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“アメリカはたまに戦争に失敗する”の用語集
 

パナマ侵攻の用語

パナマ紛争(disputes of Panama)

1972年本誌解説より。以下、

1964年1月、アメリカ管理下のパナマ運河地帯内の高校でアメリカ人学生がパナマ国旗を掲揚しなかったことに抗議したパナマ学生が、運河地帯の境界線に押し寄せ、アメリカ警備隊から発砲されたことに端を発した暴動で、パナマがアメリカとの断絶した事件。

パナマ失地回復、主権回復要求に対する、アメリカの抑圧への民族的な不満を根にして、両国人の賃金格差、不平等待遇に対するパナマ人の不満が爆発したもの。運河使用料の増額を含む1903年の米パナマ条約の根本的改正を要求するチアリ・パナマ大統領の対米強硬態度は、結局、3月15日、米州機構の調停によって、アメリカの条約調整への歩み寄りの意図表明を契機に緩和され、外交関係再開の合意ができた。

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新パナマ運河条約(New Treaty of Panama Canal)

1977年9月にトリホス将軍とカーター大統領との間で結ばれた「運河条約」と「中立条約」。前者によって、今世紀末における運河の管理運営権のパナマへの移管、運河地帯に対するパナマ主権の回復が約束された。後者は、運河の完全開放、アメリカ・パナマ両国共同での運河防衛を規定している。89年12月のアメリカ軍侵攻は、この条約の発効阻止を目的とした。

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パナマ侵攻(Panama invasion)

1989年12月20日、アメリカはパナマの独裁者ノリエガ将軍を麻薬密輸の容疑で逮捕連行するために、パナマに侵攻した。ノリエガ軍の抵抗は数日で終息したが、ノリエガ将軍は発見できず、アメリカ軍のパナマ駐留は長期化する恐れもあった。90年1月初めにノリエガ将軍が投降逮捕されたことによって、事件は一応の落着をみたが、アメリカの軍事行動は内政干渉であるとする批判もある。

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オルブルックの虐殺(Masacre de Albrook 西)

2000年版本誌収録。以下、

パナマのノリエガ元最高指導者による反逆者の虐殺。1989年10月クーデター(不成功)の首謀者ヒロルディ少佐ほか8名を拷問のすえ、オルブルック空港の格納庫で殺害した。この件で、パナマ法廷は94年に、20年の刑を言い渡した。95年には、彼の麻薬密売関与を告発した医師殺害(85年)関与のかどで、さらに20年の刑。しかし、ノリエガは、89年12月の米軍侵略でマイアミに連行され、麻薬密売のかどで40年の刑に服すこととなった。99年3月、マイアミ法廷の10年減刑決定(2000年にも仮出獄の可能性)をうけて、パナマ側はアメリカに身柄引き渡しを要求した。

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パナマ運河返還

1977年9月カーター・アメリカ大統領とトリホス・パナマ大統領の間で締結された新パナマ運河条約に基づき、99年12月31日正午、パナマ運河がアメリカからパナマに返還された。運河建設を画策したアメリカがコロンビアからのパナマの分離独立を支援し、運河条約を結びパナマから運河地帯を買い取ったのが1903年、運河開通は14年だった。以来、20世紀を通じアメリカが握っていた運河の管理運営維持権は、2000年以降完全にパナマの主権下に。返還後1年が経過し、順調な運営管理が続けられている。アメリカは新運河条約にあわせて結ばれた中立条約に基づき、運河に軍事脅威が及ぶ場合は介入する権利を保留。運河地帯は南方司令部が設置されるなど、アメリカの西半球防衛の拠点で、冷戦期には中南米各国の将校らが訓練を受けた。返還後も軍の駐留につき交渉していたがパナマ政府は拒否、アメリカ軍も撤退。このため麻薬取締りを名目に、アメリカは99年11月エクアドルとの間でマンタ空軍基地の、翌年3月にはエルサルバドルとの間でコマパラ空軍基地の使用協定を結び、空軍機を配備。

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