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危機管理のキーパーソンからキーワード
 

佐々淳行

戦国武将・佐々成政の末裔

警察庁

各都道府県の警察を統括する上部機関。国家公安委員会の管理の下に設けられている。長官官房、刑事局など5つの局、2つの部からなる内部部局、3つの附属機関が置かれている。佐々は東大法学部卒業後の1954年入庁(いわゆるキャリア組。任官時点で警部補、約3年で警視正となれる---警視正は県警課長クラス、警察署署長クラス)。その後、20年以上にわたり、調査・外事・警備課長、三重県警察本部長、警察庁刑事局(刑事犯罪の捜査を所掌)参事官を歴任した。

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防衛庁

政府の行政機関の1つ。防衛庁長官を長とする。自衛隊の最高指揮監督権を持つのは内閣総理大臣だが、防衛庁長官はその指揮監督を受け、隊務を統括する。ちなみに、防衛庁と自衛隊は基本的に同じ組織を指し、行政機関としては「防衛庁」、防衛任務の業務運用面で「自衛隊」と呼ぶ。佐々は1977年から86年まで防衛庁に出向。内外のあらゆる動向に対しての危機管理が必要ないま、両者の交流は必要なことだ。

とはいえ、どの国においても、昔から軍と警察というのは折り合いがよいものではない。日本でも旧軍時代の1933年6月、大阪・天神橋駅前交差点で、兵卒の信号無視をめぐって大阪府警と第四師団が大喧嘩、いわゆる「ゴー・ストップ事件」があった。また、昨今でも防衛庁では、制服組(自衛隊)と背広組(防衛庁職員---警察OBの影響力強しといわれる)の間で確執があるともいわれる。公務員同士でよくないことだ。

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内閣安全保障室

1986年、後藤田正晴官房長官の強力な推挽により、内閣の総合調整機能強化の一環として内閣5室の一つとして設置。ハイジャックや大災害など、従来の縦割り行政では充分に対応できなかった危機的事態の際、総理大臣や官房長官を助けて対処すべく設けられた。佐々は後藤田の意向により、初代室長に就任。のち改組され、98年、内閣安全保障・危機管理室が発足。

ちなみに内閣5室は、内閣安全保障・危機管理室のほか、内政審議室、外政審議室、内閣情報調査室、内閣広報室。

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後藤田正晴

1914(大正13)年、徳島県生まれ。1939年、東京帝国大学法学部を卒業、内務省に入省。警察庁長官、内閣官房副長官などを経て、76年、衆議院議員となる。当選7回。自治大臣、内閣官房長官、行政管理庁・総務庁長官、法務大臣、副総理を務めた。カミソリ後藤田の異名をとる。96年引退。

戦中は台湾総督府で陸軍経理をしたかと思えば、戦後も自治省税務局長をこなし、警察官僚となっては1969年の安田講堂事件、71年の過激派テロ、72年の浅間山荘事件の収拾を指揮し、田中内閣の官房副長官となって後も人材確保法による教職員の給与up、国土利用計画法制定等々、とにかくさまざまな経験を積み、ほとんどを上手く切り回した。政界入り後もいわずもがな。

警察庁・内閣時代を通じて佐々の上司であり、危機管理の師でもある。

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あさま山荘事件

1972年2月、軽井沢「あさま山荘」に連合赤軍のメンバーが10日にわたり人質をとって立てこもった。佐々は現場指揮官として派遣され、のべ34,949名の警察官が動員された。この一部始終をまとめた著書が『連合赤軍「あさま山荘」事件』(文藝春秋)。2002年5月には、『突入せよ!「あさま山荘」事件』として映画化された。

本誌75年版収録。以下、

昭和46年から47年にかけての警視庁の徹底的な追跡調査によって、逃走中の連合赤軍はつぎつぎに逮捕された。しかし、47年2月吉野雅邦、坂東国男、坂口弘ら5人の逃走グループは、機動隊の追跡を振り切って、河合楽器の保養所「あさま山荘」(軽井沢)に逃げ込み、管理人の妻牟田泰子さんを人質として籠城のかまえに入った。機動隊は、人質をとられたため積極的な作戦がとれず、ライフルとガス銃による銃撃戦が、じつに10日間も続いた。ついに10日目、機動隊の決死的突入によって一味は逮捕され、牟田さんの218時間ぶりに救出された。しかし、そのかげでは、機動隊員や民間人の3人の命が、尊い犠牲となっている。このあと、連合赤軍による同志のリンチ殺人も明らかにされて、しばらくは新聞紙上が地獄の絵図となった。

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香港領事

1965〜68年、佐々は警察庁出向の領事として英国統治下の香港に赴任。日本海軍将兵の遺骨収集作業、日本人学校創設などに携わっていたが、反英武装闘争である香港暴動、マカオ事件(非武装デモに対する過剰鎮圧)、ベトナムでのサイゴン・テト攻勢(テトはベトナムの正月)などに遭遇、在留邦人の保護・救出に尽力した。

当時の香港周辺はといえば、ベトナム戦争の激化で東南アジア諸国の多くが国内混乱状態にあり、中国は中国で文化大革命の真っ最中、香港もその余波を受けざるを得ず、動乱状態にあった。

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危機管理

Crisis Management。国家的危機に際しての、指導者の政策決定のあり方に関する研究。もともとアメリカでさかんになったものだが、佐々はその著書「危機管理のノウハウ」シリーズ(1979〜81)で、情報・対処・交渉・指揮・管理などの分野にわたって、歴史や自らの経験、プロ野球に至るまで具体的な例を挙げて論証、日本における「危機管理」のワード・メーカー的存在に。

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ピースミール・アタック

Piecemeal Attack。兵力の逐次投入。クラウゼビッツの『戦争論』に代表される西欧的な戦術・戦略観においても、また孫子の兵法においても、避けるべきものとされているが、日本ではガダルカナル戦などでしばしばこの戦略をとり、失敗している。佐々は1967年の香港暴動の際、圧倒的な武力によって即座に暴動を鎮圧する英国軍に接し、「兵力の集中」方式の有効性を実感したという。

piece meal は「少しずつ」「ばらばらに」「漸次に」の意。

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チャーチル

Sir Winston Leonard Spencer Churchill。1874〜1965年。イギリスの政治家。軍隊勤務の後、政界に進出。第1次大戦では、海軍相・軍需相として英国の勝利に貢献、第2次大戦では、ヒットラーの台頭に対し強行外交を主張しつづけて海軍相つづいて首相となり、英国を最後の勝利へと導いた。この間を記録した氏の著『第二次大戦回顧録』によってノーベル文学賞も受賞。戦時指導者として多くの支持を得つつ、戦争が終息するにしたがい政権を奪われてしまうところも、いかにも“非常時に強いリーダー”らしい。その証左に冷戦の緊張高まる51年には再び政権に就いている。65年国葬。

佐々は危機に強い指導者の典型としてチャーチルを挙げている。

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同時多発テロ

2001年9月11日発生。当時、佐々はサンフランシスコ講和条約調印50周年(9月8日)に向けて訪米、ワシントンD.C.に滞在して、アメリカの混乱を目の当たりにした。直後の新聞紙上では、テロリストとその指導者たちを「万死に値する」と、激烈に非難。また、テロ特措法に対しては、「緊急避難的な立法」と批判した。

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