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“アメリカはたまに戦争に失敗する”の用語集
 

湾岸戦争の用語

湾岸戦争〜イラン空爆は成功だったのか

湾岸危機・湾岸戦争(Gulf crisis/Gulf war)

1992年版本誌解説より。以下、

1990年8月2日、イラク軍がクウェートを侵攻・制圧し、8日に国家統合を宣言、28日にクウェートをイラクの19番目の州とした。イラクは歴史的正当化につとめたがペルシャ湾への出口を求めるとともに、石油価格を引き上げ、クウェートの富を自国やアラブ世界の再建強化資金にする計算もあったようだ。これに対してアメリカを中心に西側各国はイラク軍のクウェートからの撤収とクウェートの原状回復を要求、ペルシャ湾方面に派兵して圧力をかけた。大きな背景として、中東石油利権の確保をねらう欧米、さらには欧米キリスト教勢力と中東イスラム教勢力の歴史的確執も指摘される。

91年1月17日、欧米軍を主力とする多国籍軍はイラクに対して開戦、イラク軍をクウェートから撤収させただけでなく、イラクの軍事・産業施設を広範に破壊した後、2月28日停戦に至った。中東諸国のうち、湾岸の王制産油国とシリア、エジプト、モロッコ、トルコなどが欧米軍に協力、イランはほぼ中立を守った。ヨルダン、イエメン、パレスチナ解放機構(PLO)は明確にイラクを支持した。イラクはイスラエルに直接ミサイル攻撃を加え、イラク包囲網の分断を図ったが、アメリカはイスラエルの反撃を懸命に抑え、ミサイル迎撃ミサイル「パトリオット」を急ぎイスラエルなどに配備した。アメリカは湾岸戦争を契機に、中東の新秩序や新世界秩序の構築をスローガンにかかげたものの、91年11月現在、その展望はほとんど開けず、中東世界には破壊と混乱だけが残ったかたちである。

〜。日本も多国籍軍への「国際貢献」を迫られ、自衛隊派遣を拒否する一方で、総額130億ドルを支援した。

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情報戦争

1992年版本誌解説より。以下、

湾岸危機・湾岸戦争は、情報戦争の様相が濃かった。アメリカもイラクも情報メディアを利用したが、世界的なメディア網をもつアメリカが情報戦争で勝利し、それが湾岸戦争そのものを勝利に導いたともいえる。情報戦争の最大のポイントは、自己の主張が正しいかどうかよりも、どう「正しくみせるか」である。

湾岸戦争の原因はたくさんある。イラクとクウェートの間に不合理な境界線を引いたイギリス。イラクに武器を売った諸大国。イラン・イラク戦争でイラン抑え込みのため、イラクの非を知りつつ支援した諸大国。パレスチナ問題の解決を遅らせ、アラブ世界に内向する欲求不満を利用する機会をイラクに与えたアメリカや国連。どれも戦争に責任がある。湾岸戦争の原因を一つだけ選ぶのは不可能だが、アメリカは原因のすべてを「フセイン独裁」に凝縮しようとした。具体的には、フセイン大統領に「ヒトラー」のレッテルを張り、イスラエルという核国家には目をつぶり「イラクは中東最大の軍事強国」とのイメージをつくりあげ、「フセインのイラクの危険性」を広く印象づけ、イラクには何をしてもよいような雰囲気を盛り上げた。もちろん、そうした情報戦争の犠牲になるスキをみせたのはイラクの責任である。

開戦後は情報戦争の色がさらに強まった。軍事情報は軍が独占し、戦場という舞台では取材記者も自由に活動できず、軍の発表を確認する手段も機会もない。軍の情報操作にマスメディアはほとんど無力だったといえる。たとえば、開戦直後に「多国籍軍がクウェート沖のファイラカ島を占領」との情報が流され、「クウェート上陸作戦の準備」と思われた。それはイラク側にも伝わり、クウェート海岸防衛のイラク軍はクギづけになったといわれる。イラクを含め世界の関心がクウェート海岸に集中している間に、多国籍軍の地上部隊は西方に大きく迂回してクウェート進駐のイラク軍を背後から包囲し、イラク軍に大損害を与えた。のちに「ファイラカ島占領」情報は否定された。軍が意図的にニセ情報を流し、陽動作戦に利用したのである。

また油まみれの海鳥の映像が、イラクには無関係なのに、イラクを環境テロの犯人に仕立てあげるのに利用された。ハイテク兵器の命中率の高さを宣伝しながら、目標をはずれ民間人を殺傷した事実は発表を抑えられた。

1991年8月29日、クウェートは「イラク兵がクウェートのブビアン島に上陸、クウェート軍がこれを撃退」と発表した。9月4日、クウェートとアメリカは防衛条約に調印した。その後、ブビアン島を訪れた国連監視班は「クウェートの発表に疑義あり」と報告している。防衛条約を正当化するため、クウェート政府が試みた情報操作だったのだ。

情報戦争の時代には、誰が「何を言った」かよりも「なぜ言ったか」の究明が重要だ。

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対イラク制裁継続問題

1996年版本誌解説より。以下、

湾岸危機以来続けられているイラクに対する経済制裁は、すでに5年以上に及んでいる。湾岸戦争終結直後に成立した国連安保理決議687号に基づき、国連大量破壊兵器破棄特別委員会が化学兵器の破棄や大量破壊兵器の生産を禁止する監視体制の確立などを行ってきた。さらにサダム・フセイン大統領はクウェート国境付近に軍を再集結させた直後の1994年11月、一転してクウェートの主権と湾岸戦争後に国連が定めた新国境を承認、アメリカなどが突きつけていた制裁解除の条件の一つをのんだ。

制裁の長期化でイラク国内は非常に厳しい状態にある。そうした中、95年5月から6月には軍の主要部隊の一部が反乱を起こしたと伝えられ、8月にはイラクの大量破壊兵器開発計画の中心人物とされるフセイン・カメル中将がヨルダンに亡命した。亡命には同中将の妻でフセイン大統領の長女らも同行しており、同大統領の支配基盤に亀裂が入り始めたことをうかがわせた。このためイラクは秘匿し続けてきた生物兵器開発計画の詳細を国連に明らかにするなど、制裁の早期解除実現に懸命になっている。

しかし、アメリカは、<1>大量破壊兵器廃棄を求めた国連決議受け入れが依然不十分、<2>クルド人などへの抑圧が続いている、などの理由をあげ、「二重封じ込め」政策の一環としても制裁継続を主張し、イギリスも継続を支持している。

一方、ロシア、フランス、中国は制裁の緩和ないし解除を求めているが、生物兵器製造疑惑問題などがあり、制裁は継続している。

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二重の封じ込め(Dual Containment)

1995年版本誌解説より。以下、

イランとイラクの同時封じ込めを図るクリントン米政権の中東政策。二重の封じ込め政策は、クリントン政権の国家安全保障会議近東南アジア問題担当大統領特別補佐官マーティン・インディク氏が1993年5月18日、ワシントン近東政策研究所(ワシントン・インスティチュート・フォー・ニヤー・イースト・ポリシー)での演説で概要を初めて明らかにした。インディク氏はこの中で、イランとイラクを互いに対立させる従来のアメリカの政策の放棄を明らかにし、「(アメリカは)イラクとイラン政権双方に対抗できる。一方に対抗するため他方に依存する必要はない」と語った。

アメリカは、1979年親米のパーレビ王政を革命で倒した現イスラム共和制政権を敵視するとともに、同政権の「イスラム革命の輸出」を警戒した。80年9月イラクのサダム・フセイン政権が「イラン・イスラム革命輸出阻止」を掲げてイランに侵攻、イラン・イラク戦争が始まるとフセイン政権支持に回った。が、90年8月フセイン政権がクウェートに侵攻して湾岸危機が発生、以来アメリカは親イラク政策を一変しフセイン政権打倒を目指すことになった。

一方、イランも湾岸戦争後、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、中国との中距離弾道ミサイル他の商談、ロシアからの潜水艦購入など軍備拡張を推進、一方でレバノン南部のイスラム原理主義民兵ヒズボラ(神の党)、イスラエル占領地のパレスチナ人イスラム原理主義組織ハマスなどへの支援を強めるなど反米姿勢を崩さず、93年1月発足したクリントン政権はイラン、イラクの同時封じ込めを図ることとなった。

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戦争症候群

1997年版本誌収録。以下、

1990〜91年の湾岸戦争に派遣されたアメリカ兵など数千人が頭痛や発熱、関節痛などに悩まされた「湾岸戦争症候群」は、砂漠の嵐症候群などともいわれ一般にも話題になったが、今度はボスニア・ヘルツェゴビナに駐留する平和履行部隊(IFOR)に参加中のアメリカ軍兵士に、96年初頭ころから微熱や発疹などの症状に悩まされるものが続出した。いずれも正体不明のウイルス感染とみられているが、戦場で集団的に発生するこの種の原因不明の疾患を、俗に戦争症候群といっている。

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湾岸戦争症候群(Gulf War Syndrome)

1997年版本誌収録。以下、

1991年の湾岸戦争に参加したアメリカ軍の将兵の中に奇妙な皮膚炎や関節炎、記憶障害、鬱病などに苦しんでいる者が多い。これまでペンタゴン(国防総省)はあくまでも「原因不明」と言い張って、湾岸戦争との因果関係を否定し続けてきた。しかし、96年の秋頃になって、「91年の10月にアメリカ軍がハーミシーヤ(Khamisiyah)のイラク軍の化学兵器貯蔵庫を爆破した際、多数のアメリカ将兵が神経ガスに冒された可能性がある… …」という内容の国連による『調査報告書』が存在することが明らかとなり、ペンタゴンもやむなくこれを追認せざるを得なくなった。また、この爆発の際、「上空に白い雲が発生し、その下にいた10万人以上のアメリカの将兵が(神経ガスを含んだ)雲からの降下物におかされた」という別の報告書の存在も明らかになってきたため、6万人以上と言われる湾岸戦争症候群の元軍人たちの間に深刻な衝撃が拡がっている。

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黄色いリボン(yellow ribbon)

1992年版本誌収録。以下、

もともとは、遠くに離れてしまった男性が戻ってくることを願って、女性が木にくくりつけるリボンのこと。湾岸戦争の際は、前線に出た兵士の無事を祈って、兵士の出身家庭が玄関に飾ったことから始まり、アメリカのあらゆるところが、黄色いリボンで埋まった。たとえばニューアーク市は、バレンタイン・デーに「イエローリボン・シティ」を宣言し、1万1000本の木と1万5000人の住民にリボンを用意したという。

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DoD規制(DoD regulations)

1992年版本誌〈ジャーナリズム〉収録。以下、

DoDとは米国防総省(Department of Defense)の略。湾岸戦争開始の直前、米国防総省が湾岸戦争の報道にあたって、公式発表以外に報道することを禁止した12項目の規制。<1>部隊、航空機、兵器の数、<2>中止となったものも含め、計画、作戦の詳細、<3>戦闘の詳細、<4>人的損害、撃墜・撃沈された航空機・艦船について、などの報道が禁じられている。つまり湾岸戦争では、公式発表以外の一切が報道できなかった。これも前記の報道管制の方法の一つであることはいうまでもない。

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ブラック・アウト(black out)

1992年版本誌〈ジャーナリズム〉収録。以下、

もともとは空襲に備えての灯火管制のこと。それから転じて、軍、警察などによる報道管制を指す。湾岸戦争で地上戦が始まった1991年2月23日夜(米東部時間)から25日まで、米中東軍シュワルツコフ司令官は、「作戦成功と将兵の安全のために」情報の完成ブラック・アウトを命令した。このためアメリカのマスコミは湾岸戦争について全く沈黙しなければならなかった。

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戦争報道の10原則

1992年版本誌〈ジャーナリズム〉収録。以下、

湾岸戦争で米国防総省の報道規制があまりにも厳しすぎたため、『ニューヨーク・タイムズ』『ワシントン・ポスト』などの主要新聞、CNNを含む4大テレビ・ネットワーク、AP通信社など、マスコミ17社の代表は、1991年4月末、湾岸戦争での検閲や報道の自由に関する報告書を公表し、そのなかで戦争報道についての10原則を提唱し、国防長官に報道規制の再考を促す要望書を提出した。

この10原則の中には、<1>独立報道が基本原則である、<2>プール取材は、作戦開始から24ないし36時間以内に限られるべきである。<3>軍の広報は連絡役に徹し、取材に干渉しない、<4>すべての主力部隊への取材を認める、などの項目が含まれている。

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