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〈ブーム〉の反対語=〈××離れ〉〈脱××〉〈失われた××〉の用語集
―― 衰退は復活のはじまり
 

ここから“離れて”本当に大丈夫なのか?

物理離れ/理科離れ

―― 物理は理科は昔はおもしろかったのか?

小学6年生では理科好きが70%なのに中学3年生になると50%弱になるというデータ(東京都立教育研究所)等々、物理離れ・理科離れはデータとしてはっきりしている。“離れた”結果、大学生の(理科系の大学生ですら)基礎学力低下も、数値的に指摘されている。そこで文部科学省、教育関係者等々各方面では「理科の教育内容を魅力的にしよう面白くしよう」「詰め込み型の教育から考える喜びを教えるものにしよう」「実験を授業にもっと取り入れればおもしろい」「創造性を…」などと工夫している。その根拠は平たくいえば「好きこそものの上手なれ」や「ノーベル賞受賞者などの経歴をみると、すばらしい恩師から科学する喜びを教わったのがきっかけだった」ということなどなど。一理も二理もあることだ。

しかし現実には別の見方もある。近現代の日本で〈科学少年〉が増えたり〈理工系への志望率〉が高まったりしたのは、第2次大戦中と戦後の高度成長期である。「米英の科学力に精神力で打ち勝とうとして惨敗した」と思われがちの第2次大戦期がそうであるとは意外かもしれないが、教育カリキュラムは実際、理数重視で組まれ、少年たちは戦闘機の飛行原理からメカニズムから気象情報等々、最近の子どもよりはるかに通暁していた。では、この2つの時期の理科教育・物理教育は「面白く、魅力的な」ものだったか。否、少なくとも高度成長期における過度の受験競争/詰め込みへの反省からここ20年以上の教育手法が組まれているはずだ。子どもも現金なもので、〈技術〉が“報われ”たり“カッコイイ”からだったりする。あるいは国難の危機やいかんとしても豊かになりたいという切迫感から始まっているのだ。

日本では、大手企業においても官公庁においても、同程度学歴なら文科系のほうが理科系より生涯年収がかなり多いという。手をうつべきはこの部分か…。

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製造業離れ

2000年秋の国勢調査によると、製造業の就業者は、45年ぶりに2割を切って19.4%となっている。計1223万人で、前回95年の調査より133万人の減少。

若者が地味な仕事を嫌いがち、工場の海外移転、不況によるリストラ等々の理由が考えられるが、ひとつ大きなのは選択肢の多様化---これは景況によって進退はあるにせよ、エントロピーの増大なので抑えたり逆戻りは難しい。

理工系の製造業離れ
本誌1991年版収録より、以下、

理工系出身者は、製造業すなわちメーカーに入社して、技術系職種に就く、というこれまでの常識に対し、非メーカーに入社・事務系職種に就く文系就職の増加傾向を理工系の製造業離れ、とよぶ。

理工系学生の製造業離れが顕著になってきたのは、金融の自由化、国際化に対応して、銀行・証券業界が本格的に理工系を採用するようになった1985(昭和60)年以降である。いまでは「新入社員の1割は理工系」が常識になっている。理工系の製造業離れは、技術水準の低下から日本の産業の国際競争力を弱め、産業空洞化を引き起こしかねない。理工系の製造業離れの要因として、金融などの賃金レベルが相対的に高く、時代の変遷や景気の波を受けにくく、安定的で、職場の環境条件もよい、システム化が進み、即戦力としての理工系ニーズが高いなどが挙げられている。偏差値入試も要因の一つとされる。理工系学生の4割が非メーカー志望といわれ、東大、東工大などの有名大学ほど製造業離れの傾向が強い。産業社会の変化であらゆる業界で理工系の需要が増大しているにもかかわらず、製造業界がしっかりした展望が開けなかったことが、その背景にある。ただし、金融業界への就職者の中からメーカーへ転職する人も多く、理工系の製造業離れに歯止めがかかったとの見方もある。

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図書館離れ

図書館離れということばが、図書館関係者の間で久しくいわれるが、娯楽やメディア全般の多様化の中で進んでいる活字離れを背景としているものだ。一方では、図書館の新刊複数冊購入と利用者リクエストシステムによって、本来得るべき売上が損なわれているという出版社サイドの指摘もある。つまりは狭くなった活字需要を食い合っているわけだ。

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夕刊離れ

夕刊廃止論
1994年版本誌収録。以下、

夕刊とは、毎日夕刻に発行される新聞。日本では1885(明治18)年1月、『東京日日新聞』(現『毎日新聞』)が朝刊を乙号、夕刊を甲号として発行したのが最初。その後1906(明治39)年『報知新聞』も朝夕刊制にしたが、どちらも成功せず、長続きしなかった。

いまの朝夕刊制が始まったのは、1915(大正4)年10月10日(紙面の日付は11日付)。第一次世界大戦のさなかで号外発行による速報競争で配達に悩んでいたのと、1ヵ月後に大正天皇の即位の式典が行われることになっていて、紙面がさらに狭隘になることが予想されたために、『朝日新聞』(大阪)と『大阪毎日新聞』とが協議して、朝刊と翌日の朝刊との間に1回、それまで入ったニュースをまとめて、新聞を発行することにしたのだった。

日本の朝夕刊制は、このように朝刊・夕刊両方を購読して、はじめてニュースの流れがわかる仕組みで、そのためワン・セット制(one-set system=朝夕刊で一組)と呼ばれる。これは外国にはない。

しかし1980年代半ば以降、新聞購読料の値上げとともに、夕刊購読を謝絶して、そのかわり購読料を値引きしてもらう「夕刊離れ」の読者が次第に増えてきた。全国紙についてみると、92(平成4)年下期、東京では『日本経済』はセット率96.7%で高いが、『産経』は74.1%でしかない。地方紙では『愛媛新聞』が92年3月で、『長崎新聞』が93年5月で、それぞれ夕刊を休刊、夕刊紙『大阪日日新聞』が93年7月から土曜日の発行を休刊することになった。外電以外のニュースが乏しく、企画記事でかろうじて紙面を埋めている夕刊は、もはや使命を終えたのではないか、廃止するほうが定価も安くなり、新聞労働者の労働時間短縮にも役立つのではないか、という声が次第に強まってきている。

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活字離れ

活字離れの反証となるようなベストセラーや人気作家が出たりしてはいるが、活字離れは厳然たる事実である。出版界総売上が前年割れをしているのだ。

NIE(newspaper ineducation)

活字離れに対しさまざまな方策が行われている。

1991年版本誌収録。以下、

「教育に新聞を」の略で、小学校から大学までの教育に新聞を教材として使うための、新聞社と学校との共同活動。半世紀前からアメリカで始まり、現在米国新聞発行者協会加盟の日刊紙約1500社のうち約600社がNIE計画を実施、各社がそれぞれ数人のスタッフを置いて学校との打ち合わせ、カリキュラムの作成などにあたっている。学校での読み書き、社会科教育に使われる新聞は約300万部、定価の半額で提供される。

日本でも、若い世代の活字離れに対応するため、日本新聞協会が1987(昭和62)年10月、NIE担当理事を置き、NIE委員会を設置することを決め、ともに88年2月スタートした。さしあたって教師用手引き書やパイロットプランの作成にあたる。小中高校の現場教師たちも「NIE研究会」を作って、新聞を利用した授業例の研究などをしている。

ばなな現象
本誌1998年版別冊・20世紀事典収録。以下、

1989年。吉本隆明氏の次女吉本ばななの小説が連続何週間もベストセラーを続けている。

『キッチン』『うたかた/サンクチュアリ』『TUGUMI』など合計400万部の売れ行き。

まだまだ売れるかも知れず、若者の活字ばなれに歯止めをかけている。

父親の隆明氏は二十数年前、当時の若者たちに大きな影響を与えた。

しかしいわゆる親の七光的なところはない。

「父は父、私は私」と割り切っている。読者の圧倒的多数は20代の女性、学生、OLである。文章はわかりやすく、透明で、マンガ的だが、いささかの悲しみをたたえている。

物書き願望シンドローム
1991年版本誌収録。以下、

日本リサーチセンターが「89年マーケット予見」の中で用いた言葉。「物書きになりたいシンドローム」が若者の間にはびこるのは、一人称で書かれることの多い書物の場合、主人公イコール作者イコール自分と考えてしまう若者が「私にも書ける!」と発想するからだという。マスメディアの発達による文化のエロ・グロ・ナンセンス化で偶像・神格化の不在が起こり、全世界の人が隣に住んでいるが如き錯覚にとらわれている若者は、容易にドラマ(映画・テレビ・演劇・書物等)の登場人物を自分と思い込むことができるようだ。「物書き願望シンドローム」は若者の「活字志向」の高まり(俵万智の「サラダ記念日」が300万部、村上春樹の「ノルウェイの森」が400万部も売れたことは、積年言われてきた「雑高書低」、若者の「活字離れ」と相反する傾向)とあいまって、今後ますます強まるとみられている。

ヤングアダルト本(Young Adult Book)
1999年版本誌収録。以下、

ヤングアダルト(13歳から19歳)は若い大人という意味で、第2次世界大戦後アメリカの図書館界で使われだした。児童書と大人の本しかない日本の出版界に、1979(昭和54)年、YA(YA世代の欲求や悩みに答えるためその読書力に合わせ、漢字、用語、文体を平明にした図書)出版会が結成され、書店にYA専門の常設棚をつくる運動が展開された。最近では公立図書館でもYAコーナーを設ける(25%、うち12%は専任の担当者配置)動きが広がっている。書棚を「生きる」「知る」「創る」「読む」に分けるなどの試みも始まっている。YA世代の活字離れに一定の歯止めがかかりつつあるようだ。

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フィクション離れ

「少女フレンド」の終焉
1997年版本誌収録。以下、

少女漫画誌の老舗「月刊少女フレンド」(講談社)が、1996(平成8)年10月号をもって休刊し、33年間の歴史に終止符を打った。1963(昭和38)年に、わが国初の少女漫画週刊誌として、講談社から「週刊少女フレンド」、集英社から「週刊少女マーガレット」が創刊された。「フレンド」は、60年代末から70年代にかけて、里中満智子「アリエスの乙女たち」、大和和紀「はいからさんが通る」、庄司陽子「生徒諸君」などのヒット作を生み、少女漫画の活性化に大きな役割を果たした。「フレンド」の終焉は、現代の10代の少女がファッション、異性交友、タウン情報などの“お役立ち情報”へ関心を傾斜させ、急激にフィクション離れ、漫画離れ傾向を強めていることを象徴的に物語る事件ということができる。

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労組離れ

バブル経済とその後の慢性的不況、また冷戦終結を経てもっとも“離れられてしまった”のは、労働組合かもしれない。労組離れが進んだバブル期から一転、慢性的不況にはいった現在、離れた側・離れられた側にそれぞれプラスに働いているのかマイナスなのかは、判断つきかねるところ。

労組の組織率低下続く
1991年版本誌収録。以下、

労働省は、毎年6月末現在で「労働組合基礎調査」を実施し、1948(昭和23)年以来、組合推定組織率を発表している。過去の最高は49年の55.8%。76年以後、毎年減少し、83年には3割を割り、89年は25.8%と戦後最低を記録した。組織率低下の理由としては、繊維、造船など組織率の高い製造業で合理化が進み、サービスなど組織率の低い第3次産業の雇用者がふえていること、組織化の難しいパートタイマーの増加、のほか、若年層の組合離れがある。組合のある企業の正規の従業員の組織率はあまり下がっていない。ちなみに、外国の組織率は、イギリス48.9%、アメリカ17.0%、西ドイツ41.2%。

「現実路線」への苦悩
1992年版本誌収録。以下、

好景気や人手不足を背景に大手組合の春闘は時短の面でもそれなりの成果を挙げているが、歯止めのかからない組織率の低下、若年者の組合離れの風潮に対し、各組合とも「節度ある対話」の「現実路線」を採らざるを得ない状況である。組織率が過去最低の35.7%、新任教員の加入率が30%を切るまでになった日教組は、91年の大会で「対決・反対・阻止」から「参加・提言・改革」への現実路線に立つ運動方式を採択した。かつて「合理化」反対の「反マル生闘争」として78年末から79年初めにかけ時間外拒否をし実施、年賀はがきの配達を大混乱させ、約8000人の処分者を出した全逓が最近、訴訟の取り下げによる職員再採用の政治解決をはかって反処分闘争を終結させたのも現実路線への転換といえる。結果として14名の懲戒免職組合員の採用は実現せず、委員長の引責辞任という苦悩を背負った。

組合離れ
1995年版本誌収録。以下、

労働省の調査では1993(平成5)年の組合組織率は24.2%に落ち込み、76(昭和51)年以来、18年間続く低下傾向に歯止めがかからなかった。雇用者数は増加しているのに組合加入者が減り、労働者の「組合離れ」が進んでいるのである。日本労働研究機構の最近の調査では、組合のない企業において「組合はなくてよい」との回答が60%あったという。組合運動のありかたが問われているようだ。

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(既成)政党離れ/政治離れ

1970年代以降とみにいわれ、また憂慮されている事態。しかし90年代初頭から「無党派層」が改革の起爆剤としてあらたな意味を持ちはじめ、現在に至っている。

ネットワーク新党(地域政党)

現在では、当の横路氏が民主党内で旧民社党勢力の代表として〈既成政党〉的位置付けになっている。

1996年版本誌収録。以下、

横路孝弘・前北海道知事などが提唱しているもので、各地に生活協同組合や労組を糾合した地域政党(ローカルパーティ)を結成し、全国的にネットワークしようとする構想。その背景には、1995(平成7)年春の統一地方選で有権者の既成政党離れが決定的になり、また大政党では多様な国民のニーズは吸収できなくなった、との判断がある。一方、東京では海江田万里衆院議員などにより95年5月に地域政党を目指す「東京市民21」が結成されている。また旅田卓宗・和歌山市長は、「単独政党推薦でも相乗りでも、中央政党のコントロールを受けたら地方分権はできない。分権実現のために首長は大同団結すべきだ」との主張を持つ。市長ないし知事で政治組織をつくり、代議士や官僚と関係なく政府と交渉できる自治体をつくりたい、との声も首長の一部で聞かれる。

投票率
2000年版本誌収録、以下

長期低迷傾向にあった投票率が、1998(平成10)年の参院選で歯止めがかかった(44.5%から58.5%ヘ上昇)。投票時間の2時間延長(夕方6時を8時まで延長)によってか、多くの選挙で投票率の低下は下げ止まった傾向がみられる。政党ばなれ、政治不信から政治への異議申し立ての現れともみられている。投票率の上昇は、無党派層の選挙への大量出動によるもので、98年参院選のように、選挙前の予想に反しての橋本自民党惨敗のように選挙結果を大きく左右しはじめている。次の第42回総選挙も前回の59%からどの程度上昇するのか注目されている。

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