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アテネ・オリンピックのキーパーソンからキーワード
 

吉原知子  よしはら・ともこ

1970年2月4日生まれ。 北海道出身のバレーボール選手。

セリエA

セリエはイタリアのスポーツリーグの名前。日本ではサッカーを指すことが多いが、野球やバスケットボールなどもある。Aを最高峰とし、B、Cなどがある。バレーボールの場合、Aは1と2に分かれており、入替えもある。A1には欧米をはじめ世界の超一流選手が集まっており、世界最高峰リーグと言われる。総当りのリーグ戦を行い、上位8チームがプレーオフで優勝を争う。吉原は1994年、セリエAアンコーナに移籍。その後ローマに移籍してプレーオフ出場を果たした。

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山田重雄

元全日本女子バレーボール監督。都立三鷹高校の監督から実業団日立武蔵(当時)の監督に転身。データ重視の知将として日本リーグ18回優勝など日立黄金期を築いた。全日本監督としてはメキシコ・オリンピック銀メダルをはじめ、1974年世界選手権、1976年モントリオール・オリンピック、77年W杯を制し、世界3冠に輝いた。88年全日本監督を退任。98年逝去。吉原は山田氏のじきじきのスカウトを受けて高校卒業後、日立に入社。「勝つ」バレーを叩き込まれた。

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パイオニア・レッドウィングス

山形県天童市を本拠地とするバレーボールVリーグチーム。1979(昭和54)年、東北パイオニアの福利厚生クラブとして発足。85年に実業団東部地域リーグに初参加。96(平成8)年、地域リーグを制覇して実業団リーグ(現V1リーグ)入り。1999年にVリーグに昇格した。2003〜2004年第10リーグで初優勝。吉原は02年、在籍していた東洋紡が休部となったため、以前師事していたことのあるセリンジャー監督の誘いを受けてパイオニアに入団。ポジションはセンター。

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アキレス

吉原は1988(昭和63)年日立入りした直後にアキレス腱を断裂、3ヶ月の療養生活を余儀なくされた。アキレスとはギリシャ時代の英雄で不死身の異名を誇っていたが、トロイ戦争の際、かかとの上部に毒矢が当たって死んでしまったという言い伝えがあることからこの急所をアキレス腱と呼ぶ。

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妹背牛町

もせうしと読む。北海道旭川市から南西に40km、雨竜郡に位置する人口4000人強の町。山のない平坦な土地は肥沃で、米作に適している。アイヌ語の「モセユーセ」(イラクサの茂るところ)が変化してこの名がついた。1923(大正12)年に当時の深川町から分村、52(昭和27)年に町制に。バレーボールが町技となっていて、24時間バレーボール大会なども催されている。吉原は同町出身で、1985年妹背牛商業高校の女子バレー部に入部。インターハイに出場し、在学中に全日本入りを果たした。

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日本一のセンター

6人制バレーボールのポジションの一つであるセンター。コート中央でプレーする選手で、ブロックをはじめ速攻、囮など多彩な技と機敏な反応が必要。身長の高い選手が向いているとされる。前衛・後衛両方にいるが、どちらかというとレシーブを苦手とする選手が多く、後衛に回ると守備のスペシャリストであるリベロと交代することも。吉原は長年に渡ってセンターポジションについており、視野の広さ、相手をかく乱する技の巧みさで日本一のセンターと呼ばれた。

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星野仙一

元プロ野球選手。1947(昭和22)年岡山県生まれ。明治大学から中日ドラゴンズに入団し、エースとして活躍。14年間で146勝34セーブ、巨人キラーとしても有名。82年に引退、解説者を経て中日ドラゴンズ監督に就任。熱血指導で2度のリーグ優勝を果たす。2002(平成14)年には低迷の続く阪神タイガース監督に就任、03年、18年ぶりのリーグ制覇に導き、名将の名を欲しいままに。選手を導く「勝ちたいんや!」の言葉は03年の流行語大賞に。現在は阪神タイガースシニアディレクター。吉原は星野の大ファンで、テレビ解説のためアテネを訪れていた星野に遭遇し、大喜びしたそうだ。

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年齢制限

シドニー・オリンピックに際して、日本バレーボール協会は選手の若返りを期して年齢制限を設けた。ボクシングなど、その「選手資格」についての年齢制限を設けているスポーツもあるが、代表選手の選考にあたって年齢制限を設けるのはレアケースといってよい。この年齢制限を理由に吉原はシドニー代表には選ばれなかった。1992年のバルセロナ、1996年のアトランタ・オリンピックに続いてのシドニー出場に高い意欲を持っており、また実力的にも日本一のセンターという評価を受けていたにもかかわらず、である。しかし、アテネに向けて2003年に監督になった柳本氏の意向で年齢制限は撤廃され、吉原は7年ぶりに33歳で全日本主将として復活を果たす。柳本ジャパンの精神的支柱としての活躍は周知の通りである。

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キャプテンシー

英語表記はcaptaincy。チームの長、主将(キャプテン)としての地位、資格という意味だが、日本ではキャプテンとしての資質、精神のような意味に用いられることも多い。吉原は2003(平成15)年3月、柳本監督の「主将として全日本に参加して欲しい」という要請に対し、当初は断っていたが最終的にはオリンピックの経験や勝つことへの執着心を後輩に伝える必要性を感じて受諾。17歳から33歳という幅広い年齢層と、独特の個性を持った選手たちを強い“キャプテンシー”で一つのチームにまとめあげた。

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日立バレー選手解雇騒動

吉原知子は1994(平成6)年、バレーボール選手のプロ化を推進しようとする協会と反対する企業側のせめぎあいの中で矢面に立たされ、当時所属していた日立を突如解雇された。前日にはVリーグ発足のパーティが行われたばかりだった。応接室へ呼び出されて解雇を宣告され、その日のうちに住んでいた寮も退去させられたというこのドタバタ劇は、当時大きな話題を呼んだ。しばらくは一緒に解雇された大林素子の家に身を寄せ、その後ともにイタリアへ渡った。

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