡益と見なし、これに20%、すなわち譲渡代金の1%の源泉分離課税の選択を認めるというものである。

しかし、こうした改革案だと現行の有価証券取引税と同じ仕組みのものであり、不公平税制是正にはならない。有価証券譲渡益も申告納税とすべきであり、そのため納税者番号制度を導入し、課税の適正化をはかるべきだという意見も強くなっている。納税者番号制度は資産所得(キャピタル・ゲイン)捕捉の手段として、アメリカでも導入されている制度であるが、わが国の場合、グリーンカード制が利子所得捕捉の目的で考案され、立法化されながら実施にいたらなかったという経緯がある。竹下内閣の税制改革案は、所得税・法人税・相続税減税、現行間接税の整理による減税9兆円を、不公平税制の是正、消費税の導入など5.4兆円の増税によって賄おうとするものである。その結果、差引き純減税1.4凶兆円となり、前回の売上税案が増減税同額を掲げたのと異なった減税超過ないし減税先行の税制改革案となっている。こうした減税先行が可能なのは、当面の経済好況に支えられて税の自然増収が多く見込まれること、NTT株の売却益などの税外収入が見込まれることなどによる。87年度の税収は補正後予算を3兆円も上回る自然増収となる見込みであり、当初予算に比べれば7兆円近くも上回るペースである。ここから新型間接税など導入しなくても大型減税ができるのではないかといった声もでており、これが野党の反対の背景となっている。大平・中曽根内閣につづいて、3度目の正直でなされた税制改革提案の前途を見守る必要がある。

ページの先頭へ 戻る

税制改革

本誌1989年版収録。以下、

現行税制は、産業・就業構造の変容、所得水準の上昇、平準化、消費の多様化・サービス化、経済取引の国際化、人口の高齢化など、戦後40年にわたるわが国社会経済の著しい変化に十分対応しきれておらず、サラリーマンを中心とする納税者の重税感、不公平感など様々なゆがみ・ひずみを抱えており、国民の税に対する不満の声が高まっている。このため税制全般にわたり抜本的な見直しを行うことが急務になっている。税制改革の基本理念としては「公平・中立、簡素」があげられている。税制調査会では、1987(昭和62)年2月以降審議を続けていたが、88年4月には「税制改革についての中間答申、同年6月には「税制改革についての中間答申」がとりまとめられた。また、同月、自民党より「税制の抜本改革大綱」が出された。

それらによれば、今回の税制政車の柱は、中堅サラリーマンの負担軽減を中心とした個人所得課税の軽減・合理化、法人課税のいっそうの軽減、相続税の軽減・合理化、有価証券譲渡益の原則課税などの負担の公平の確保、間接税制度の改革(消費税の創設)となっている。

ページの先頭へ 戻る

教育改革

本誌1980年版収録。以下、

文部省は、昭和52(1977)年6月、教育課程審議会の答申に基づいて、小・中学校の学習指導要領を改訂し7月には、それを国家基準として告示した。高校は53年8月改訂した。新学習指導要領においては従来における日本の教育が知育に偏重し、つめこみ教育に堕したことが反省され、「ゆとりのある教育」を保障することが追求されている。また、受験戦争を少しでも緩和することを目的として、国公立大学入学試験に第1次共通試験を実施することとなった。一方、50年に制定された私学振興助成法もその効果を発揮しはじめ、わが国の私学行政にも新しい時代が到来している。このような教育改革への与党政府の積極的なとりくみは、一般的には歓迎されている。しかし従来における能力主義的な教育の本質観と受験優先の教育体制をそのままにしたままで、教育改革をすすめても、所期の課題を果たすことはできないばかりか、改革がドラスティック(徹底的)であればあるだけ上記体制が全面展開され効率化しようという批判もきかれる。

ページの先頭へ 戻る

第3の教育改革

本誌1971年版収録。以下、

昭和46(1971)年6月11日付中教審答申「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について」は、その前文のなかで、答申に基づいて推進されるであろう教育改革を称して、「明治初年と第2次大戦後」の改革に続く「第3の教育改革」だと述べた。答申作成者によれば、「第3の教育改革」というキャッチフレーズを用いた理由は、祖先が経験したことのない新しい課題を含むという問題の重要性と、その実現の異常なまでの困難性にかんがみ、これを国民的な事業として大きく盛り上げる必要性を痛感したからだとされている。その内容は、<1>4歳就学の4・4・6制学校体系など、いくつかの新しい試みを10年間、全国各地で実施する。<2>教員の初任絡を大幅にアップして良質の教員を求める一方、現職教員の質を高めるための再教育を目的とした2年制の大学院を設ける。目的、性格に応じて高等教育機関を多様化、種別化するとともに、政府は日本列島全体にわたる大学の配置を定めた、大学基本計画をつくり、大学と政府が協力して大学改革をすすめるなかで、大学の管理運営体制を改善するなど、8つの基本的施策の具体案が提案されている。これに対して、改革の内容、方向性などからみて、果たしてこれが「第3の教育改革」といえるかとの反論もある。

ページの先頭へ 戻る

6大改革

本誌1998年版収録。以下、

橋本首相が掲げる6分野の改革のこと。6分野とは、行政、経済構造、財政構造、社会保障、金融制度、教育。1997(平成9)年1月、通常国会での施政方針演説で首相はこれら「6大改革を一体的に断行する」と述べた。金融制度に関しては「金融ビッグバン」を実施するとして、その枠組みについて6月13日金融関係3審議会(金融制度調査会、証券取引審議会、保険制度審議会)がそれぞれ最終報告を発表し、行政改革については行政改革会議が9月3日に中間報告を決定した。その中間報告は、<1>現在の1府21省庁を2001年1月から1府12省庁にする、<2>各省庁の執行部門を「独立行政法人」に移す、<3>簡易保険は民営化し、郵便貯金も民営化の準備をする、などをうたっている。最終報告の決定は11月末の予定。首相のねらいは、6分野の「一体的」改革をトップダウン方式で断行することにあるが、間口を広げすぎだという批判が自民党内にもある。何よりも改革の実現には、内容についての国民合意の形成の追及が不可欠だが、その努力は十分だろうか。

〜それに基づいて中央省庁等改革基本法案を国会に提出、同法は98年6月9日に成立した。

ページの先頭へ 戻る

財政構造改革

本誌1998年版収録。以下、

政府・与党でつくる財政構造改革会議(議長は橋本首相)が1997(平成9)年6月3日に歳出削減策をまとめ、それにもとづいて「財政構造改革の推進に関する特別措置法」(略称は財政改革法)案を9月26日に閣議決定し、臨時国会(9月29日召集)に提出。その内容は、<1>2003年度までに国・地方の単年度の財政赤字を国内総生産(GDP)の3%以下に抑える、<2>赤字国債の新規発行をゼロにする、<3>98年度から3年間は公共事業費、ODAの伸びを毎年度マイナスにする、<4>社会保障費の伸びは、99年度以降2%以下に抑制する、など。しかし、この法案の対象とする歳出は、国の一般会計の当初予算にほぼ限定されているから、補正予算などで尻抜けになる可能性も指摘されている。また、旧国鉄債務の処理問題、国有林野事業の改革などとの関連づけも、これからの課題である。

ページの先頭へ 戻る

外務省の機構改革

本誌1985年版収録。以下、

激動する国際情勢に効果的に対応するため、昭和58(1983)年度から、外務省が機構改革をめざした新局の設置構想。第1に、外交政策の総合的な調整、企画を担当する「総合企画局」の新設。これにより多方面、各局にわたる問題の意思決定を迅速かつ整合性のある対応をはかろうとする。第2に、分散された情報の総合的な分析をめざす「情報分析局」の新設。この構想は、臨時行政調査会の答申でも、外務省の情報収集機能強化の一環として指摘されてきたが、機構新設に伴い、どの局を廃止するかという点に抵抗も予想される。結局、当面(58年度中)は、外務省組織令を一部改正し、調査企画部に情報課を新設することとなった。59年度からは、<1>情報調査局、<2>外務報道官、<8>政策調整室の新設が決まった。情報調査局は、臨調答申に応えて、外務省の情報収集・分析機能強化を目的とし、従来の調査企画部を「局」に昇格したもので、その下に情報課、企画課、分析課、調査室、安全保障政策室の3課2室が置かれる。外務報道官は情報文化局の廃止に伴いその機能を引き継ぎ、局と同様の待遇を与えられる。政策調整室は、事務次官や審議官を補佐するもので、政策調整企画官が配置される。

ページの先頭へ 戻る

医療保険制度改革

本誌1986年版収録。以下、

医療費抑制策の具体化として、政府は医療保険制度の改革を昭和59(1984)年度予算にからめて提案し同年10月1日実施となった。内容は従来みられたことのない、被用者保険本人の9割給付への切下げであり、一割の定率自己負担の実現である。その他は、国民健康保険の国庫負担制限、日雇労働者の政府管掌保険への吸収、先端医療への差額徴収の拡大、各保険者拠出金を財源とする退職者医療制度の創設などである。焦点は、被用者本人の従来の定額一部負担に代わる定率(1割)自己負担の実現である。思い切った改革の提案は、今後の高度化・高額化する医療の傾向と保険財政の負担力のギャップをいかに埋めるかの財政対策にあった。医療費抑制策の効果は、受診率の低下として若干みられているが、一時的なものかどうかは今後の推移による。

ページの先頭へ 戻る
All Right Reserved, Copyright(C) ENCYCLOPEDIA OF CONTEMPORARY WORDS