月刊基礎知識
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《闘争》の記録簿--いいかぃ!その幸せは“たたかってきたから”手に入ったんだぞ
 

新しい団結の形式

住民運動

本誌1977年版収録。以下、

1960年代の高度成長経済が生み出した工業化、都市化現象は、工業化地域・大都市の住民の生活環境を破壊し、日照権、河川汚濁、交通戦争、騒音などの多様な社会問題を引き起こした。これにたいして、住民の側は、自ら結束して問題の政治的解決に立ち上り地域的利害に密着し、しかも政党や労組の指令によらぬ、従来みられなかった独自な運動を全国的に展開しつつある。その顕著な例、ビル建設による日照権侵害に対して、昭和46(1971)年4月、東京都住民の直接請求による条例(「日当り条例」)制定の試みである。さらに、杉並、練馬、大田区では、区長の準公選制要求の運動が行われ、ここでは住民の行政への直接参加(住民参加)が実現された。

住民運動の活動分野は、<1>保育所、学校教育問題、<2>公害問題、<3>福祉行政、<4>物価・税金問題、<6>交通問題、<6>道路、鉄道などの建設問題と、その内容も数限りなく、また、地域的にも、都市から農山漁村へとひろがり、国民の7人に1人が、なんらかの住民運動に参加経験をもつとまでいわれている。

運動の方法もさまざまで、議会への請願、陳情や条例制定を求める直接請求といった制度化された要求のほかに、デモ、座り込みなどの直接行動もある。これらの住民運動のホコ先の多くは自治体に対して向けられており、自治体がどうこれに対処するかが一番の問題のようだ。

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市民運動

本誌1975年版収録。以下、

60年安保闘争を契機に、高度経済成長にともなう急激な工業化、都市化、情報化を背景として生起してきた運動。既成政党や労働組合の支配系列から独立を保ち、市民を主体とする独特な政治社会運動を展開しつつある。しかし、各政党は、国民の政治的関心の多様化を示すこれらの運動を自己の傘下に組入れようとしており、この運動が、どの程度まで市民生活に根づいた固有の原理を獲得しうるかが、こんごの課題である。

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ピース・ボート

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ベ平連

月刊基礎知識2002年9月号の記事参照

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池子米軍住宅建設反対運動

本誌1998年版収録。以下、

1982(昭和57)年10月防衛施設庁は、神奈川県逗子市の米軍基地である池子弾薬庫跡地に、米軍住宅920戸を建設するためボーリング調査を行った。これを契機に池子周囲の主婦たちを中心に「池子米軍住宅に反対して自然と子供を守る会」が結成された。「守る会」は84年7月、条件付き受け入れを表明した市長をリコールし、その後行われた市長選挙で「守る会」のリーダー富野氏を当選させた。しかし市民派市長と前市長を支持する議会の多数派とは対立を続けた。一方、地元の推移を見守っていた知事は87年5月、県環境影響評価(アセス)審査会の答申に基づき、調停案としての審査書を防衛施設庁に提出した。しかしそれは着工を前提に造成地を2割削減した国よりの折衷案であった。市長は「調停案への判断は民意に委ねたい」と辞職し10月の出直し市長選に解決を求めたが、富野市長が再選され、知事の調停案は市民の意思として否定されたことになった。しかし防衛施設庁は調停案をうけ市長選を待たず住宅建設の付帯工事に着手した。これに対し市長は工事差し止めを求める訴訟を横浜地裁に起こした。しかし判決は市側の敗訴となり、市は直ちに東京高裁に控訴した。またこの裁判とは別に、戦前池子弾薬庫地域に土地を持っていた住民が土地の所有権を確認、返還などを求めて横浜地裁横須賀支部に提訴した。92年10月に言い渡されたいわゆる「池子の森裁判」の判決で裁判長は「土地はいずれも国の所有」として住民の請求を棄却した。こうして工事が進むなかで、90年3月市議選(定数26)が行われ、住宅建設反対派15人が当選し、はじめて過半数を占めた。容認派は11人にすぎなかったから住宅建設の中止を求める地元の態勢はいっそう強まったといってよい。しかし防衛施設庁は「計画どおり工事を行っていく」といい、知事は「問題解決を計れるような提案を出してもらう必要がある」として市側の出方を見守っていた。92年11月に行われた市長選で、富野市長に代わって立候補した住宅建設反対派の沢光代市議が市長に当選した。しかし94年3月、住宅の一部、2階建42戸が完成したのを潮時とみた市長は、これまでの姿勢を一転して積極的に国との和解への姿勢を示し、議会の同意を得て県知事に斡旋を依頼した。池子米軍住宅建設問題で大きな転機となる逗子市、神奈川県、防衛施設庁3者のトップ会談は8月末、前市長が知事の調停案を返上して以来7年ぶりに年内解決を目指して努力することになった。沢市長は「市の理解できる解決案にしてもらいたい」として、住宅戸数の削減、緑の保全などを提案していた。11月に開かれた3者会談で最終合意が成立した。その内容は、<1>平成7年度予算で建設予定の2階建て住宅の大半を高層化し、造成済みの約3ヘクタールを緑地に復元、<2>国はアメリカへの施設提供に当たり、施設内の緑地の保護に配慮する、<3>市は施設内のごみ・下水処理を受け持つ、などの5項目である。市の要望のうち緑地復元は国が譲歩する形となったが、将来の返還については踏みこんだ表現はなかった。この合意成立を受け、97年度までに池子弾薬庫跡地の一部、約850ヘクタールに85戸の住宅が完成することになっていて、97年10月現在606戸が完成して米軍家族が入居しており、残りの248戸は年度末の3月までに完成、4月から入居が予定されている。その結果、住宅建設反対から一転して和解を進めた沢市長は辞任。「池子」問題は今後の公共事業について2つの大きな課題を提起した。一つは地元住民の意見を取り入れる仕組みをどうつくるか、分権、自治に関連する問題である。二つは、事業実施を前提にする現行の環境アセスでは、計画そのものの変更や代替案の検討もされないという問題がある。計画段階で事前にその妥当性を、代案も含めて民主的に検討する「計画アセス」の導入が求められている。

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