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“インドは大国”の用語集
 

今日のインド基礎知識

静かな革命(新産業政策)

本誌1998年版収録

1991年7月に成立したナラシンハ・ラオ政権が推進する経済自由化政策。1947年の独立以来、インドは、外交的には自主独立、経済的には非資本主義的発展といわれる政府主導による内向きの重化学工業化を推し進めてきたが、国営企業中心の工業化は産業の生産性向上を阻んだ。ラオ政権は、こうしたインド型社会主義・「ネール・モデル」に決別、「新産業政策」の名の下で、公共部門の制限や国の規制緩和をはじめ外資への門戸拡大など、IMF・世銀が求める自由化・民営化路線を打ち出した。これによって、インドへの直接投資が急増(認可ベースで94年には45億ドル余り、91年実績の26倍)、GDP成長率も91年の0.9%から5%前後にまで拡大、工業製品輸出も伸びて経常収支も改善傾向にあり、デフォルト(債務不履行)寸前のインド経済は立ち直りの兆しをみせた。こうして2億人といわれるインドの中間層は潤ったが、肝心の財政赤字の改善は見られず、インフレは貧困層を直撃している。そうした貧困層の不満は、カースト間の対立・抗争や州議会選挙の結果に現れるとともに96年春の総選挙での国民会議派の大敗をもたらした。その後に成立する統一戦線政権も経済改革の継続を宣言し、内外に投資規制の緩和を行っている。

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1990年代末インドの政治変動

本誌2000年版収録

1990年代後半にいたって、インド政局が揺れている。99年9−10月総選挙は、96年4−5月総選挙以来、98年2−3月総選挙と、過去3年半のうちに3度目の総選挙にあたる。インドは有権者総数6億人以上を数え、世界最大の民主国家とされる。このために総選挙の実施は、インドの巨大な政治行事であり、投票だけでも約1カ月を要している。99年選挙でみると、9月5日、11日、18日、25日、10月3日と行われ、その後にいっせいに開票された。この3回にわたる総選挙の期間に、インドには4つの多党連立内閣が成立し、崩壊してきた。独立以来長くインド政治を牽引してきた国民会議派が、初めて第1党の地位から転落したのが、96年総選挙であった。国民会議派はその後の連立内閣に閣外協力する関与をしてきたが、前回98年総選挙結果は、ヒンズー至上主義のインド人民党(Bharatiya Janata Party)中心の15政党連立政権を成立させることになっていた。国民会議派の凋落と人民党の急成長の背景には、極端な所得格差と経済不振に有効な打開策を講じられない政治勢力の貧困があるといえよう。インド人民党への支持拡大は、経済排外主義、そしてインド大国主義の方向への政治の大転換を意味しており、21世紀に向かって、特有なカースト問題を抱えた多民族巨大国家の今後が留意されなければならないであろう。

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インドの5カ年計画

本誌1955年版収録

1977年の1人当り国民所得を1950年の2倍にすることを終局目標とし、これを達成するための第一歩として、政府投資によって工業や農業の生産増大を図ろうとする5カ年計画。当初、51年4月から開始の予定であったが、最終案は52年末に公表された。生産力拡充のために次第に政府の統轄する公企業部門を拡げてゆき、漸進的に社会化を達成しようというのであるが、ソ同盟や新中国の5カ年計画と違って、資本主義的計画経済の一種である。

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インドの社会主義化路線

本誌1972年版収録

1969年以降、ガンジー政府(国民会議派左派)の推進する一連の政策(主要銀行国有化、一般保険国有化、旧藩主の年金と特権の廃止、国会が憲法のあらゆる条項を改正しうるという改正など)をさしている。これは社会主義化路線というよりは民主化路線であるが、増大する貧富の格差、インフレと失業、そして、800万に及ぶ東パキスタンの難民という困難な問題をかかえるガンジー政府が、財閥と保守派を抑え、反議会主義対過激派に対処して、どこまでこの民主化路線を推進できるか、はたして真の土地改革(各州管轄)まで実現しうるかは70年代の注目すべき動きといえる。

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対インド債権国会議・対パキスタン債権国会議

本誌1972年版収録

世界銀行の主催で、西側先進諸国がインドおよびパキスタンのそれぞれの5力年計画に必要な資本援助の調達と分担につき、情報と意見を交換し討議する、一種のコソソーシアムである。会議は、決定機関ではないが、世銀は援助の経過について豊富かつ多数の専門家を擁しているので、インドおよびパキスタン政府と、それぞれ連絡協議し、世銀が検討した計画につき参加メンバーは、およその見当をもち、重複をさけつつ、各自の立場から相手国と交渉して資金提供(借款)を行う仕組みである。対インド債権国会議は59年秋に世銀主催のもと、米、英、西独、加および日本で発足し、その後IDAと仏、伊、オランダ、ベルギー、オーストリア、スウェーデン、デンマークが加わり、対パキスタン債権国会議は1960年秋に対インドの場合と同じオリジナル・メンバーで発足し、のちにIDAと仏、伊、オランダ、ベルギー、スウェーデンが参加している。

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インド圏

本誌2000年版収録

古代インド文化は東南アジア地域の基層文化の重要な部分といわれる。事実、インドシナ半島の背骨と称されるランソン山脈を越えた西側の地域に身を置くと、インド地域は意外と身近である。今日、東南アジア各地のマスコミは隣国隣接地域のこととしてインドに関するニュースを報じている。また大陸部のミャンマー、タイ、ラオス、カンボジアにとっては、彼らの主要な宗教である上座部仏教の母国である。しかし現実のインド系の人々については、シンガポールやマレーシアで、主として技術系の職業人としての姿を見る機会はあっても、また両替商の姿として出会う機会は多くても、一方の華人と対比する時、経済人としての姿を見る機会は少ない。地域的には、ミャンマーをグレーゾーンとし、これより東には華人系の経済産業活動が目立っているのが、東南アジアをめぐる両者の関係の現在であろう。

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インド教  Hinduism

本誌1960年版収録

インドでは古く、バラモン教という宗教があったが、仏教が発生してから一時その勢が衰えた。そのあとをうけ、これを復興し改教したのが、インド教(ヒンズー教〉である。インド固有の信仰で、現在、インド民衆の大多数が信奉している。回教との対立は著しく、パキスタンの分裂などこれによるものである。

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インド・イスラム文化

本誌1984年版収録

インドの固有文化とイスラム文化が融合して形成された文化の総称。ムガール帝国は、イスラム教徒のトルコ系民族が、ヒンズー教国のインドを支配する形で成立したので、イスラム的要素とヒンズー的要素が融合して独特の文化を生み、イラン式細密画から発達したムガール絵画やタージ・マハルなどに、その実例がみられる。なかでもアグラにあるタージ・マハルは、ムガール帝国最盛期の皇帝シャー・ジャハーンがその妃の廟として、17世紀半ぱに建てた白大理石の大建築で、均整のとれた壮麗な様形によって有名である。

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バーラト  Bharat

ヒンディ語では、インドとはいわずバーラト。

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