月刊基礎知識
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拉致被害者帰国で考える
―― 日本へ還ってくる人、日本から出てゆく人などなどの用語集
 

日本をでた人でてゆく日本人

呼寄せ移民

本誌1956年版収録。以下、

移民のなかでも政府間の机上計画で行ったものはほとんど惨憺たるありさま。一方では現地で成功した邦人に呼ばれて行った移民が成功している、という当たり前のことを移民政策の原則形式にしようというわけ。近く世銀借款ででる移民会社もこの線に沿って、まず、現地での集団の力を強め、将来移民を呼び寄せる母体をつくることを主眼としている。

〜荒廃した経済、食料難、さらには引揚者630万人という状況下、戦後まもなく移民が再開した。個々による呼び寄せ移住は1948年から。ブラジル、ボリビア、パラグアイ、ドミニカ、アルゼンチンにわたり自営開拓農を行った。56-61年がピークで以後減少。出身県では沖縄が多い。

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海外移住法案

本誌1959年版収録。以下、

移民についてできた初めての基本立法である。9000万人になんなんとする人口をかかえて、移民政策は重要な国策となっているにもかかわらず、これに対する一貫した政府の方針というものが決まっていない。移民行政をどこで主管するかについて久しく外務省と農林省とがナワ張り争いを演じ、いちおう外務省主管ということになっているが、まだすっきりしたものになっていない。これは結局、移民についての根本法規ができていないからだというので第26国会で「海外移住法」をつくることになった。これは移民行政の主管をはっきり外務省とし、そのほかの関係官庁を共管にするとか、移民の募集、選考、送出、訓練機関としていまの海外協会を指定するとか、また移住者の資格などを規定しようとするものであるが、外務・農林両省間のナワ張り争いはこれでもまだ完全になくなってはいない。

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技術移民

本誌1958年版収録。以下、

農林漁業や工鉱業などの技術を身につけた移民で、昭和31年南米ブラジルのコチア産業協同組合に派遣された産業開発青年隊、あるいはパキスタンに派遣された農村開発青年隊などは、この技術移民の一つとして現地から非常に好評を博している。産業を主とする開拓移民だけが、そのすべてではなく、ある程度、現地の技術指導にあたるだけの知識を身につけたものの長期滞在が望まれるようになつている。こうした移民ならば南米や東南アジア各国に、まだまだ進出する余地があるといわれている。

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移民借款

本誌1958年版収録。以下、

移民の海外での活動資金を確保するための借入れで、昭和31年春、日本海外移住振興会社と米国の銀行3行(バンク・オブ・アメリカ、チェーズ・マンハッタン、ファースト・ナショナル)との間で、総額1500万ドル(各行500万ドルずつ)のうち第1回分として150万ドルの借入契約が結ばれた。この借款は移住振興会社が米銀行から借入れたドルを移民の起業資金に貸したり、またこのドルで移民を受入れる海外諸国に前もつて農耕地などを買つておき、そこへ移民を入植させることなどが主な目的である。日米間の話合いによつて一応5年間に1500万ドル、毎年300万ドルを借入れる予定で、返済期間は3カ年、金利は年4分5厘という条件だが、会社の業績がよければ返済期間は6カ年に延長されるともいわれる。なお第2回分は300万ドルの予定。

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戦争花嫁

war bride。出征する軍人あるいは外国軍人の花嫁。日本でいわれるのは、第2次大戦後の進駐軍軍人・軍属と結婚した日本人女性。ほとんどが米国、とくにカリフォルニアに住んだ。1946年6月発効のGI婚約者法(外国人である婚約者またはアメリカ軍兵士の婚約者のアメリカ入国を可能にする法律)によって制度が整えられた。

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辻政信

旧陸軍大佐。陸軍士官学校(36期)、陸軍大学校卒業。北支那方面軍参謀などを経て、1937(昭和12)年11月には関東軍参謀となる。39年のノモンハン事件では、軍中央部の統制を無視して関東軍独自の判断で強攻策にでるが大失敗。その後、南進論を支持。太平洋戦争の開戦後は、第25軍参謀としてマレー進攻作戦を指導をするなどしたが、強引な作戦と暴走でしばしば失敗。

バンコクで敗戦を迎えるも、戦犯追及を逃れるため、僧衣をまとって脱出帰国。戦犯容疑者に対する調査打ち切りが発表されると姿をあらわし『潜行三千里』を発表してベストセラーに。衆議院に三期連続当選。自民党を批判して離党後、参院全国区でまた当選。36年4月東南アジア歴訪の旅に出たままラオス国境へむかったまま行方不明。

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よど号赤軍

本誌1998年版収録。以下、

1970(昭和45)年3月31日、赤軍派の田宮高麿ら9人が羽田発福岡行の日本航空ボーイング727機「よど号」(乗客122人、乗員7人)をハイジャックして、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に“亡命”した。日本で初めてのこのハイジャック事件は、潰滅状態の赤軍派が「フェニックス作戦」と名づけ、国際根拠地づくりをねらって敢行したもので、福岡―ソウル金浦空港―北朝鮮ピョンヤンと、3日間にわたったハイジャック飛行ののち北朝鮮入りした。その後9人は亡命者として北朝鮮側の保護の下、金日成主席のチュチェ(主体)思想を学び、翻訳や日本語教授の仕事などをして生活し、81年から日本へ向け季刊の機関紙「日本を考える」を発行、日本国内へ送った。85年には政府側の意向を打診するため、当時の中曽根首相、藤波官房長官あてに手紙も出した。85年9月、メンバーの吉田金太郎が肝臓病のため死亡。88年5月10日には、事件当時17歳の高校生だった1人が、その3年前から、ひそかに帰国していたことが分かって逮捕され、公判で帰国作戦の準備のためと主張した。92年12月、東京高裁は懲役5年の一審判決についての控訴を棄却、93年11月、最高裁も上告を棄却、刑が確定した。

94年11月30日、リーダーの田宮高麿が心臓マヒで死亡して遺骨が帰国。96年3月25日には偽米ドル事件に絡みタイ当局から追及されていた田中義三が、カンボジア国境で北朝鮮の外交官と一緒にいたところを逮捕されてタイ側に身柄を引き渡され、偽米ドル容疑で公判中。96年に入って、ピョンヤンのよど号赤軍メンバーのうち考え方の相違から別個に生活していた岡本武は、妻の福留喜美子とともに88年に土砂崩れの事故に会って2人の子どもを残して死亡していることが判明。現在ピョンヤンにいるメンバーは4人となったが、死亡した田宮高麿を含め吉田金太郎(死亡)を除く他の8人全員が日本女性と結婚して、総計18人の子どもがいることが分かり、97年6月までにうち13人については北朝鮮当局が出生証明を発行、それぞれの日本の本籍地などに提出して日本国籍取得の手続きを進め、これまでに3人の子どもが国籍を取得している。これらよど号メンバーのほかに赤木志郎の妹とその夫もメンバーに加わり、2人の子どももいる。メンバーの妻のうち5人については、旅券法違反容疑で指名手配されている。

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頭脳流出

本誌1969年版収録。以下、

科学者や技術者、医者など高い知的レベルをもつ国民が、外国へ移住する現象。戦後、欧州諸国から米国への頭脳流出が起こり、はじめは戦後の過渡的現象として見過ごされていたが、1955年以降においても米国への流出がますます盛んになったため、とくに英、独、カナダで深刻な問題となっている。56〜61年に約5000人が欧州諸国から米国へ頭脳流出し、それが対米技術格差の原因の重要な因子とみなされるようになった。日本の場合は、言葉、風俗習慣、人種偏見などの理由で、米国への頭脳流出は年間十数人程度とみられるが、とくに数学や理論物理の分野で顕著で、数学者の流出が最も憂慮されている。留学や一時的訪問はむろん頭脳流出の範疇に属さないが、米国では所得と生活の水準がよく、研究者はとくに優遇され、雇用の機会が豊富、実力主義、研究環境がよいことなどが頭脳の吸引力となっているものとみられる。

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新移民

本誌1983年版収録。以下、

主としてカナダ、オーストラリア向けの移民だが、技術や知識を生かした“知識移民”へと変わりつつある。海外移住は、明治元年にはじまり、戦後はブラジルを中心に南米、ハワイが多かったが、昭和30年代前半の年間約1万人をピークに減少、このところ4000人台になっている。代って登場してきたのが、カナダとオーストラリア。移住者はカナダが357人(昭和53年)から913人(55年)へ、オーストラリアが65人(53年)から148人(55年)へと増加している。両国ともエンジニア、エレクトロニクスやコンピュータの技術者、調理師、レストランの支配人、自動車整備士等を求めている。

外務省では千葉県君津市に若者向けの技術者訓練学校を、また国際協力事業団は、現地での生活習慣や語学を教える「海外移住センター」(横浜市)を設けた。

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フルブライト留学生

本誌1956年版「フルブライト法」収録。以下、

Fulbright Act。アメリカの民主党上院議員フルブライトの提案により、政府手持ちの余剰物資を国外に払い下げた金をその国とアメリカとの文化交流、とくに教育のために使うことができるようにした法律である。日米両国の学生、教授、研究員などの円建て旅費や本計画による在日米人の生計費にあてられる。

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日米教育交換計画

本誌1958年版収録。以下、

フルブライト法が1957年で資金切れになつたので、それに代るもの。アメリカが日本へ売渡した余剰農産物の支払代金から生ずる円資金の一部、7億4300余万円を使つて、向う3年間に日本人留学生約700人、アメリカ人留学生約100人を交換しようという新しい日米教育交換計画が、1958年1月とり決められた。これは厳密な意味ではフルブライト法の継続ではないが、実質的にはそれと同じ形のものである。

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日米教育交換計画(フルブライト計画)

本誌1979年版収録。以下、

戦後日米民間交流の一環として1951年スタートしたもので、これまでに5000人を越える学者、研究者、留学生の交換を行った。発足当時はアメリカ側が資金の全額を負担していたが、最近、制度も変わり、資金難であったが、今後は、日本側も半分負担すべく検討を進めている。

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