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渡る世間は壁ばかりの用語集
 

日本と世界の歴史の壁

ベルリンの壁

1991年版本誌掲載。以下、

東から西への移住者の波をくい止めるため、1961年8月13日に築かれた。東西ドイツの間にはすでに国境線が引かれ、人の移動が不可能となっていた。ベルリンで最後の抜け穴が閉じられたため、以後ベルリンの壁が東西ドイツを隔てる壁を象徴するようになる。水が高きから低きに流れるように、他の条件が同じであれば、人々は生活条件の悪いところから良いところへ流れる。しかし、東ドイツが国民経済として生き残るためには人口の無限の流出は止めなければならなかった。事実、ベルリンの壁が築かれてから東ドイツは「赤い経済の奇跡」と言われる経済成長を成し遂げる。しかし、東西の生活水準の落差は開く一方であった。東ドイツ政府は70年代になってから年金生活者の出国を認めるようになり、84年にはチェコスロバキアやポーランドの西独大使館に駆け込んだ東ドイツ市民約4万人の出国を認めた。89年になって第三国を経由する違法出国がとどまらなくなると11月9日に原則としてベルリンの壁を開放するとの決定を下した。これはドイツ統一の幕開けをなした。なぜなら、それによって東ドイツは西ドイツに政治的経済的に適応するか、崩壊するかの選択を迫られたからである。

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嘆きの壁

イスラエルの首都エルサレムは、紀元前1000年ごろにパレスチナ支配のためにヘブライ人(ユダヤ人)によって建設された。イスラエル王国、ローマ、イスラム教徒、十字軍、トルコなどの支配を受け、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の聖地として知られるが、1920年にイギリスの委任統治領となった。1948年、イギリスがパレスチナ委任統治を放棄したことにより、イスラエルが独立を宣言。それに対してアラブ各国が侵攻を開始し、第1次中東戦争が勃発。翌49年国連の仲介で休戦協定が締結され、東エルサレムはヨルダン領、西エルサレムはイスラエル領に分断され、イスラエルは首都機能をテルアビブに移した。面積は西エルサレムの方が大きかったものの、紀元70年にローマ軍によって破壊されたソロモン王の神殿の一部とされる「嘆きの壁」などユダヤ人の聖地は東エルサレムにあり、ユダヤ人は彼らの聖地に近づくこともできなかった。東西エルサレムの境界線はコンクリート製の壁や鉄条網が築かれて、無人地帯とされ、国連パレスチナ停戦監視機構(UNTSO)が配置された。1967年6月「6日間戦争」とも言われる第3次中東戦争に勝利したイスラエルが東エルサレムを併合、エルサレムの首都宣言をし、現在に至る。ローマ軍による破壊以降、嘆きの壁に近づくことも許されなかった時代を経て、ユダヤ人が再び自由に祈りを捧げられるようになるまで、実に約1900年の月日が費やされたのだった。 しかし、エルサレムを追い出されたパレスチナ人はPLOなど非合法武装集団の兵士に転じ、エルサレム問題は現在もパレスチナ和平成立にとって最大の問題となっている。

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分離壁

2004年、ヨルダン川西岸にパレスチナ過激派対策を目的をし、イスラエルが分離壁を建設。05年末までの完成を目指している。監視カメラや電子センサーなどを伴う金網型のフェンスを張り巡らせ、パレスチナ人居住地に接近したところには高さ8メートルほどのコンクリート製の壁が建設されている。イスラエル側は「セキュリティ・フェンス」と呼ぶが、パレスチナ側は南アフリカでの人種隔離政策にちなんで「アパルトヘイト・ウォール」と呼び、「壁は非人道的であり、国際法違反で、パレスチナ経済に悪影響を及ぼす」と主張。国連司法裁判所ではパレスチナ自治政府の要請で、03年12月の国連総会決議に基づき審理を開始し、04年7月9日「違法」との勧告的意見を出した。アラブ諸国は壁の撤去を促す決議案を国連総会に提出したが、イスラエル側は「分離壁建設によってパレスチナ過激派の自爆テロが90%減少した」などと主張し、今後の国連安保理での審議や国際世論に注目が集まっている。

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沙頭角

沙頭角は香港と深センの中間にある街で、かつて中国とイギリス(香港)の中立地帯であり、ベルリンと同じく資本主義と社会主義で分断された街であった。街の南半分は大英帝国の植民地、北半分は中国で、その境界線は壁ではなく、「中英街」という商店街であり、街に居住する住民の行き来は自由だったが、街自体は周囲を壁や柵で囲まれている。1949年、中国に共産党政権が成立すると、中国と香港の国境は翌50年に閉鎖され、相互の行き来には出入国手続きが必要になった。街が二分されていた沙頭角では自由な往来が認められたが、そのかわり街を囲んで壁が作られた。文化大革命さなかの67年には紅衛兵の反英デモをきっかけに中国の警備兵と香港の警察官が衝突して死傷者が出る事件も発生したが、80年代末には、中国は自国観光客の沙頭角への立ち入りを認めるようになり、沙頭角は中国人が香港製品を直接買える場所、とりわけ金製品を安く買える場所として人気を呼び、大勢の買い物客で賑わうようになった。97年、香港の中国返還で、街を二分していた国境線は消滅したが、街を囲む壁や柵はそのままで、現在も「外国人立ち入り禁止地区」であり、中国側からの入国しか認められていない。

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死の壁

ポーランド南部の工業都市オシフィエンチムにナチスドイツが侵攻した1939年にドイツ名でこの地をアウシュビッツと呼び、強制収容所を建設した。当初はポーランドの政治犯を収容するために立てられたが、のちにユダヤ人、ソ連兵の捕虜などが送られた。アウシュビッツ収容所の10号棟と11号棟の間の中庭には「死の壁」と呼ばれる壁があり、ここで数千人が銃殺がされた。この壁は現在もそのままの姿で保存されている。

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ニコシアの壁

キプロス共和国の首都ニコシア。キプロスは東地中海の国で一つの島から成っており、ギリシャ系民族とトルコ系民族で構成された複合民族国家である。アジア、アフリカ、ヨーロッパ大陸に囲まれた要衝で紀元前1600年頃から交易都市として発展し、当時はギリシャ人が多く居住していたが、1571年にオスマントルコ帝国に占領されるとトルコ人が流入した。1878年以降イギリスの統治下にあったが、1960年に独立。同時にそれまで押さえ込まれていた民族問題が噴出し、内戦が激化していく。1974年にはギリシャ軍とトルコ軍が介入し、代理戦争が勃発。北がトルコ系、南がギリシャ系勢力に分かれ、首都ニコシアは中央部を境に鉄条網と土嚢で分断された。83年には、トルコ系住民が独立国家「北キプロス・トルコ共和国」を樹立したが、トルコ共和国以外の国際的承認は得られておらず、南北キプロスを隔てる境界線(グリーンライン)には国連キプロス平和維持軍が駐留している。2004年5月、キプロスはEU(欧州連合)に加盟したが、南北の和平交渉は合意に至らないままであり、ベルリンの壁崩壊以降、ニコシアは世界最後の分断都市となっている。

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万里の長城

中国北辺に築かれた城壁で、紀元前数世紀頃の中国各地に分立していた国々が北方の騎馬民族・匈奴の進入に対して造った防壁を、紀元前221年に中国を統一した秦の始皇帝がつなぎ合わせた。現在の長城は明代(1368〜1662)に蒙古族の侵入を防ぐため新たに築かれたもので、東は河北省の山海関から西は甘粛省に至る全長約2,400 kmの山野に連なる。1987年に世界遺産に登録され、この人類史上最大の建造物は、月から見える唯一の建築構造物といわれる。

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神戸の壁

1927年(昭和2年)神戸市長田区の公営市場の防火壁として設置された、高さ約10メートル、幅約17メートルの壁。95年の阪神大震災で建物が倒壊したあとも、すすをかぶって焼けた街に立つ姿は「震災の生き証人」として震災の象徴的存在であった。戦災も阪神大震災の大火もくぐり抜けた壁は、震災復興のシンボルであったが、長田区の区画整理に伴って、2000年2月、淡路島・津名町に移された。「神戸の壁よ永遠なれ」のモニュメント名が付けられ、この場所で永久保存されることになっている。

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