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夏と暑さの用語集
執筆協力 編集工房インデックス

夏にはなにかが起こる

電力不足

1991年版版本誌収録。以下、

1990(平成2)年の夏は、記録的な猛暑と好景気が重なり、例年、7月、8月にみられる電力需要のピークが一挙に数年分増加した。特に東京電力の供給地域である首都圏では、ピーク需要がこれまでの年平均約150キロワットの増加であったのに対し、その4倍の約600万キロワットも急増した。東京電力は他の電力会社や一部自家発電から融通を受ける一方、割安な料金を条件に需給調整契約を結んでいる大口需要家(主とし工場)への電力供給を最大100万キロワット削減して、電力不足を切り抜けた。これは家庭や事務所ビルなどのエアコンや、最近普及しはじめた工場空調などの高稼働が、好景気で高水準で推移する産業用需要に加わったためであるが、都市がヒートアイランド化し、コンクリートやアスファルトの熱効果が大きくなり、熱を吸収すべき樹木が少なくなったことなどによって自然の暑さ以上に暑くなりピーク需要を押しあげたものと考えられる。一方、発電設備の建設計画が予想を上回る電力需要の伸びに追いつけないことや、首都圏への一極集中の問題や、広域運営の必要制からの9電力体制見直し論まで出てきている。91年以降も、景気や気温次第ではあるが、電力不足の可能性は消えていない。

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釜ヶ崎騒動

1961年8月1日、大阪市西成区の釜ヶ崎で2000余人の自由労務者たちが警察官の交通事故整理をきっかけに派出所へ押しかけ、日頃の鬱積もあって暴徒と化した事件。このあたりは東京の山谷に匹敵する大阪のドヤ街(ヤドの反対読みでスリ師の隠語)で翌日にはヤクザが自警団を組織し、自由労務者の親分、手配師の手を借り、群衆は約1万人に膨れ上がった。警察側はこの無法地帯にまったくお手上げで、5日夜に落ち着きを取り戻すまで、市街戦さながらの有様であった。逮捕者100名をだし、警察官・消防士の負傷者はこの5日間で1300人に及んだ。

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山谷暴動事件

1960(昭和35)年8月1日、午後8時ごろ、東京都台東区の浅草署山谷マンモス交番で、騒いだ男を連行したところ、見物人を含め約3000人が交番に投石したり火をつけたりした。13人が検挙されたが、警官・消防署員ら44名も重軽傷を負った。

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山谷解放委員会

1969年版本誌収録。以下。

例年夏の東京・山谷の労務者騒動は「暑苦しい夏」と「巨人の負けた日」に起こるという説があるが、昭和43年には、その裏側に組織者たちの手による演出があるとみられた。その組織が山谷解放委員会と山谷地域労働組合で、前者は67年1月結成、会員約10名で反日共系、後者はもとの山谷労働協議会で会員約50名、日共グループで、ここにも日共対反日共の抗争がある。

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和歌山ヒ素入りカレー事件

1999年版本誌収録。以下、

夏祭りのカレーに何者かがヒ素を混入した。最初、食中毒と間違え、さらに毒物が青酸カリだと早合点されるミスがあって4人が亡くなった。毒物危機に対する無防備ぶりが悔やまれた。それから1カ月後、ヒ素が絡む保険金殺人未遂と保険金詐取疑惑が浮上、毒カレー事件解決の突破口になりそうな雰囲気だ。7月25日夜、和歌山市園部の住宅街の空き地で開かれた自治会主催の夏祭りで、手作りのカレーライスを食べた住人が、食後すぐに吐き気などを訴え、手のしびれ、不整脈などの症状を起こして病院に運ばれたが、自治会の会長(64)と副会長(54)、それに小学4年の男児、高校1年の女生徒の4人が翌日に死亡、42人が入院する事態となった。当初食中毒と考えられたが、すぐに青酸中毒に変わり、8日後になって毒物はヒ素の中でも亜砒酸(ヒ素には毒性はないが、亜砒酸などの化合物は農薬や防腐剤に用いられ有毒。体内に吸収されると内臓や毛髪、爪などに蓄積。致死量は体重1kg当たり1.4mg)であると発表された。カレーには約250gのヒ素が混入されていた。カレーは自治会の女性メンバー約20人が調理、正午ごろにできあがり、味見をした人に異常はなかった。この日の祭りの参加者は165人。約7割が地元自治会の住人で、残りが近隣住民の友人や親戚などだった。現場はJR和歌山駅から北へ約3kmの住宅街。同自治会は69世帯、約220人。とくに現場の会場は、すぐ先は袋小路で、祭りそのものを知る人は限られていた。住民は互いに疑心暗鬼となって、気まずい空気が流れた。事件発生から約1カ月たった8月下旬、和歌山東署の聞き込みからヒ素中毒症状を訴えているB(46=元会社社長)とC(35=無職)をみつけた。しかも、この2人は毒カレー事件が発生した園部地区の住人A(53)宅に度々通って会食。不思議なことに会食後にいつも体の不調を訴えた。そして、この2人にはAが介在した2億4000万円の保険が掛けられていた。保険金の受け取りはBが経営していた健康食品販売会社(現在は休眠状態)で、入院給付金などの保険金はAのもとに流れるようになっていた。Cの爪からは通常の100倍に当たるヒ素が検出された。不自然な保険は生命保険、損害保険、共済保険など11人に総額17億9000万円が掛けられ、すでに給付された額は4億5000万円にのぼるという。A夫人(37)は1990(平成2)年から6年半の間、大手保険会社の外交員をしており、保険には詳しい。また、脚に火傷を負って重度障害者の認定を受けているのだが、車の運転はもちろん、ぴんぴんしており、これも年金や入院給付金の詐取疑惑が出てきた。BはA夫人に頼まれて、保険契約時の健康診断を身代わり検診をしたことが何度かあったことを認めている。そのほか、A夫人の実母と元従業員の死、さらに夫Aのヒ素中毒症など多くの疑惑がもちああがっており、これらすべてにA夫人がかかわっているとの見方も出て、すでに「平成の毒婦」などとよぶ週刊誌もあるほど。また、問題のカレー鍋には2度近づいていたことがわかっている。A夫妻はマスコミに登場して潔白を主張している。なお、10月4日、A夫妻は別の保険金疑惑で、和歌山県警に逮捕された。

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和歌山カレー事件報道

2000年版本誌収録。以下。

マスメディアは1998(平成10)年7月25日に和歌山市園部地区の夏祭り会場で起きた毒物混入カレー事件を、発生から1周年まで大きく報道した。『朝日新聞』が8月25日に、地区内の民家で男性がヒ素中毒症状を起こしており、「民家の住人」に保険金疑惑があると報道。それ以来、40日間にわたって民家を報道陣が包囲した。夫妻が10月4日に別件の容疑で逮捕された際には500人を超す報道陣が殺到。妻がカレー事件で逮捕されたのは12月9日(4回目の逮捕)だった。2人は供述調書を1通もとられなかった。捜査を指揮したのは、甲山事件の被告・山田悦子さんを再逮捕したときの主任検事だった逢坂貞夫大阪高検検事長(99年6月退官)である。

和歌山報道には、(1)無罪推定を尊重し、被疑者に対して社会的制裁は行わないなど80年代後半に実施された小改革が吹っ飛んだ、(2)「別件逮捕は匿名」というルールが無視された、(3)ニュースソースをほとんど明示しないで、捜査官からのリーク情報を、「…とわかった」などと断定的に報道した、(4)代用監獄を悪用した超長期間の取り調べをまったく批判しなかった、(5)逮捕された妻が女性であることを強調し、見出しに姓ではなく名前を使ったり、逮捕前の映像を繰り返し使うなど、性差別的な報道があった、などの問題があった。「弁護士が黙秘をさせている」などという弁護士を非難する社会的風潮を生み、中村正三郎法相が99年1月、弁護士批判を行った。

事件初公判は5月13日、和歌山地裁で開かれ、妻は保険金事件は大筋で認め、カレー事件については完全に否認した。裁判報道も検察側の主張を大きく一方的に伝えており、フェアとはいえない。カレー事件の被害者は被告の妻に損害賠償請求を行っているが、死亡した被害者4人の遺族は参加しておらず、裁判の傍聴もしていない。日本新聞協会は『朝日新聞』の和歌山カレー・保険金詐欺事件取材班に99年度の新聞協会賞を与えた。「警察が強制捜査に入ることをスクープした」というのだ。これほど日本の新聞界の退廃を示すものはない。

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