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“アメリカはたまに戦争に失敗する”の用語集
 

イラン米大使館占拠事件の用語

イラン米大使館占拠事件

1980年版本誌収録。以下、

イスラム革命でアメリカに亡命しているパーレビ前国王の引き渡しを要求して、1979年11月4日、テヘランの学生たちがアメリカ大使館に乱入し、館員を人質とした。関係各国、機関の調停が実らず、13日にはアメリカによるイラン原油全面輸入停止とイランの対米原油輸出停止が同時に発表され“石油断交”の強硬措置がとられた。さらに15日には、アメリカはイランの在米資産の凍結を行い、外向的、経済的制裁を加えていっている。

ホメイニ師はアメリカ大使館をスパイの巣窟として、イスラム法廷で裁判を行い死刑にすると発表、人質に不測の事態が起こった場合、アメリカは報復的軍事行動をとる可能性があるとカーター政権は発表している。

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米・イラン断交

1981年版本誌収録。以下、

1979年11月に起こったテヘランの米大使館占拠事件は、大使館員を人質としたまま、80年4月を迎えても解決のきざしはみられなかった。事態を憂慮したカーター大統領は、4月7日イランとの国交断絶を声明し、食糧品と医薬品を除く全品目の対イラン禁輸、凍結されているイラン政府資産の没収準備などを発表した。この強硬措置が人質解放の決め手となりうるか否かについては疑問視するものが少なくない。

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人質救出作戦失敗

1981年版本誌収録。以下、

テヘランの米大使館人質の早期解放を図るカーター大統領は、1980年4月下旬に人質奪還の強行作戦を試みたが、失敗した。その真相は必ずしも明らかではないが、C-30大型輸送機でカビル砂漠に進入し、そこを拠点としてヘリコプターでテヘランに進入する作戦であったと推測されている。しかし、ヘリコプターの故障で作戦遂行が不可能となり、撤収中にC-30型機とヘリコプターが衝突して、アメリカ兵8名が死亡した。国際世論はこの人質救出作戦の失敗を性急な軍事行動として批判したが、アメリカの国内世論にはむしろカーター大統領の作戦を勇気ある決断として支持する傾向が強い。

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米・イラン人質解放協定

1982年版本誌収録。以下、

1979年11月4日、イラン人学生がテヘラン米大使館を占拠、館員67人を人質にした米大使館占拠事件は、80年に入っても解決のきざしがみられず、4月7日のイランとの国交断絶、4月25日の武力救出作戦も事態を好転させなかった。

カーター前大統領は任期中に人質の解放を実現すべく懸命の努力を続け、ようやく任期満了直前の81年1月19日に、米・イラン人質解放協定の調印にこぎつけた。同協定によって、イランは52人の人質(一部は11月に解放されている)を解放し、アメリカは凍結していたイラン在米資産を返還することになり、この紛争は442日ぶりに解決をみることになった。

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人質行為防止条約(International Convention against the Taking of Hostage)

1982年版本誌より。以下、

1979年12月17日の国連総会で採択された条約で、民族解放運動を含む人質事件を対象として、人質犯罪を妥当な刑罰によって処罰し、人質・犯罪人の引き渡し、解放を行い、犯罪防止のために協力することを定めている。テヘランのアメリカ大使館人質事件などに衝撃をうけたアメリカや西ドイツなどの要請により成立した。

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