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拉致被害者帰国で考える
―― 日本へ還ってくる人、日本から出てゆく人などなどの用語集
 

日本に還ってくる日本人

引き揚げ

第2次大戦敗戦による一般邦人の外地(朝鮮半島・台湾・満州・南洋諸島等々)からの帰国。満州地域においてはソ連軍の侵攻により多難にあい、また無事に帰国をすすめた他の地域にあっても、敗戦という事情のもと、海外で蓄えた資産を放棄せざるをえず、帰国後の生活も苦労が絶えなかった。これに対し政府は、未帰還者留守家族等援護法(1953年)や引揚者給付金等支給法(57年)を制定して生活援護を行った。

1945年8月、敗戦直後は内務省の管轄。占領軍の指示により10月以降は厚生省に。浦賀・舞鶴・呉・下関・博多・佐世保・鹿児島の7カ所に地方引揚援護局を設置。のち復員局(軍の解体と生業・家庭への復帰を担当)と統合され引揚援護庁に。

現在は厚生労働省社会援護局に引き継がれている。同局がこの件に関して引き継いでいる業務は、「先の大戦の戦没者の慰霊、その遺族や戦傷病者に対する医療や年金の支給などを行うとともに、中国残留邦人の帰国や定着自立の援護」など。具体的には、毎年8月15日の全国戦没者追悼式、沖縄、硫黄島や海外の戦域での慰霊巡拝や戦没者慰霊碑の建立・遺骨収集、中国残留邦人の帰国と定着自立の促進、昭和館(千代田区九段南)の運営。など。

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引揚者給付金

本誌1958年版収録。以下、

戦後外地から帰つてきた引揚者は、たいてい外地でもつていた財産を大部分なくしてしまつている。そこで「戦争の犠牲者であるわれわれを政府が面倒をみるのは当然だ」として、1世帯あたり30万円ないし15万円の国家補償を要求してきた。これに対し政府は総額500億円を公債の形で年収50万円以下(夫婦で働らいている場合は合計60万円まで)の引揚家庭へ交付することに第26国会できめた。この公債は利子が年6分で、今後10年間に償還されることになつている。だからすぐ現金を欲しいものはその公債を売つて金に替えなければならないが、その場合は国民金融公庫が買上げたり、事業や商売をやる資金を貸したりする予定である。

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在外財産

1952年版本誌収録。以下、

終戦当時国外および朝鮮、台湾等の旧外地にあった日本国、日本国民およびこれらの所有又は支配した団体(会社などをさす)の財産のことで、在外資産ともいう。今回の講和条約(★サンフランシスコ講和条約)によると、若干の例外(日本に占領されなかった連合国に許可をえて居住した日本人、在外公館及び慈善団体等)を除いて、<1>連合国にあったものは賠償と相殺の建前で没収され、<2>中立国および旧枢軸国にあったものは戦時中の捕虜虐待に対する補償として赤十字国際委員会に引き渡され、<3>旧外地にあったものは条約発効当時の当該地域管轄当局との取り決めで処置されることになっている。問題はこれらの在外財産に対する日本政府の補償であって、全額補償は到底認めないにしても、どの程度いかなる基準で補償するかについて大きな関心が払われている。

〜今日、日本の財政が難局にあるとはいえ、このように大規模に「国民の財産権にたいする国家の保護・保障義務」が問われるような大問題は起こっていない。

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在外公館借入金

1952年版本誌収録。以下、

終戦当時、朝鮮、タイ、インドシナ等の在外公館(大公使館・領事館等)がその地域の邦人引上げの費用として在留邦人から借り受けた借金。在外資産と同様に、政府の補償が国内問題となっている。

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復員

戦時動員の軍隊を平時の状態に戻すこと、兵役の解除。とりわけ外地に出兵していた兵隊さんの日本への帰国。第2次世界大戦の場合、1945年8月の敗戦から11/30までは陸軍省・海軍省が担当、以後はその後身である復員省に、さらに引揚援護庁に統合された。

北は千島・樺太から朝鮮、南は南方諸島・東南アジアに展開していた陸軍300余万、海軍45万の将兵は、45年9月から復員を始め48年にはほぼ完了したが、中国東北部(満州)地域からの引揚げは、ソ連の侵略・中国内戦の影響もあって困難をきわめ、シベリア抑留の問題が起こった。

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マラヤ共産党のゲリラ闘争

第2次大戦後、海外に展開していた日本将兵の多くが“速やか”に復員したが、なかには現地に残り、独立運動に参加したものもあった。マラヤに残った田中清明、橋本恵之などもその一例。

本誌1991年版〔アジア・オセアニア問題〕収録。以下、

マラヤ共産党(CPM)(Communist Party of Malay)

1989年12月にマレーシア、タイ両国政府と和平協定を締結、武装闘争を停止し、ゲリラ約1000人が投降したときに、古い活動家としてマラヤ残留元日本人兵士2人が加わっていた事で注目された。同党の起源は、1920年代の中国人移住者を基礎にする南洋共産党に求めることもできるが、実際には、英植民地時代以来の各種抵抗運動組織に由来しており、直接的には独立運動の時期の1948年、英植民地当局によって非合法化された組織にある。中国系住民以外に支持基盤を拡大できなかったことが投降の主因。それは中国共産党のその時々の路線にのみ従ってきたことの結果である。

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横井庄一

第2次大戦において日本の無条件降伏後も、停戦命令を受けなかったため横井庄一軍曹はグアムの密林で28年間もの間潜伏していた。72年2/2帰国

72年1月24日にはグアム島で横井庄一陸軍軍曹が発見され,2月2日に帰国した。

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小野田寛郎

第2次大戦において日本の無条件降伏後も、停戦命令を受けなかったため小野田寛郎陸軍少尉は、フィリピン・ルバング島で30年間もの間潜伏。73年10月、地元警察隊が少尉と小塚金七陸軍一等兵を発見したが、小塚は射殺、少尉も負傷して逃走したが、74年2月26日に救出され、3月12日に帰国。

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横井さんブーム/小野田さんブーム

1975年版本誌収録。以下、

1972(昭和47)年1月、グアム島のジャングルの中に28年間隠れていた元歩兵第38連隊、横井庄一軍曹が発見された。同じグアム島で皆川、伊藤の両氏が見つかってから12年ぶりの発見に、国をあげての歓迎になった。横井さんは、見つかるまでの後半の15年間、タロホホ川のほとりのほら穴で生活、応召前に洋服屋だったという経験を生かし、木の皮の繊維で服を作ったほかさまざまな生活用具を自分でこしらえていた。帰国第一声が「恥ずかしながら、生きながらえて…」というものだったが、流行語になった。発見当時意外に早く環境の変化に順応した横井さんだったが、日本へ戻って療養生活を送り、さらに故郷の名古屋に帰るにいたって、いろいろな精神的なあつれきを経験したようだ。デパートでは横井庄一展をやる、本は出るはで、ちょっとした横井さんブームだが、他の生き残り兵を求めてグアム島捜索を行い、成果をあげられなかった政府の施策は、泥縄の感じをまぬがれない。74年春、フィリピン・ルバング島で小野田寛郎元少尉が発見され、このブームも小野田さんに置きかえられた。

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シベリア抑留

第2次大戦後の復員は、長大な戦線をもったわりに比較的つつがなく進んだが、中国東北部(満州)では、侵入してきたソ連軍に降伏・逮捕された日本人がシベリアで強制労働に従事させられた。これをシベリア抑留という。日本政府の推定では57万5000余人。関東軍将兵を中心に若干の満州国官僚などの民間人も含まれた。ポツダム宣言第9項(日本軍隊の郷里への帰還)についての明確な違反である。

シベリア、外蒙古、中央アジア、ヨーロッパ・ロシアに移送された抑留者は囚人労働と同格の扱いで、第2シベリア鉄道建設事業等に服した。

抑留は、労働力の確保が主目的であるが、捕虜に思想教育を行い親ソ・親共分子として帰国後の日本で活動させるという意図もあった(→「アカハタ梯団/日の丸梯団」)。そのため収容所内では「民主運動」が広がり、吊るし上げや私的制裁が行われたという。

日本帰国は遅れ、ソ連が一方的に引揚げ完了声明をした50年4月まで53万人弱が戻ったものの、未だ残留者が多く、国連に捕虜特別委員会が設けられるなどし、日ソ共同宣言(56年12月)成立にともなって長期抑留者2689人が帰国して完了となった。なお行方不明者も多い。

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アクチーブ

本誌1952年版収録。以下、

Active。ネガチーブ(消極的)の反對で、積極的、能動的などと譯され普通は男女などにおいて、どちらか一方が強くはたらきかけて相手をひきずつて行く場合などに用いられていた。戰後ソ連に抑留された日本人捕虜(→シベリア抑留)の中で、いちはやく共産主義者となつて、ソ連側の意を體し、他の日本人を同じ方向に導こうとするものをアクチーブと呼ばれた。

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人民裁判

本誌1952年版収録。以下、

國家の定めた法律によらないで、共産主義者もしくはその同調者の集團が、人民の名において行う裁判である。主にソ連に抑留されていた日本人の間で、歸還の際に、「反動」と認められたものに對して行われた。

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つるし上げ

本誌1952収録。以下、

ソ連に抑留されていた日本人の間で、ソ連式民主化教育の徹底していないものや反動と見なされたものが、大勢にとりかこまれて糾彈された。後、日本國内でも、大勢のものによつてたかつてひどい目にあわされることを「つるし上げ」という。

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幻兵團

本誌1952収録。以下、

シベリアの抑留日本人のうち、ソ連から半ば強制的に誓約書を書かされて一種のスパイにされた人々の組織。全然表面にはわからず秘密活動によるといわれるのでこの名がついた。讀賣新聞が昭和25年暴露的に書いたのに始まるが、アカハタ紙はこれをネツ造だと否定、一時參院の引揚特別委員會で問題になつた。しかしその存在と實體はいまなお判然せず、“幻”に終ろうとしている。

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日の丸梯団/アカハタ梯団

シベリア抑留からの引揚船は舞鶴に到着したが、思想教育をうけた引揚者たちは「天皇島への敵前上陸」と唱え「インターナショナル」などの労働歌を歌いながら上陸したり、上陸後も官公庁や工場まで行進してデモを行ったり、実家にも戻らず集団で東京・代々木の日本共産党本部に向かうなどした。このように船ごと“民主化”していた者たちが「アカハタ梯団」。

これを受け入れる日本の側でも、日本共産党が、舞鶴に「共産党事務所」を設け、帰国兵の面倒をみてやり、やさしくしては入党勧誘をするなどした。すでに“共産化”しているひとのほうが入党させやすいから。とはいえそうやって帰国後、入党しその後も共産党運動を続けたひとは帰国者全体からみれば少ないものだった。強制労働を伴った思想教育は、そう長持ちはしないものだ。

一方、引揚船が日本領海に入り、本当に帰国できることがはっきりした時点で、それまで我慢して演じてきた“民主運動”的な顔を捨てる者もあった。シベリア時代、率先してソ連に協力的だったアクチブに抑留の鬱憤をはらすように“逆リンチ”を加え、赤チンで作った手製の日の丸をもって“日本人として”上陸した、これが「日の丸梯団」。

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中国残留孤児問題

本誌1993年版収録。以下、

第2次世界大戦中から戦後にかけ、種々の理由から中国に取り残された日本人孤児たちの身元調査が行われてきた。第1次調査団が1981(昭和56)年3月に来日して以来、86年6月の第11次まで、1242人が来日して416人の身元が判明したが、次第に判明率は悪くなっている。86年9月に第12次200人が来日した。調査が進むにしたがって、いくつかの問題が生じている。身元が判明した場合には、本人が永住を希望すれば帰国が容易であったが、身元未判明の場合にも85年度より永住帰国が認められるようになった。いずれその数は1000人近くなるものと予想されているが、身元未判明孤児の相談相手となる身元引受人の数が少なかったため、これを法人にまで広げ、目下480余の登録がなされている。さらに、積極的な協力が各方面に対して期待されている。

日本人孤児の永住帰国に伴って、中国に残された高齢の養父母の生活が深刻となり、その扶養費問題が生じた。84年3月に日本側が責任をもつことで合意され日中間の話し合いが続けられた結果、86年5月、日本側が帰国孤児1人につき月額60元(約3300円)、15年分を一括払いすることで合意し、両国間に口上書が交換された。

〜「中国残留孤児」という呼称はジャーナリズムによるもの。厚生省がこれにしたがった。また「孤児」には年齢制限があり、当時成年であった「残留婦人」については「みづからの意思で現地に留まり、中国人と自らの意思で結婚したもの」とみなして援護の対象外。

中国残留孤児問題は、戦前の満蒙開拓計画と深く結びついている。対ソ警備の意味から1930年代から45年までに、ソ満国境付近に約31万人の移民開拓団が送られた。これが45年8月9日のソ連軍の対日参戦、侵攻・蹂躙により混乱に陥り、孤児を生じる主因となった。そんななか“敵国民であった”彼らを救い出し養育してくれた中国人には感謝して余りある。

なお、帰国することができた孤児についても、言語・生活習慣の違いや、長らく離れていた親戚家族との関係など、必ずしも順風ではない。これに対する日本国政府の対応も十分なものとはいえなかった。

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中国残留孤児定着促進センター

本誌1985年版収録。以下、

第2次世界大戦の際、中国大陸で生き別れとなった中国残留日本人孤児の肉親捜しの来日は、1984(昭和59)年2月で第5次となり、厚生省の調べで、それまでに、706人の身元がわかり、このうち168人の孤児と約500人の家族が永住帰国をした。しかし、言葉や生活様式が異なり、職業技術も日本で通用することは少ない。

このため帰国後の生活が社会問題となっており、対策が急がれた。中国残留孤児定着促進センターは、日本に帰国・永住を希望する中国残留孤児たちが日本語や生活様式を身につけるために、59年1月(2月1日開所)に埼玉県所沢市に建設された。一度に30世帯100人程度の収容能力があり、年間延べ100世帯を入所させる計画である。研修期間は4カ月で、入所者は、ここで日本語の日常会話を習うほか、ガスや水道の使い方、スーパーマーケットでの買物など実地の訓練を行う。

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