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“国際的な大イベントは日本を変えるか”の用語集
オリンピックや万博があった年のことば
執筆協力 編集工房インデックス

東京オリンピックのように日本を変えたか、大阪万博

大阪万博

日本万国博覧会の略。万国博、EXPO'70とも呼んだ。3月15日から9月13日まで大阪府吹田市の千里丘陵で、「人類の進歩と調和」をテーマに、77カ国が参加して開催され、入場者は6421万人(外国人170万人)を集めた。万博協会会長は当時、経団連会長の石坂泰三、事務総長を鈴木俊一(のちの東京都知事)がつとめた、これまた国家的イベントだった。中央の「お祭り広場」は丹下健三、そこを貫くシンボルタワー「太陽の塔」は岡本太郎によるという、これまた国家レベルのものであった。

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EXPO'70(Japan World Exposition Osaka 1970)

日本万国博覧会の略称。当初、JEXPO70とされていたが、ジェクスポという発音がよくないもので(スペイン語でワイセツな意味になる)、Jが省かれた。

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70年代モデル都市

本誌1971年版収録。以下、

科学技術庁の資源調査会が昭和44年末、これからの新都市の建設や都市の再開発を進めてゆく手がかりとして策定したもの。住民の健康を守るとともに、エネルギーや都市の空間を総合的に利用して、住みよく効率の高い町づくりを実現するために、いくつかの制御系による環境づくりを中核として描かれている。その条件は@交通制御、A高層化による住宅環境の制御、B地盤の制御、C給湯暖冷房制御、D度数的処理制御、E給排水制御、F生理的リズム制御の8項目で、人間が高度の技術文明をいかに活用するかを前提とした未来都市論といえるもの。

〜1970年代がはじまる頃、時代の風潮は“未来”であった。万博が近未来を具現化したものであったことも、この文脈のうえにある。

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オープン・スペース

本誌1971年版収録。以下、

都市の空間ということ。自動車の氾濫、軒の低い密集住宅、工場と住宅の同居といった都市の現実は人間生活をむしばみ、子供たちは遊ぶ場所さえない。そのようななかで、オープン・スペースの確保は都市生活の基本的要件になっている。道路を一定時間禁車区域にして、安全に買い物ができたり、遊んだりできる試みがなされているが、基本的には都市再開発によりオープン・スペースを確保することが必要である。

〜現代的な都市がつくられる以前から、日本の都市にはオープン・スペースという“考え方”がなかった。丹下健三が設計した万博会場メインの「お祭り広場」は、そうした意味で当時きわめて斬新かつ先進的であったのだ。この種の広場はいまやイベント会場ではあたりまえのものであるが…。

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アナウンス・エフェクト(announce effect)

本誌1971年版収録。以下、

事実についてのアナウンスメント(発表)があったことにより、予測とは違った結果を来すエフェクト(効果)。エキスポ'70の初日についてコンピュータは大混雑を予測したが、この予測がテレビなどで発表されたため、人出は予測よりはるかに下回った、などはこの例である。

〜大人数が集積する場所に起こることが、計量的にまた体系だてて分析されるようになったのは、万博の大混雑に始まる。

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知の基準

本誌1971年版収録。以下、

実務に直結する科学思考の能力と技術のこと。たとえばコンピュータで諸情報を処理する場合も、的確な情報を選んで記憶させ、同時にコンピュータに対して的確な問いかけをしなければならない。相手はたんに機械にすぎないから、バカな質問をしようものなら役に立たない答えしか返ってこないわけ。したがって知の基準を高めるために科学思考の方式を取り入れることが必要だという。

〜いかにも高度成長期的な、未来志向な、科学志向な、つまり万国博的な考え方であろう。

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目玉男

1970年4月26日、万国博会場で太陽の塔の「金色の顔」の目玉部分を乗っ取り、「万博をやめるまで降りない」と約1週間籠城、その後説得に応じて連行された佐藤英夫(25歳)のこと。ハイジャックとひっかけて、アイジャックともいわれた。直接利害が関係あるとも思われない一個人が、博覧会の開催に“命をはる”?ほどのイベントであったのか。

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反博

本誌1971年版収録。以下、

「反戦のための万国博」の略称。1970年の万国博の向こうをはって、同じ大阪で開催された(昭和44年8月)。テーマは「人類の平和と解放のために」。また博覧会そのものと同時に万国博までの継続的な運動をいう。資本家、大企業の万博、あるいは70年代安保闘争のカムフラージュとしての万博に対抗して人民の反戦のための万国博としてベ平連、反日共系学生などが主体となった。資金はゼロから出発しカンパによって4-500万円集めた。関連投資総額約2兆円に及ぶ官製「万博」に比べればささやかであるが、「物量の祭典」に対する民衆の「精神の祭典」として気炎ををあげた。

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貧乏感

本誌1971年版収録。以下、

経済成長率は高く国民の所得も増えたはずなのに、欲望がみたされないという不満感。所得と欲望のギャップが原因で、情報化社会の反映といわれる。また、物質的な豊かさから精神的な豊かさを求める傾向や、公害・交通戦争・疎外感によるイライラが、この貧乏感をさらに深くしていることから、経済成長策より積極的な社会福祉策に転ずべきだという。

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ファストフード(fast food)

ハンバーガーやフライドチキンの類で、注文してすぐに供され、また持ち帰り可の外食。アメリカから起源し大阪万博で日本に伝わった。

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カジュアルウエア(casual wear)

洋装の多少しゃれた普段着。大阪万博で日本に伝わった概念。

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カップ・ヌードル

本誌1972年版収録。以下、

インスタント食品といえる。ヌードル(めん類)をいちど調理してから瞬間的に冷凍させて合成樹脂のカップに密閉したもの。熱湯をかければすぐ食べられる。従来、登山食糧にこの種のものがあった。海老・野菜・白ソースなどの混ざったもので、湯を混ぜるだけでけっこう食べられる。このような食物は非常のときに用いられるべきものであろう。

〜今日的には、かなりこっけいにみえる解説である。

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海洋万国博

本誌1971年版収録。以下、

沖縄返還の年1972年に、沖縄返還記念事業として、日本国政府が計画している「国際海洋開発博覧会」の俗称。国際博覧会条約にもとづく特別博で、博覧会終了後も施設がそのまま残せるという利点があり、これを契機に、沖縄と本土の一体化をはかり、社会施設、観光開発を進めようというねらいのもの。特別博で、海洋開発をテーマにしたものは前例がなく、実現すれば世界で初めてのものになる。

〜東京オリンピック、大阪万博の成功があまりに大きかったため、イベントを起爆剤にするという考え方は、以後繰り返されてゆく。しかし同様の効果は得られない。社会の構造と、国民の国との関わり方・意識が変わっていったからだ。

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日本株式会社

本誌1972年版収録。以下、

アメリカとの経済関係に対して圧倒的優位にある日本をさして、1971年6月、アメリカで開かれた日米財界人会議でアメリカ側財界人が揶揄につかったことば。日本は政府と財界が一体となって外国と競争し、日本経済はそのまま一つの株式会社のようなものである。さしずめ政府を取締役会とすれば、財界や産業界は、各事業部のようなもので、事業計画から最終的な判断まで、ことごとく政府がにぎり、日本が貿易や資本の自由化をサボタージュして国際的な責務を果たさないでいられるのも、こうした背景からで、日本経済の高度成長の秘密もここにあったというわけである。

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日本列島二眼レフ論

本誌1972年版収録。以下、

南北に細長い、日本列島の機能と形態が、東北日本の目としての東京と、西南日本の目としての大阪という2つの拠点で成り立っているという事実を、カメラの二眼レフにもじって説明しようとする理論、または日本列島を、この2大拠点に積極的に再編成しようとする開発構想をさす。自然に放置すると東京のみに機能が過度集中して、一眼レフになる傾向が強いことに対しての反発でもある。71年の知事選では、皮肉にもこの2大拠点を革新政治に委ねることによって、政治地図のうえでの「二眼レフ」を一足先に実現してしまった。

〜現在、懸念的中である。

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