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“国際的な大イベントは日本を変えるか”の用語集
オリンピックや万博があった年のことば
執筆協力 編集工房インデックス

戦後最大のイベントは東京オリンピックだったといいきってよい

東京オリンピック

1964(昭和39)年10月10〜24日、94カ国7495人の選手・役員が参加し、アジアで初めて第18回オリンピック東京大会が開かれた。20競技、163種目の競技が行われ、日本は重量挙げの三宅義信、体操・男子個人総合の遠藤幸雄など金16、銀5、銅8のメダルを獲得した。とりわけ金メダルを獲得した女子バレーボールの対ソ決勝選では、テレビ視聴率が85%に達した。

日本はこのオリンピック開催に向けて、国策として関連事業を進め、公衆道徳、交通道徳の強化、街並み美化に努め、東海道新幹線、地下鉄、高速道路などの整備を含め、1兆800億円の予算が使われた。

世界からひとの集まるイベントは国威発揚に使われがちなのだが、事実、東京オリンピックにはそういう局面があったかもしれない。以下の用語にもそれが表れている。いや、ことによるといかがわしく思われる「国威発揚」を日本の国民が望んでいたフシすらある。

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専用権

1966年版本誌収録。以下、

日本オリンピック委員会は、五輪標章の著作権は国際オリンピック委員会にあり、その専用権は日本オリンピック委員会にあるとして、無断使用を禁止し、使用者からは寄付金をとっていた。これにつき東京地裁は、昭和30年9月仮処分申請に対し五輪標章は著作権法上の“美術的な著作物”とは認められないとの決定を下した。

〜現在のオリンピックはこれなしには考えられないのであるが。

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スクラップ・アンド・ビルド(Scrap and Build)

本誌1962年増補語。以下、

古いものをスクラップとし、新しいものをつくる意。造船工業の場合は、老朽船を解体、くず鉄とし、新船を建造することであり、石炭鉱業では、非能率、不採算の炭鉱を閉鎖整理し、能率のよい炭鉱の施設を近代化して、企業の合理化をはかることをいう。とくに不況の石炭産業立て直し対策の一つとして、昭和37年末、池田内閣は積極的に“スクラップ・アンド・ビルド”政策をとった。

〜高度成長の根幹ともいえる“スクラップ・アンド・ビルド”はこのあたりに始まっている。この興産スタイルは“美しい東京を海外からのお客様にみせたい”“東京を〈キレイ〉にしたい”というオリンピックのニーズと見事にシンクロし、その後の「大イベントをテコにしてスクラップ・アンド・ビルドの公共事業を不必要なくらい大規模に行う」といった地方行政の手本となった。

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ひかり号

1965年版本誌収録。以下、

昭和39年10月1日から開業する東海道新幹線“夢の超特急”につけられた愛称。東京−新大阪間を4時間で走るが、5時間で走る特急のほうは“こだま”号と決まった。

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景色補償

1965年版本誌収録。以下、

観光収入の減少に対する補償の俗称。昭和38年3月、米原から貴生川にいたる私鉄が東海道新幹線が並行して走るために生ずる損害について、国鉄から1億円支払いをうけ問題になった。

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舗装率

1965年版本誌収録。以下、

道路キロ数に対する舗装済みキロ数の割合。昭和39年はじめ現在、1級国道の舗装率は約54%、2級国道は約27%、都道府県道は約7%となっており、世界の道路では55番目の舗装率。

〜最近では未舗装の道路を探すことのほうが難しかろう。しかし55番目とは…。東京オリンピックのためだけではない、高度経済成長期の最中にあったためもあり、この時期、名神・東名・中央など主要な高速道ができている。

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赤字国債

第2次大戦下における公債乱発への反省から原則禁止されていた赤字公債が、戦後初めて発行されたのは、東京オリンピックの翌年である。

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モーター・スイーパー(motor sweeper)

1965年版本誌収録。以下、

オリンピック東京大会をひかえ、美しい東京にするのは悩みの一つだが、東急車両は豪州から道路清掃車の製造技術導入を外貨審議会に申請、昭和38年7月に許可された。この清掃車がモーター・スイーパーで、東京の道路をきれいにしようというもの。スイーパーは掃除機の意。

〜街角ゴミが少ないといわれる(もはや“いわれた”と過去形にしたほうが適当か)東京の清潔秩序は、ここに始まったものだ。あるいは戦後の荒廃からこの時点で復活したものかもしれない。さて今回のW杯、「清潔な街並み」を海外からのお客様にお見せしようという試みはあったか、あるいは成功したか?

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観光基本法

1965年版本誌収録。以下、

外国人観光客誘致のため国際観光地や観光ルートを整備し、合わせて国民大衆、とくに家族連れの健全旅行普及をはかるため、観光資源の保護育成、開発を進めることをねらいとした法律。第43国会で議員提出により成立、昭和38年6月20日施行された。

〜日本の観光業のターニング・ポイントも東京オリンピックの年である。なにしろ「外国人観光客誘致のため…」であるから。

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民泊

1965年版本誌収録。以下、

海外旅行者、特に海外からの東京オリンピック参観者をホテルや旅館などでなく、一般家庭に宿泊させたこと。ホテルなどで収容しきれないためにとられる措置。

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国際観光ルート

本誌1966年版収録。以下、

わが国の外人向け国際観光路線。すでに相当程度の外国観光客が訪れ、その受入れ施設の整っている観光地を、2つ以上結びつけ、周遊性をもたせた「周遊ルート」、各周遊ルートの拠点となる交通上の要衝と外人観光客の主要出入地点を結びつけた「縦貫ルート」が、観光基本法に基づいて指定された。指定されたルートでは、真に国際観光地としてふさわしい施設の整備充実をはかることになっている。

〜今回のW杯をみにきた海外からの観光客は、ほかの観光地をみてくれただろうか。みてくれなかったとしたら、彼らの吝嗇、物価高だけがその理由だろうか?

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IGS(International Goodwill Shop 国際親善の店)

1965年版本誌収録。以下、

海外旅行客に対して、“この店の商品、価格、サービスは優秀です”ということを商工会議所が保証する店。オリンピックを控えて、選定された店には「IGS」の横文字看板が掲げられた。

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ESS

1965年版本誌収録。以下、

English Speaking Society の略で、英語会話クラブのこと。もともと各大学には昔からあったが、オリンピック東京大会をひかえ、世をあげて英会話ブーム、大学ばかりか会社、銀行、百貨店までその看板をあげた。

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宇宙中継

通信衛星を使った日米間のテレビ中継システムも東京オリンピックのために準備がすすめられたものである。

1963年11月22日、記念すべき初の中継実験はケネディ大統領の演説を放送するはずであったが、テキサス州ダラスでパレード中の放送2時間前、大統領は暗殺されてしまい、放送はその事件を伝えることになった。

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健康の日

1965年版本誌収録。以下、

毎月7日。オリンピック国民運動推進連絡会議の健康増進運動部会が、オリンピック東京大会を機会に、昭和39年4月を皮切りとし、国民の自主的な健康増進運動を推進するために決めた。

〜いかにW杯が盛り上がっていようと、月1回の推進日までは決められるまい。日本の国も“若かった”わけだ。いまでも健康の日が続いているのかは定かではないが。

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日本武道館

東京都千代田区北の丸公園。もともとは読売・正力松太郎の主唱によるもので、東京オリンピック柔道競技会場として建設された。1万5000人収容。財団法人。コンサート会場・大学入学卒業式場・各種イベント会場として、いまや武道関係者以外にもなじみが深い、日本に欠くべからざる施設である。

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社会開発

1965年版本誌収録。以下、

昭和39年7月の自民党総裁選挙に立候補した佐藤栄作のスローガンのひとつ。池田首相がいわば“経済開発”のみに重点をおくのに対し、日本全体が足並みを揃えて生活環境がよくなるよう“人間が生きる社会”に目を向けようというもの。その一端として“人つくり”に対して、“教育開発”を主張した。11月、佐藤内閣の誕生で、その肉付けに着手した。もともとは、38年8月の人口問題審議会の答申中にあったことば。

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海外旅行の自由化

1965年版本誌収録。以下、

昭和39年4月1日から、海外旅行が自由化されたが外貨事情から1人年1回500ドル(18万円・1ドル=360円、運賃別)しか外貨が持ち出せない。2週間程度の旅行、つまりハワイや東南アジア・コースならよいが、世界一周や欧州コースなどは、ちょっと無理。

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「オリンピックをカラーで見たいカラーで見せたい」(三菱カラーテレビのCM)

テレビは過去、大きなイベントがあるたびに売れてきた。白黒テレビ時代の最大イベントは何といっても皇太子ご成婚だった。テレビメーカーが、東京オリンピックという皇太子ご成婚に負けるとも劣らないビッグイベントを最大限に利用しようと考えたのも無理からぬ話である。

実際はオリンピックの年は、テレビのカラー化には時期が早すぎたようである。ビッグイベントをテーマにしたカラーテレビの広告は、むしろ70年の万国博のほうが充実していた。

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テレビてんかん

1965年版本誌収録。以下、

テレビのちらちらする光を見ているうちにおこるてんかん。光源性てんかんの一種。米国では1952年に、早くもこの患者がでており、1960年ごろから多くなっている。日本でも数例の報告がある。もともと脳にてんかん性の異常のある人が、テレビを見ていて発作を誘発されるもので、急に意識を失って倒れ、手足をばたばたさせ、口からアワを出すようなひどいものから、短時間だけ意識を失って、すぐに戻る軽いものまで、さまざまな症状がある。小中学生に多い。

〜その後子どもたちのテレビに対する耐久力は高まり、再びテレビてんかんが問題とされるのは1997年である。 ◆光感受性てんかん(PSE)(photosensitive epilepsy)

大脳の異常から、激しく点滅する光の刺激を受けると、けいれんなどの発作が誘発されるてんかん。光原てんかんともいう。1997(平成9)年12月に放映されたテレビ東京のアニメ番組『ポケットモンスター』を見ていた子どもたちが、けいれん発作の症状を起こして多数が病院に運ばれた、いわゆるポケモン被害の原因として、このPSEが伝えられたが、厚生省研究班が原因解明を進めた結果、過去にけいれんなどの発作を起こしたことのない子どもも多く、脳の障害によるものではないと結論づけた。既往歴のない人でも、1秒間に10回程度点滅する赤い光のような強い刺激を受けると発作が起きる「光感受性反応」(PPS)が原因であり、脳神経が発達していくにつれて、光の刺激による異常が起こりにくくなるとみられる。

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経済のひずみ

1965年版本誌収録。以下、

日本経済の高度成長下にあるアンバランスといった意味でいわれるもので、大企業、成長部門に取り残された中小企業・農業、あるいは物価騰貴が目立つ。何に対して“ひずみ”なのか、それが高度成長のゆえにか、あるいは高度成長にもかかわらず生じたのか、など議論が多い。

〜今回のW杯は、経済成長とまったくと言っていいほどシンクロしていない。“日本が勝っている経済効果”が報道されるが、景気変動にすら影響していないではないか。その点において東京オリンピックとは決定的に異なる。つまりは大イベント後に起こる“不況”“ひずみ”も今回は来ないということか。

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夢の島

1965年。東京都民のゴミでつくられた東京湾の島。

都が1000万都民のはき出す大量のゴミを処理するため、とりあえず一カ所に集めて焼却するためにできたものだが、処理が間に合わずこの年の8月には大量のハエが発生して東京都江東区に上陸、ハエ騒動となり“夢の島”は一躍名をはせた。

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期待される人間像

1966年版本誌収録。以下、

文相の諮問機関、中央教育審議会(会長・森戸辰男)が検討を進めている青少年の新しい理想像。昭和40年1月11日第19特別委員会(主査・高坂正顕)の報告に基づき、その中間草案が発表された。序論「当面する日本人の課題」と、本論からなり、全文18,000字。日本の現実は、@産業技術の異常な発達から人間が機械化・手段化されつつある、Aとくに敗戦によって過去の歴史や国民性が無視されがちである、B民主主義に対する考え方に混乱があり、十分国民に定着していない。したがって@技術革新時代にふさわしい人間能力の開発と人間性の高揚、A真の世界人になるための自覚ある日本人の養成、B健全な民主主義の確立が必要だという。この中で「祖国敬愛、天皇敬愛」などが強調されており、かなり復古調が織り込まれている。

〜「お祭り騒ぎのかげで政府は…」的ないわれ方は、今回のW杯でもされているが…。

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生存者叙勲

1965年版本誌収録。以下、

国家や公共のため特に功労のあった人に対し生存中に勲章を贈る制度。戦前菊花大綬章をはじめ勲8等までの勲章を、その人の生きているうちに贈る制度があったが、昭和21年5月、占領軍の意向により停止となり、死亡した人の叙勲は金鵄勲章と爵位を除いてそのまま続けられ、今日にいたっている。吉田、鳩山、岸の各内閣は新栄典制度を立案、国会へ提案したが、社会党など野党側の反対で実現できなかった。そこで池田内閣は昭和38年7月12日、とりあえず生存者叙勲の復活を閣議で決め、新しい栄典制度を実質的に発足させた。

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戦没者叙勲

1965年版本誌収録。以下、

太平洋戦争で死没した軍人、軍属に対する叙位叙勲。将校以上の5万5000人に位階、将兵含め約200万人に勲章が贈られる。昭和39年度にまず20万人、順次5カ年計画で実施する。

〜軍隊をもつ国ならふつうにあるこの制度が、それまで中断されていたのは「敗戦」という事情によるものだが、なぜこの時期復活したのか。「経済成長によって日本の国にも自信が回復してきた」「やはりオリンピックには国威発揚的な意味があって、その背景なしとはいえない」等々がいえよう。

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公式制度の法制化

本誌1966年版収録。以下、

慣習として行われてきたこれまでの国家的行事や儀式を法律によって制度化すること。昭和36年7月、池田内閣のもとで「公式制度連絡調査会」が設けられ、関係各省の局長クラスを中心に調査、検討された。採り上げられた問題は、@元号、A国旗、国歌、国名(ニホンかニッポンか)、B天皇の国事行為の委任、C公文方式、法令の公布制度、D国賓、E国葬の6項目である。

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警察協力章

1965年版本誌収録。以下、

犯人逮捕に功績のあった民間人に対し、警察庁から贈られる表彰メダル。福岡、静岡、東京などで3件5人の殺人を犯した西口彰逮捕に協力した熊本県玉名市の古川泰竜さん一家に昭和39年1月、はじめて贈られた。

〜オリンピックが近いとあって“メダル”はありがたいものである。

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日韓基本条約

14年越しの日韓両政府の交渉の末、1965年6月22日東京で調印された。これにより、日本と韓国は国交を正常化した。

同条約は7条からなり、両国間の外交関係の開設(第一条)、日韓併合条約など旧条約の失効(第二条)、韓国政府の管轄権(第三条)、国連憲章の順守(第四条)、通商貿易の回復(第五条)、民間空港の開設(第七条)を決めた。

これとともに、@漁業、A請求権・経済協力関係、B在日韓国人の法的地位・待遇関係、C文化財関係を規定した4協定が調印された。しかし野党勢力は「アメリカを中心とした日韓軍事同盟である」として反対運動が盛り上がり、参議院本会議では自民・民社だけの強行採決で日韓条約は承認された。

スポーツ大会や大イベントの存在は、国家間の融和の機になりやすい。

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