月刊基礎知識
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拉致被害者帰国で考える
―― 日本へ還ってくる人、日本から出てゆく人などなどの用語集
 

沖縄・小笠原

沖縄・小笠原は、1951年のサンフランシスコ講和条約後も、しばらくアメリカによって統治されつづけた。つまり、日本人である住民は、その間“外国にいた”ことになる。

沖縄問題

本誌1958年版収録。以下、

沖縄で米軍と住民との間に軍事基地の用地に関して紛争が生じ、これにからまり沖縄に対する日本の立場が問題になつた。平和条約第3条によつて沖縄は現在米国の行政・立法・司法権の下にある。ここに米国は基地を建設し、その用地を戦争中の占領以来保持し、或はその後住民より接収したりしている。住民は4原則を掲げて反対した。しかし米国はプライス勧告の線に沿つて、あくまで既定方針通り進むことを決めた。こういう問題に対して、日本政府が介入する事が出来るかが問題になつた。沖縄は、日本の潜在主権の下にあり、且つ住民は日本の国籍を持つので、日本政府が外交保護権を持つという考えと、アメリカは住民にも行政権を行使できるからアメリカ国籍をも事実上持つ事にもなり、国際法上二重国籍をもつ人の取扱い方に従い、日本政府は介入できないという考えである。尤も介入できるといつても、接収に際して、住民が、米国民と平等な扱いを受けているかどうか、或は住民の人権を害しないかどうかという事等に関してであつて、接収地は米国が施政権を行使しなくなれば返すというのだから、接収そのものが違法であるというのではない。日本政府の見解は以上に対して、法的見解にとらわれず、政治的に米国と折衝しようというにある。

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南方同胞援護会

本誌1958年版収録。以下、

沖縄や小笠原島民の援護会である。対日平和条約にもとづきアメリカの管理下におかれている沖縄や小笠原島民に対し、政府としては微妙な国際関係から積極的に乗り出すことができない立場におかれている。そこで自民党では、民間の財団法人として「南方同胞援護会」という団体をつくり、沖縄の軍用地問題とか、日本復帰に対する援助、あるいは旧小笠原島民の帰島促進といつたような問題について調査したり、世論を起したり、援護活動をやつたり、また場合によつてはアメリカに対して働きかけをやることになつた。これは自民党の発案ではあるが、社会党その他の民間団体や在京の沖縄、小笠原関係団体代表も参加し、昭和30年10月上旬に発足したものである。会長は元大蔵大臣の渋沢敬三氏。

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琉球組織法

本誌1958年版収録。以下、

アメリカが琉球の管理を法制化するため議会に提出する法案。琉球にたいしてアメリカは行政命令で、昭和32年7月1日から琉球高等弁務官(ムーア琉球軍司令官が兼任)制度を施行した。高等弁務官というのは従属国かまたは被占領国に対して派遣し、総督に近い内政上の地位を持つ特権制度である。したがつて琉球組織法で行政命令を法制化に切りかえるといつても、支配の実体は変らず、実際はアメリカの沖縄地帯の軍事基地を合法的に永久化するものであろう。

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施政権

本誌1959年版収録。以下、

立法、行政、司法の3権を行使する権限。現在沖縄や小笠原諸島の施政権はアメリカに握られており、その潜在主権だけが日本にあるとされている。日米安保条約改定交渉で最大の問題点は日本がこの施政権をもたない沖縄や小笠原を共同防衛区域に含めてよいかどうかということだった。つまり日本に施政権もなく、一歩誤れば世界大戦に巻き込まれ、取り返しのつかないことになるおそれのある地域に、それほどの犠牲を忍んで共同の軍事行動をとる約束をしてもよいかという点が問題となった。もしどうしてもそれが必要だというならば、施政権を日本に返してから話し合えという声もあり、また施政権返還を交換条件にせよという声もある。

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特別地域連絡局

本誌1959年版収録。以下、

沖繩、小笠原諸島などの南方地域と千島など北方関係の行政事務を担当する役所。内閣の総理府に昭和33年2月に設けられた。それまでは南方連絡事務局といっていた。沖繩にいる米軍は、おそらく40-50年は駐留する見込みだと伝えられ、行政権の日本返還を期待する日本側の沖繩対策はいよいよ重要になってきており、一方、日ソ平和条約交渉を前にして南千島、歯舞、色丹の領土問題が重大段階に入ってきたから、この事務当局を強化しようという目的を持つ。

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小笠原島民の帰属

本誌1958年版収録。以下、

日本は、平和条約第3条により、小笠原諸島の立法、行政、司法の3権を米に譲渡し(但し琉球諸島と同様、領土処分権は日本がもつている)、現在小笠原の管理は米太平洋艦隊が行つている。島の返還は目下のところ見込がないが、昭和17年内地に強制疎開のままとなつている島民(7700名)の帰島については、日本政府の対米交渉も小笠原帰島連盟代表の陳情をとりまぜ、百余回に及んでいるが、56年3月、来日したダレス国務長官が鳩山首相の質問に対して米政府の見解として、「島民の小笠原帰島は早期には困難だ」と、当分の間島民の帰島は望みえないことを明かにした。そこで政府は小笠原帰島促進連盟の作つた資料に基き、米政府に対し、疎開島民7700名に対し、平和条約発効(1952年4月28日)以降1955年度までの分として、総額9億6000万円の補償要求の折衝を行つている。

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小笠原補償法

本誌1969年版収録。以下、

旧小笠原島民は米国にたいし島への復帰が認められない代償として、1250万ドルの補償金の要求を行なってきたが、米上院は1959年8月24日、600万ドル(21億6000万円)の支払いを認める法案を可決、60年9月、大統領の署名をえた。配分は日本政府にまかされた。

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