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「従軍慰安婦」はどう記載されて来たのか

「従軍慰安婦」はどう記載されて来たのか

従軍慰安婦問題(1993年版1)

まずは20年前、1993年版の〔朝鮮問題〕での記載から。

第2次大戦中、占領地域内での日本軍人による性的不祥事の発生を抑え、軍紀や士気を維持し、性病を予防するために、軍は慰安所を利用し、それを部分的に管理した。慰安婦の募集、慰安所の築造・経営・監督、衛生管理、慰安婦の渡航などに関与したのである。募集の実態は明らかではないが、戦線が拡大するにつれて、日本本土以外、とりわけ朝鮮半島からも多くの女性が前線に駆り出された。詐欺や強制もあったものと思われるが、大部分は民間の業者が介在したようである。

1991年8月、元従軍慰安婦の金学順氏が実名で記者会見し、12月に金学順氏を含む「太平洋戦争犠牲者遺族会」(ソウル)の会員35名が原告になって、東京地裁に個人補償を求めて提訴した。当初、日本政府が軍の関与について否定的に応答したこともあって、92年1月の宮沢首相の訪韓を前に、韓国内の対日感情が著しく悪化した。しかし、韓国の報道が多分にセンセーショナリズムに陥ったこともあり、日本側にも感情的な反発が高まった。

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従軍慰安婦問題(1993年版2)

1993年版「現代用語の基礎知識」、〔女性・男性問題〕での記載から。

1991年12月、旧日本軍の従軍慰安婦だったと初めて名乗りをあげた韓国人女性3人が、強制的に徴用や徴兵された韓国人やその遺族(計35人)と、日本政府に補償を求める訴えを東京地裁に起こした。

日中戦争や太平洋戦争中、旧日本軍は戦地における住民への強姦防止と、性病予防のために慰安所を設置した。慰安婦にされた女性は日本、韓国、朝鮮、中国、台湾、フィリピン、インドネシアなど、その数は10万人とも20万人とも言われ、ほとんどの女性は、日本の敗戦後、軍に撃ち殺されたり、現地に遺棄され、その後の消息はつかめていない。国家の管理のもとに、女子挺身隊などと偽った募集や、強制連行により、女性たちを軍隊の性の処理のために連れ歩いたケースは、世界の歴史の中でも例を見ない。韓国の40の女性団体からなる「韓国挺身隊問題対策協議会」(尹貞玉代表)は、日本政府に事実調査、公式謝罪、生存者への補償などを要求。日本でも「日本の戦争責任をハッキリさせる会」(臼井敬子代表)「従軍慰安婦問題を考える会」(代表 福島瑞穂弁護士)など4団体が「慰安婦ホットライン」を開設。3日間デ230件の証拠、証言が寄せられた。日本政府は「民間業者が連れ歩いていた」と関与を否定していたが、防衛、外務、厚生省などから慰安所の設置、慰安婦の募集・監督・統制などを示す書類や日誌など127件の資料が発見され、92年7月、直接関与していたことを初めて公式に認め謝罪したが、補償については、すでに決着ずみとの立場を崩していない。

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「嫌韓」感情(1993年版3)

1993年版の〔朝鮮問題〕での記載から。

1992年1月の宮沢首相の韓国訪問が従軍慰安婦問題で翻弄されたことを契機に、日本国内の対韓感情が悪化し、それが「嫌韓」とか「厭韓」と表現された。これは「反韓」というほど強いものではないが、韓国との交流に「うみ疲れ」、それを「嫌う」という感情であり、語源は「嫌米」にある。具体的には、「いくら謝罪しても際限がないのではないか」とか、「これ以上の交際は遠慮したい」というもの。これまで「親韓」的であった年配の日本人の間に顕著である。

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従軍慰安婦問題(1995年版)

1995年版「現代用語の基礎知識」、〔外交問題〕での記載から。

第2次大戦中に日本軍が韓国人女性を従軍慰安婦として利用した問題は両国間で問題となっていたが、1993年8月に日本政府が調査結果を公表し、お詫びと反省の意を表明した。

また、細川首相は11月に慶州で金泳三大統領と会談した際にもこの問題を持ち出し、さらに晩さん会の席上、改めて過去の日本の植民地支配について謝罪を表明した。これに対して金泳三大統領は「これ以上過去にこだわることなく前に向かって進まなければならない」と述べ、未来志向型の日韓関係をつくり上げるよう提案した。この問題は政府間ではひとまず決着したと考えられる。

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女性のためのアジア平和国民基金(1996年版)

1996年版の〔女性・家族〕での記載から。

元従軍慰安婦への「償い」を目的とした事業で、政府は1995年6月14日構想を発表。7月18日発足、8月15日から募金開始。基金運営のための公益法人を設けた。よびかけ人は三木睦子・故三木武夫元首相夫人ら20人。理事会、運営審議委員会が組織されている。

その内容は、

(1)国民的償いのための基金を民間募金で、

(2)元慰安婦に対する医療、福祉などの事業への政府拠出金、

(3)政府による国としての反省とおわびの表明、

(4)歴史の教訓とするための、本問題の歴史資料整備。

他に女性に対する暴力など今日的な問題への政府拠出金、等である。

これに対して、「元慰安婦」の女性たちが高齢になり猶予ならない上に、現在の内閣の下でなければ機会を逃してしまうとして、賛意を表する向きと、民間基金に反対し、国家の謝罪と補償を求める根強い反対がある。

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女性に対する暴力(1996年版)

1996年版の〔女性・家族〕での記載から。

この問題に対して欧米の女性運動は1970年代から、日本では80年代から取り組んできた。ところが、女子差別撤廃条約には暴力を直接扱った条項はない。ナイロビ将来戦略では、これは平等、発展、平和と、女子差別撤廃条約の実施に障害になるとしている。93年のウィーン国連世界人権会議で、女性NGOは「女性の権利は人権である」をスローガンに「女性に対する暴力」をメインテーマにした。採択されたウィーン宣言・行動計画にもその根絶がうたわれている。93年末には国連総会は女性に対する暴力撤廃宣言を全会一致で採択。その第一条の定義によれば、「肉体的、精神的、性的または心理的損害または苦痛が結果的に生じるかもしくは生じるであろう性に基づくあらゆる暴力行為」であり、次のものを含む。

(1)家庭におこる暴力(殴打、女児に対する性的虐待、ヒンズー教圏の持参金殺人、夫による強姦、イスラム圏の女性性器切除等)、

(2)一般社会におこる暴力(強姦、性的虐待、職場・教育施設等の性的いやがらせ、人身売買、強制売春等)、

(3)国家による暴力。

95年開催の第4回世界女性会議においても、戦時下の暴力(慰安婦問題を含む)から夫の暴力まで、最もワークショップの多いテーマであった。

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国連人権委員会従軍慰安婦報告書(1997年版)

1997年版「現代用語の基礎知識」、〔国連問題〕での記載から。

国連人権委員会は、1994年3月に「女性に対する暴力、その原因及び結果」に関する特別報告者を選任して女性に対する暴力の廃絶への努力を促進することとし、クマラスワミ女史をこれに任命した。同特別報告者は、96年2月までに3つの「女性に対する暴力」報告書を提出した。そのうちの2ツ目の報告書が、朝鮮・韓国人従軍慰安婦に関するものである。

特別報告者は、日本政府に対し、

(1)旧日本軍の慰安所制度は国際法違反であることを認め、法的責任を受け入れるべきこと、

(2)被害者に対し個人補償を行うべきこと、

(3)関連資料を完全公開すべきこと、

(4)被害者への公的謝罪を行なうべきこと、

(5)教育を通じてこの問題の認識を推進すべきこと、

(6)責任者を処罰すべきこと、を勧告すると共に、ICJの勧告的意見要請や韓国・北朝鮮政府によるICJ提訴も考えうることも提言している。

委員会は、4月19日に、ジェンダーに基づく女性への暴力及び武力紛争時の女性の人権侵害を非難する決議を全会一致で採択した。ただし、従軍慰安婦問題について特別に決議したのではない。

この報告書については、「特別報告者の作業を歓迎し、報告に留意(take note)する」としたにとどまり、報告書自身を採択したのではなく、また報告書の前述のような勧告をそのまま委員会の勧告としたわけではない。しかし、このような報告書が提出されたこと自体は重要であり、日本政府がこの決議や報告書に法的に拘束されるわけではないが、今後のこの問題の処理において何らかの考慮を払う必要があろう。

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自由主義史観(1998年版)

1998年版の〔歴史〕での記載から。

「自由主義史観研究会」を中心に、藤岡信勝氏らによって主張される史観。1997年使用開始の中等教育日本史検定教科書の近代史部分の記述に異議を唱え、その改訂を求めるところから明確化した。近代の戦争について、日本国家の行動への理解が「自虐的」すぎ、歴史を暗く記述しすぎている点、とりわけ従軍慰安婦問題記述が批判の的となった。同会の編集になる『教科書が教えない歴史』がベストセラーとなり、大いに世論に訴えた。政治家の発言におけるいわゆる「歴史認識」問題や、近隣アジア諸国政府の対応とも関連して、賛否両論が闘わされている。

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慰安婦問題は日本政府の責任(金大中)

2000年版「現代用語の基礎知識」、〔話題の人物と発言全集〕での記載から。

「慰安婦問題は日本政府の責任で、日本国民の責任ではない」(1998年9月9日)。

韓国の金大統領が9月9日発売の『世界』10月号(岩波書店)のインタビューに答え、「女性のためのアジア平和国民基金」による償い金の支給について「われわれはハルモニたちが受け取るのに反対した。国民からお金をもらう筋合いがない」「事の本筋をすり替えることになる」などと厳しく批判。日本政府が自主的に国家賠償することを強く望んでいると訴えた。

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事実は私たちの主張通り(アモニタ・バラハディア)

2000年版「現代用語の基礎知識」、〔話題の人物と発言全集〕での記載から。

「判決は、事実は私たちの主張通りだといいながら、請求をすべて退け、悲しみの声を無視した」(1998年10月9日)。

太平洋戦争中、旧日本軍が占領していたフィリピンで「従軍慰安婦」として性的暴力を受けた女性46人が日本政府を相手取り損害賠償を求めた訴訟で。この日東京地裁は「ハーグ条約は個人の直接請求権の根拠とはならない」とアモニタさんらの訴えを棄却。女性達が受けた被害の実態については判断を示さなかった。

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戦後補償(2000年版)

2000年版の〔人権問題〕での記載から。

日本による台湾や朝鮮半島の植民地支配が及ぼした被害や、戦争中の強制連行、徴用、徴兵などが、中国、朝鮮民族や個人に及ぼした被害の補償を戦後補償とよぶ。

被害を受けた個人やその家族に補償金が支払われるほか、民族全体に及んだ被害や被害者、補償額の特定が困難な場合などについて、補償に代えて基金を積み立てて歴史の保存や教育などに使う全体補償もある。従軍慰安婦に関するアジア女性基金はその例だが、謝罪の趣旨が不明確であり、批判も強い。戦後補償のアイデアは、アメリカやカナダが行った第2次大戦中の日系人強制収容への補償や、ドイツが行ったユダヤ人迫害への補償などを参考にして考えられてきた。なお、朝鮮民主主義人民共和国との間では、戦後処理や国交回復が遅れたことから生じた被害についても戦後補償の一部として話し合われた。

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教科書論争(2001年版)

2001年版の〔日本史〕での記載から。

1995年、「自由主義史観研究会」は戦後の歴史教科書に対し、戦勝国のプロパガンダをうのみにした歴史観であるとし「自由な立場からの大胆な歴史の見直し」を主張した。96年には「新しい教科書をつくる会」が発足。政界や地方議会などとも連携し、教科書からの従軍慰安婦記述の削除などを求める運動を展開した。98年にはマンガ家小林よしのりの『戦争論』が刊行された。さらに新しい教科書を検定申請すべく、99年10月には西尾幹二『国民の歴史』が刊行された。現在の歴史修正主義はポストバブルの不安感覚を背景に、利己的思想や行動を克服すべく「日本」「日本人」「日本国家」という価値を強調するナショナリズムの噴出という点に特色がある。

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女性国際戦犯法廷(2002年版)

2002年版「現代用語の基礎知識」、〔ジェンダー・家族〕での記載から。

「日本軍性奴隷制を裁く『女性国際戦犯法廷』」のこと。2000年12月8〜12日、東京で開催。「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク(VAWW-NETジャパン)と韓国・フィリピンのNGOも加わった国際実行委員会主催。海外から被害経験者を含む400人とのべ5000人以上が参加した。「従軍慰安婦」問題が女性に対する暴力であり、責任者処罰、世界の紛争地域における性暴力問題も提起した国際民間法廷。

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NHK「慰安婦」番組改変で訴訟(2002年版)

2002年版「現代用語の基礎知識」、〔ジャーナリズム〕での記載から。

「NHK教育テレビETV2001『シリーズ 戦争をどう裁くか』第2回『問われる戦時性暴力』」(2001年1月30日放映)。

日本軍慰安婦を取り上げた番組で、00年12月に開かれた女性国際戦犯法廷が昭和天皇を「有罪」と認定したことや、元日本軍兵士の証言などが放送直前にカットされ、歴史修正主義者のインタビューが急きょ挿入された。右翼の圧力が背景にあった。法廷を主催した「『戦争と女性への暴力』日本ネットワーク」が、「事前の企画と大きく異なる番組を放映したのは信義則違反だ」と7月24日に2000万円の損害賠償を求め提訴。同法廷の国際実行委員会も同日、放送と人権等権利に関する委員会(BRC)へ、正確に伝える番組や謝罪放送を求める申立書を提出したが却下された。

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「慰安婦」問題(2003年版)

2003年版「現代用語の基礎知識」〔国際法〕での記載から。

第2次世界大戦中、近隣のアジア諸国に軍事的に侵攻した日本軍が設置、運営、管理に関与した慰安所等において強制的・継続的に性的暴行を加えられた被害女性たちの問題。多くは朝鮮半島、中国(台湾を含む)、フィリピン、インドネシア(オランダ人を含む)など若い女性たちが、強制的にあるいは嘘言により慰安所等に連れてこられ、日本軍の将校や兵士たちに性的奉仕をさせられた。1990年ごろから一部の被害女性たちが日本の戦争中の責任を追及するようになり、日本、韓国、台湾、フィリピン、オランダなどに民間の支援団体も組織された。この問題は国連人権委員会、人権促進保護小委員会などでも取り上げられた。日本国政府は、戦争中の請求権問題は平和条約その他の2国間条約で法的には解決済みという基本的立場をとったうえで、95年、道義的責任を認めて、女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)を作り、被害女性に対する償いのための事業や、真相究明とその公表、国民への啓発・教育、現在起こっている女性に対する暴力の被害者に対する支援などの活動を行っている。日本の政府は法的責任を認めていない、アジア女性基金は法的責任を回避するものとする批判もあるが、国連では日本政府の対応を「前向きの措置」と評価している。

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NHK問題、その後(2007年版)

2007年版の〔メディアと社会〕での記載から。

2004年に職員の制作費着服が発覚し、従軍慰安婦番組の改変疑惑と相まって、NHK不祥事として社会問題化した。05年には受信料不払い世帯数の累積が従来と合わせて日本全体の約3分の1にも達し、それ以降、会長交代、経営委員会刷新、新たな経営計画策定などと慌しい対応が続いた。しかし残念ながらその後も着服など職員の不祥事が収まらず、印象は悪い。一方で、06年は一連の終戦番組や実験的番組で質の高いものを放送し、制作現場の意地もみせた。今後は職員の約1割削減と組織構造改革を進めると明言。公共放送の存在意義を認め、NHKの実態は批判的にとらえ、政府自民党などの圧力には同調しない――そんな視聴者の姿勢が必要になってきた。

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従軍慰安婦決議(2008年版)

2008年版の〔日本政治〕での記載から。

旧日本軍による従軍慰安婦問題について、1993年の河野官房長官の談話は、慰安所の設置、管理および移送に旧日本軍の関与があり、慰安婦募集に官憲等が直接加担したとして謝罪した。しかし、安倍首相(当時)は、2007年4月の初訪米に先立ち、従軍慰安婦を強制した確固たる証拠はなく、“狭義の強制性”を裏付ける証拠はなかったと発言して物議をかもした。安倍首相は、訪米時にブッシュ大統領および議会指導者に詫び、河野談話を継承する立場を明らかにした。だが、日本の国会議員ら44人は、6月14日付『ワシントンポスト』紙に“強制性”を否定する意見広告を掲載したため、アメリカ議会や在アメリカの中国・韓国系市民団体の反発を招いた。日本政府に公式の謝罪を求める決議案は、6月26日にあメリカ下院外交委員会で、7月30日に下院本会議で可決された。ただ、決議に法的拘束力はない。

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