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国連がとめられなかったアメリカの覇権
―― 大国とは…の特集
 

正義と決議

国連総会強化決議案(1951)

本誌1951年版収録。以下、

国連憲章第43条ないし48条は、安全保障理事会が国際間の平和と安全の維持又は回復に必要な場合に武力行動を執ることができるように規定している。しかし、第43条による安全保障理事会と加盟国との間の兵力その他の提供に関する特別協定は、大国間の意見の不一致のため締結を見ず、従って安全保障理事会は自ら使用すべき兵力を持っていない。この状況に処し、国連の機構内で新しい侵略の脅威に対して有効な集団的行動を採りうるように、米国外6カ国によって提出されたのが国連総会強化決議案である。同決議案は総会政治委員会での採択を経て、1950年10月19日総会本会議で採択された。その骨子は<1>安全保障理事会が行動を妨げられたときは24時間の予告で総会の緊急会議を招集しうること、<2>総会は紛争地域に安全平和巡視隊を設置しうると、<3>総会が各加盟国に対し、その国家軍中に国連部隊を指定し国連のために服務する準備態勢を備えるよう勧告すること、<4>総会が集団的措置を検討する委員会を設置すること等である。

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国連総会強化決議(1978)

本誌1978年版収録。以下、

正確には「平和のための統合」決議(Uniting for Peace Resolutions)1950年11月第5回国連総会で採択された3つの決議で、安全保障理事会が拒否権のため活動できない場合、緊急特別総会が招集されうることを規定し、緊急総会が侵略防止の勧告をなしうることを明らかにした。決議にもとづき、これまで5度緊急総会が招集された(56年11月エジプト問題とハンガリー問題で1回ずつ、58年8月レバノンなどの中東問題、60年9月コンゴ問題、67年6月の中東問題である)。その他の主要事項として平和にたいする脅威を現地で監視する平和監視委員会、集団安全保障措置の強化を研究する集団措置委員会の設置、加盟国にたいし総会または安全保障理事会の勧告に応じて国際連合部隊として活動する軍隊の維持の勧告などが含まれている。ソ連など5カ国はこの決議に反対した。

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緊急安保理事会

本誌1978年版収録。以下、

緊急の問題で開かれる国連安保理事会のこと。国連憲章上の正式の名称ではない。キプロス紛争で1963年12月に、イギリスとキプロスが安保理事会を緊急に開くことを要請して以来、この俗称が生まれた。73年10月、中東危機にさいして開かれたのも、74年2月イラク、イラン紛争にさいして開かれたのも、76年3月、南アフリカのアンゴラ侵入にさいして開かれたのも、その一つである。しかし、憲章上では、安保理事会はいつでも開ける態勢になっている(第28条)から、とくに緊急理事会と呼ぶ理由はない。この点で総会が時期を定めて開かれるのと異なる(ただし、総会も緊急事態の発生に対処するべく「国連総会強化決議」で緊急総会を開けるようになった)。

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非植民地化決議

本誌1978年版収録。以下、

resolutions on the implementation of the declaration on decolonization 植民地独立宣言の採択以来、国連総会はしばしばその履行に関して決議を採択してきたが、これを非植民地化決議という。とくに1971年12月14日に採択されたものは、植民地人民の自決権行使の闘争の正当性を承認して、すべての国家、国連機関、専門機関がこれに精神的、物質的援助を与えることを勧告している。これに対し日本など22カ国棄権、南アなど5カ国は反対した。

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反シオニズム決議

本誌1990年版収録。以下、

1975年2月10日に、国連総会で成立した決議で、「シオニズムは人種主義および人種差別の一形態である」という主文をふくんでいる。賛成72、反対35、棄権32で、日本は棄権した。同日に採択された「パレスチナ解放機関(PLO)代表のジュネーブ会議参加招請」決議および「パレスチナ民族の基本権行使に関する委員会設置」決議、ならびに12月5日に採択された「イスラエルへの軍事的経済的援助停止」決議とともに、PLOの地位の向上とイスラエルの独立化をもたらし、アメリカはこれに対する激しい反発を示した。なお75年12月17日、ユネスコも、国連の反シオニズム決議を支持する決議を採択し、これに反対したアメリカ、イスラエル、EC加盟9カ国のユネスコ代表は、同日以降の会議出席をボイコットした。このため76年のユネスコ総会は反イスラエル決議を修正する新たな決議を採択した。

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アラブ10カ国決議

本誌1962年版収録。以下、

レバノンの反乱、イラク革命、それにつぐ米英のレバノン、ヨルダン進駐などの中東紛争を解決するため開かれた国連緊急総会(1958年8月8〜21日)で、紛争のもとになったレバノン、ヨルダンをも含めたアラブ10カ国共同で提出した決議で、全会一致で採択された。<1>領土保全と主権の相互尊重の原則、不侵略、他国の国内問題への不干渉、平等互恵の原則(平和5原則のうち平和的共存のみを除いたもの)にもとづいて、国連加盟国が行動すること、<2>ハマーショルド事務総長により両国からの外国軍の撤退を容易にする取り決めを結ばせる、<3>国連中心のアラブ経済開発機関をつくる、<4>事務総長は9月30日までに第1回報告を行なう。これ以前、米英軍の進駐以来、安保理事会で日本を含む4カ国の決議案が提出されたが、いずれも成立せず、7月19日から、中東問題打開のために米ソ両首脳による往復書簡で中東問題のための巨頭会談の開催が図られたが、けっきょく7月31日から8月3日までのフルシチョフと毛沢東の中ソ会談を転機に8月5日、ソ連の緊急総会要請と変わり、アメリカとイギリスが受諾して8月8日からの総会となった。実質討議は13日から始められたが、アイク大統領自らの出席で打ち出したアメリカ案(間接侵略論を支柱の一つとして、経済開発に重点をおくもの)とソ連案(米英軍の即時撤退を中心とする)との間に、インド案、ノルウェーほか7カ国案などが並び、いずれとも結着がつかなかった。このとき突如8月19日のナセルとサウジアラビアのファイサル皇太子とのカイロ会談をはさんで、アラブ10カ国がアラブの問題はアラブでという線を打ち出し、幕切れのどんでん返しで右の決議が成立した。撤兵の時期、方法その他はすべて事務総長に一任されているが、前のスエズ紛争後の英、仏、イスラエル軍の撤退の延期にかんがみて、決議の実効性は非常にむずかしい。アラブ、特に民族主義者と正面から対立する王家をいただくヨルダン財政の貧困が解決をさらに困難にしよう。アラブ連合共和国の成立以来とみにその傾向を強くするアラブの大同団結ができるかどうかのかぎはこの辺にある。

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平和(侵略)監視委員会

本誌1969年版収録。以下、

1950年11月2日国連総会で採択された総会強化決議の1項で設置を認められた委員会。平和観察委員会ともいう。10月総会で、米国、英国、フランス、カナダ、トルコ、フィリピン、ウルグアイの7カ国が共同提案した「平和のための統合」決議案中に「国際的緊張の存在する地域の情勢の監視と報告を任務とする平和監視委員会の設置」が含まれ、ソ連も原則的に同意した。委員会構成国は小国のみとする原案にたいしソ連の反対があり、けっきょく5大国を含む14カ国が選出された。この委員会は、憲章第22条にもとづく総会の補助機関であるが、安保理事会もこれを利用しうることになっている。この委員会は任務の遂行に当たって、国連の使節団が観察監視の任務につくとき現地でこれを援助する資格があり、かつ国連の権限ある機関の求めに応じサービスを提供する者の名簿表にもとづく現地観察者隊の援助を受けることができる。52年1月、委員会はギリシャ国境地域における観察を行なうためのバルカン小委員会を設置した。

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対称性(シンメトリー)の原則

本誌1990年版収録。以下、

Principle of symmetry 問題当事国や関係国での問題解決の際、一方が他方より不利な条件ではなく、両者が対等の条件の立場から問題の決着をつけることをいう。1988年4月にジュネーブで「アフガニスタン和平協定」が調印され、その中で米ソ両国は、アフガニスタンとパキスタンヘの不干渉・不介入とその国際保証とを約束したものの、他方で、米ソがそれぞれ支持する勢力への武器援助の継続にも合意したようだ。アメリカは、和平協定調印前から軍事援助問題に関して「対称性の原則」を主張してきた。ソ連による軍事援助がアフガニスタン政府に行われる以上、アメリカも反政府勢力への軍事援助が継続されるべきとの主張が繰り返しされてきた。この問題に対するソ連側の態度が消極的であったため、米ソが相互に軍事援助を継続していくとの合意に至ったようだ。米ソ両国の軍事援助継続を前提とするソ連軍撤退は、アフガンを第2の「レバノン化」することも考えられよう。

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国連イラン・イラク戦争停戦決議

本誌1989年版収録。以下、

1987年7月20日、国連安全保障理事会が全会一致で採択した598号決議で、イラン・イラク戦争の即時停戦、公平な機関による紛争の責任調査、など10項を決定している。特に最後の項目で、決議を実施させるため「必要に応じて再会合し、追加的措置を審議する」とのべており、これは関係国が停戦に応じない場合は経済制裁や武器禁輸などの強制措置をとる含みを残したものである。これに対して、イラクは条件つきで受諾、また「開戦責任のあるイラクの処罰が先決」と不満を表明したイランも、1年後の88年7目に受諾した。

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