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国連がとめられなかったアメリカの覇権
―― 大国とは…の特集
 

英仏という“くせもの”

英国、フランスは、とびぬけて外交に長けているというのが評判だ。それは第2次大戦後、覇権国としての地位を失い、大国の権威から転げ落ちてゆく過程で、幾多の苦い経験をした――それが肥やしとなっているはずだ。

全方位外交時代

本誌1973年版収録。以下、

1972年のニクソンアメリカ大統領の訪中により、米中両国間の関係調整が端緒についたが、これによって世界は「全方位外交時代」に入ったといわれた。それまでアメリカはソ連と接触するが中国とは断絶しており、中国もソ連と接触するがアメリカとは断絶しており、ともに一方的外交だったのが、補修された。すでにド・ゴールはフランスを全方位外交に転換させたが、イギリスもEC加入にふみきり、西ドイツもブラントの東方外交で、いずれもバランスのとれた外交姿勢を確立しつつあり、これらを総合して「全方位外交時代」の到来というわけである。

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フランス核戦略

本誌1985年版収録。以下、

フランスはドゴール以来、戦略核兵器による即時大量報復の核戦略を取ってきた。1980年6月26日にジスカールデスタン大統領は82、3年にも中性子爆弾の生産体制を決定することができることを明らかにした。81年5月にミッテラン社会党党首がジスカールデスタンを破って大統領に当選し、社会党政権の誕生をみた。ミッテラン政権は、外交的には西側の一員としてとどまる姿勢をとり、81年6月9日の記者会見で、間接的表現ながら、中性子爆弾の準備を進めていることを認めた。

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フランス連邦構想

本誌1983年版収録。以下、

英連邦のようにフランス語圏諸国による連邦組織を設立する。1980年5月に開かれた第7回フランス・アフリ力首脳会議において、セネガルのサンゴール大統領の提案という形で出され26カ国の首脳が参加したこの会議で採択された。アフリカに対する影響力を増大しようとしてきたフランスの意図がみのったといえよう。同連邦は首脳会議を2年に1回開催し、事務局はパリに置かれる。80年11月5日にセネガルのダカールでフランス語圏諸国の外相が集まり第1回「フランス連邦」首脳会議開催の準備を討議した。

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フランス語圏諸国首脳会議

本誌1987年版収録。以下、

フランス語を使用する諸国(人口約1億1000万人、世界12位)の協力強化を図るため、1986年2月、38の国・地域の首脳の参加を得て、パリで最初の首脳会議が開催された。議題は<1>ACCT(文化・技術協力機関)の役割強化、<2>語圏をカバーするデータ・バンクとニュー・メディアの開発、<3>出版など言語関連産業の振興。

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フランス共同体

本誌1962年版収録。以下、

フランス第4共和国の時代、本国植民地を含めたフランス全体は「フランス連合」と呼ばれていたが、第5共和国では「フランス共同体」と呼ばれる。イギリス連邦に類似するが、各構成共和園は国防、外交、通貨の権限を行使できず、イギリス連邦におけるほど独立性をもたない。

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フランス連合

本誌1962年版収録。以下、

Union Francais 1946年の憲法により設けられたもので、フランス共和国(本国、海外諸県、諸領)とべトナム国、カンボジア王国の連合諸国から構成されていた。おのおのが対等の立場に立つという建て前でイギリス連邦と同じ形式をとっていたが、実質上の指導権は、フランス本国が握り、インドシナ3国などは従属的地位にあった。そこにインドシナ問題(反植民地闘争)の根拠が宿されていた。58年の第5共和国の憲法では、この憲法に賛成する海外植民地に自治権を与え「コミュノーテ」と呼ぶ名の「フランス共同体」(現在8力国)がつくられた。

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アルジェリア問題

本誌1959年版収録。以下、

アルジェリアはフランス本国の約4倍もある北阿の農業国で小麦とブドー酒が主産物だが、良質の農地の大半は僅か100万のフランス人が握り、現地のアラブ人800万は貧困に喘いでいる。1947年フランスはアルジェリアを本国の一部に編入し現地のアラブ人にも市民権を与えて懐柔したつもりでいたが、東隣の仏保護領チュニジアが7月に広汎な自治権を与えられるや、西隣の仏保護領モロッコとともに現地民の不満が爆発、各地に大規模な反乱が起った。フランスは12万5000以上の軍隊を派遺し武力弾圧を行っているが側面から自治独立運動を応援するアジア・アラブ諸国がこれを国連に提訴、9月の国連総会で議題に採択されたため仏代表団は内政干渉だと憤慨、国連代表団を引揚げてしまった。その後56年3月フランスがモロッコに独立を与えたため、アルジェリア独立にもかっこうの武器が与えられ、7月には、ユーゴ・インド・エジプト3国首脳がブリオニ島に会談し(ブリオニ会談の項参照)、アルジェリアの自治独立を支持する宣言を発表、第11総会では国連憲章に従い平和な民主的な解決をすすめる両者の主張を組合わした決議が採択された。

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アルジェリア反乱

本誌1962年版収録。以下、

ドゴール仏大統領のアルジェリア民族自決政策に反対し、エビアン会談の企てにあせりを感じた「アルジェリアはフランスのもの」(アルジェリー・フランセーズ)を主張する現地軍の、サラン、シャル、ジュオー、セレル4将軍の共謀で、1961年4月22日に起こされた反乱。ドゴールの強い決意と行動のもとに反乱軍は分裂し、反乱は4日間で失敗に終わった。ドゴールは5月8日のラジオ・テレビ放送で、現地反乱があってもアルジェリア政策は不変であることを明らかにした。

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アルジェリア・ドゴール案

本誌1962年版収録。以下、

ドゴール大統領が1959年9月に明らかにしたアルジェリアにたいする新政策で、アルジェリア平定後4年以内に普通選挙による住民投票を行ない、アルジェリア人自身にアルジェリアの運命(独立、フランスとの完全統合、自治のいずれか)を決定させるという内容をもつ。この民族自決の新政策は国連総会のアルジェリア間題討議に備えて作成されたものといわれるが、アルジェリア臨時攻府側は、自己の合意と完全独立を要求しながらも、フランス政府と交渉の用意がある旨を言明した。この新対策が60年1月のアルジェリア暴動のもととなったが、暴動鎮圧に強い態度をとったド大統領は、民族自決政策の実施と引き換えに、自分を擁立した右派のスーステル国務相を免職にふした。

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モロッコ・フランス共同宣言

本誌1959年版収録。以下、

仏とモロッコは56年3月2日、モロッコ独立の共同宣言に調印した。この宣言の骨子は<1>1912年の両国間のフエズ条約(モロッコを仏の保護国に定めたもの)を廃棄すること<2>仏はモロッコの独立を承認し、モロッコの外交権と軍隊保有権を認めること<3>モロッコ首長がモロッコ内の立法及び行政権を行使することである。なお、仏・モロッコ間の交渉が始ったのは55年8月のフオール仏政府とベン・アラフア首長間のエクス・レ・バン協定の成立後であり、この協定によってモロッコに摂政会議が設けられ、10月にベン・アラフアは、タンジールに退位、11月初めにマダガスカルから前首長ベン・ユーセフが帰国、パリでピネー仏外相と会見し、モロッコを立憲君主国とするという、共同声明を発表した。これと同時に、ペン・ユーセフ新首長の丁に民族主義者を含む挙国一致内閣が生れ、首相にシ・ベッカイが就任した。モレ内閣となってからも両国の交渉は、シ・べッカイ首相とピネー外相との間で統けられ、ついにこの共同宜言となったものである。モロッコのこの独立獲得の成功は、チュニジア、アルジェリアの独立問題にも大きな影響を与えた。

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英・エ協定

本誌1955年版収録。以下、

イギリスが72年間のスエズ占領から手を引くことを定めた協定。3年間の長い交渉ののち、54年7月27日妥結した。100年前にフランス人レセップスがスエズ運河を開通させたのち、イギリスは、1875年同運河の株を買収、1882年アレキサンドリアに暴動が起きたのに続いて、その投資と戦略的に重要な運河を保護するために、カイロを占領して軍事的支配を確立した。その後、エジプト国民間に反英感情が増大してきたため、1922年に形だけの独立をエジプトにみとめ、1936年にイギリス軍のスエズ基地駐留を定めた英エ同盟条約を結んだ。第2世界大戦後の民族主義運動の高まりの結果、ここでもその解放が叫ばれ、1951年当時のナハス・エジプト首相の条約の一方的廃棄の宣言以来、英エ間に流血事件の起らない日はなかった。以来3年イギリスは撤退を決意したのである。

新協定は<1>イギリス軍はスエズ基地から20カ月以内に撤退する、<2>アラブ講国とトルコが攻撃をうけた場合、イギリスは同基地を再び利用できる、<3>同基地の維持には英エ両国の民間商社の技師が当る、の3点から成っている。このとりきめは、最近のジュネーヴ会議にもみられたイギリスの徹底した現実外交の現われたが、全世界的な民族運動のまえに、一応イギリス帝国が後退させられたとみることができよう。

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スエズ運河問題

本誌1959年版収録。以下、

エジプトは56年7月26目、スエズ運河の国有化を宣官、運河の通航自由・国際管理及び運河会社の株主への補償等をめぐって、紛争が生じた。スエズ運河会社は運河の完成した1869年から99年間、即ち1968年まで特許権を待っている。1888年のコンスタンチノープル条約で列強は通行の自由を平時戦時を問わず守ること、遅河を中立化すること及びそれらの国際的な監視を取決めた。ナセル大統領は7月26日、運河の国有化を布告したが、その際運河会社の株主に対しては、布告発効時の株式の時価で補償すること及び運河の自由通航を確約した。運河に直接の利害関係をもつ英仏は、国際的な性格をもつ会社をエジプトの国家利益の具にすると反対し、中東の自国権皆保護のために運河を国際管理の下におくことを主張した。この間アメリカはなだめ役に、ソ連及びアジア諸国はエジプト支持にまわった。8月16目から運河利用国によるスエズ国際会議がロンドンで開かれ18カ(国案運河の自由通航確保のための国際管理機関設置)が採択されたが、これを伝達するメンジースとナセルの会談が9月7目に決裂した。その後、英仏における対エジプト経済圧迫、水先案内人の総引揚げ(9・15)、アメリカの希望峰迂回計画及びスエズ運河ボイコット政策の表明(9・16)、第2次ロンドン会議と運河利用国団体の設立(9・21)など緊張した事態が続いた。しかし、問題が国連安保理事会に移されて、10月13日に英、仏、エジプトの間で同意された“6原則”(運河の航行自由、エジプト主権の尊重、運河運営を一国の政治的支配におかない、通航料のエジプトヘの配分等)が承認され、紛争は小康をえたかにみえた。そこへ突如、10月29日に、イスラエル軍のエジプト進撃が開始され英仏は安保理における停戦案を拒否権で葬り、11月1日エジプトと外交関係を断絶した。2日の国連緊急総会での即時停戦を勧告するアメリカ決議をも無視して、5日英仏軍はスエズ地区への上陸を開始、その夜ソ連の武力によっても侵略を阻止するとの重大警告が発せられ、結局6日夜停戦決議を実行するに足る国連警察軍の創設を条件に停戦に同意した。12日にハマーショルド国連事務総長とエジプトとの間に警察軍駐留の協定が成立、警察軍が20日にポートサイドへ到着したのといれかわりに、英、仏、イ軍は撤退を開始した。英仏は12月はじめに最終的な撤退を開始し、1月9日イーデン英首相はスエズ問題の責任をとって辞職、マックミランがこれに代ったが、イスラエル撤退問題は国連の要請にも拘わらず紛糾し、漸く3月8日撤兵が完了した。57年4月8日に運河は完全に再開され、航行は平和的に各国の自由となった。エジプトは今や国際的に比重を高め、中東における民族独立運動の発展に強い影響を与えるにいたった。

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英国のEEC再加盟

本誌1971年版収録。以下、

ウイルソン英首相は1967年5月下院で“英国は欧州共同市場(EEC)への加盟申請を再び行なうことに決めた”と発表し、同時に欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)、欧州原子力共同体(ユートラム)への加入の態度を明らかにした。英国は61年10月からEEC加盟の予備交渉を始めたが、ナッソー協定で米英の特殊関係を再確認したことがドゴール仏大統領の反感を買って、63年1月加盟交渉は流産した。4年3カ月ぶりで再び英国はEECの戸を叩いたが、フランスの態度はいぜんきびしく、67年6月のウィルソン、ドゴール会談でも加盟の見通しは得られなかった。67年10月のEEC理事会ではフランスは再び即時加盟交渉に反対した。しかし、ドゴール退陣後、英国のEEC加盟問題は再び活発となり、69年12月のEEC首脳会談のあと加盟交渉は具体的日程にのぼってきた。

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イギリス連邦(The Commonwealth)

本誌1962年版収録。以下、

イギリスとカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、インド、パキスタン、セイロン、ガーナ、マラヤ、キプロス、ナイジェリアの各国と、その属領で構成され、毎年英連邦首相会議が開かれる。イギリスと他の諸国との関係は1926年のイギリス帝国会議で「イギリス国王を共通の象徴に自由意思で連合しているのであり、その地位は平等、内政上でも外交上でもイギリス本国に従わねばならないということはまったくない」と決められていた。その後アイルランドやインドが独立するにつれ、イギリス国王を共通の象徴とする考え方やイギリス中心主義はだんだん薄くなり、特に最近の英本国の欧州共同市場への接近からそれは著しい。南ア共和国は人種差別政策が強く非難され、61年5月、英連邦から排除された。

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フォークランド(マルビナス)紛争

本誌1983年版収録。以下、

アルゼンチンの大陸部から約500キロの南大西洋上の小島(面積1万2000平方キロ、人口1800人)の領有権をめぐってたたかわれたイギリス、アルゼンチン間の紛争。形式的にはイギリス領であったフォークランドに、領有権を主張するアルゼンチンが(スペイン語では「マルビナス」と呼び、ラテンアメリカではアルゼンチン領と考えられてきている)、1982年4月2日軍事占領を強行したことに端を発した。石油を埋蔵し、また、南極大陸に領有権を主張するための足がかりでもあるこの小島を面子にかけても防衛すべく、サッチャー政権は36隻の艦艇、数千の兵員から成る大機動部隊の派遣を決定した。4月26日、フォークランド諸島の東南東1500キロにある南ジョージア島を奪回。4月30日、それまで調停にあたっていたアメリカ合衆国が、イギリス支援を言明するに至った。5月20日、国連事務総長の調停工作の失敗が明らかになるや、イギリス軍はフォークランドに上陸。激戦の末、6月14日アルゼンチン軍の降伏でもって終結した。

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