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オリンピックの歴史に燦然と輝くキーパーソンからキーワード
 

アベベ・ビキラ  Abebe Bikila

1932年8月7日生まれ。エチオピアのマラソン選手。

裸足のアベベ

1960年のローマ・オリンピックでは、エチオピアのマラソン選手アベベが、「裸足」で石畳のアッピア街道を駆け抜け、なおかつ群を抜いた速さで世界記録を樹立して金メダルに輝いたことに世界中が驚いた。ただ、彼は裸足で走ることを信条としていたわけではなく、たまたまシューズが壊れ、それに替わるシューズをローマで調達できなかったために、裸足で走ったのである。4年後の東京オリンピックでは他の選手と同様にシューズを履いている。

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アディスアベバ

標高2400メートルに位置するエチオピアの首都アディスアベバにはアフリカ連合(AU)の本部が設置されている。裸足のランナー・アベベは、このアディスアベバ近郊で生まれた。今でこそ、多くの一流のスポーツ選手が酸素濃度の低い高地でトレーニングを行うが、アベベは幼い頃から自然な形で高地トレーニングを積んできた。さらに19歳でエチオピアのハイレ・セラシエ皇帝の親衛隊に入隊した後は、スウェーデン人のオンニ・ニスカネン少佐にその素質を見出され、彼から科学的トレーニングを受けトップ・ランナーへと成長していった。

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アッピア街道

1966年のローマ・オリンピック、アッピア街道を駆け抜けコンスタンティヌス凱旋門を抜けてトップでゴールするアベベの勇姿に、エチオピアの国民は熱狂した。なぜならエチオピアは、1937年から1941年までイタリアに占領されていたからである。アッピア街道は古代ローマがアフリカ遠征する際に通った道であり、また、凱旋門は古代ローマの勝利を記念して建てられたものである。そうしたローマの地でアベベが勝利することは、エチオピアの人々にとって侵略された恨みを晴らすことを意味した。

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パラリンピック

国際パラリンピック委員会(IPC)が主催する障害者による世界最高峰の競技大会。1960年に、ローマで開催された国際ストーク・マンデビル大会を第1回大会とし、その後オリンピックの年に開催されている。88年のソウル大会より、パラリンピック(パラ=Parallel(もう一つの)+Olympic(オリンピック))という大会名を公式に使用するようになった。

半身不随となったアベベは、ランナーとしての選手生命を絶たれたが、スポーツに賭ける情熱が衰えることはなかった。事故からわずか4カ月後に開かれたパラリンピックでアーチェリーと車椅子レースの2種目に出場した。さらに71年には、ノルウェーで行われた身障者スポーツ大会の犬ぞりレースで優勝を果たしている。しかし、73年10月25日に、脳出血のため41歳という若さで亡くなる。彼の遺体はアディスアベバの西北に位置するセント・ヨセフ墓地に眠っている。

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走る哲学者/人間機関車

アベベは、裸足で走って勝利したことから「裸足の英雄」とよばれる一方、苦しげな表情を見せることなく黙々と走り、加えてゴールした後でもほとんど表情を変えることなく柔軟体操をするその姿から、「走る哲学者」ともよばれた。1952年のヘルシンキ・オリンピックで優勝した「人間機関車」ことザトペックのもがき苦しむような表情とは対照的だった。64年の東京オリンピックでは「最大の敵は自分自身だ」という言葉を残している。

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アフリカン・ランナー

アベベは、1968年のメキシコ・オリンピックでは敗れたものの、これに替わって金メダルを獲得したのは、同じくエチオピア代表で皇帝の親衛隊に属していたマモ・ウォルデだった。エチオピアからすればマラソン3連覇の達成でもあった。その後エチオピアだけでなく、数多くのアフリカ人選手がマラソンで活躍するようになった。デンシモ(エチオピア)、サラ(ジプチ)、イカンガー(タンザニア)、チュグワネ(南アフリカ)といった選手がアベベらの後に続く。

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