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日本の政治が語れる常識・知識事典
その政治家がどういうヒトかわかる事典
執筆   斎藤信義 (ジャーナリスト)

消えた派閥

三木派/河本派/高村派

三木派: “バルカン政治家”といわれた故三木武夫が作った派閥。議会政治の申し子、自民党の良識といわれた三木は、田中金脈後に総理大臣となり、金権政治追求に辣腕を振るう。派閥には井手一太郎をはじめ清廉な政治家が集まり小派閥ながら存在感を示した。

河本派: 三木派を継いだ河本敏雄は企業家議員として重要閣僚を歴任したが、首相にはなれなかった。青年時代以来のリベラリストで、三木派伝統のハト派的存在感を示したが、自分の会社・三光汽船を倒産させ急速に影響力を失っていった。

高村派: 議員数12名の小派閥を継いだ高村政彦は、人材的にも以前のような“良識派”としての存在感も示せず、派閥存亡の危機にある。

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中曽根派/渡辺派/山崎派

中曽根派: 29歳衆議院議員に当選した中曽根康弘は、当初から憲法改正の論陣を張るなど“青年将校”として注目を集めた。河野一郎亡き後、中曽根派を結成。右翼政商との親密な交際、様々な疑惑、風見鶏と評された政治スタンスのマイナス面を乗り越え首相に就任する。民族主義的、右翼的な体質が色濃い派閥を形成した。

渡辺派: 故渡辺美智雄は、90年に中曽根派を円満に継承して渡辺派へと衣替えした。73年、超タカ派の政策集団「青嵐会」を派閥横断的に結成し血判状を作るなど、派閥のタカ派的体質を代表してもいる。

山崎派: 山崎拓は、渡辺の亡き後の派閥の継承を狙うが長老連中の反対にあって断念し、独立する形で山崎派を結成。若手議員が中心で、加藤紘一との深い関係もあり、タカ派色は薄まっている。

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岸派/福田派/安倍派/三塚派/森派

岸派: 戦時下の商工大臣を勤め、A級戦犯として逮捕された岸信介が創った派閥。世界各国の反共勢力との太いパイプを誇り、経済疑惑の中心にいたこともあり「妖怪」「巨魁」と評された。首相として「日米安保条約」改定を強行するなど、自民党タカ派の象徴的人物であった。

福田派: 62年に岸から派閥を禅譲された福田赳夫は福田派を結成。人材的には岸の系譜を受け継いだため自民党右派の代表格と見られていたが、福田自身は右翼的体質はそれほど強くないため、派閥の右派的体質は次第に薄まっていった。田中角栄との政争との結果、田中派に対する憎悪感情が次第に強くなっていった。

安倍派: 故安倍晋太郎は、岸信介の娘婿ということもあり、若くして「福田派のプリンス」と称された。79年、福田派を譲り受け安倍派を結成。田中派を強奪した故竹下登と盟友関係にあったことから、竹下派との怨念関係は解消されたが、派閥内のタカ派色は強まっていった。

三塚派: 安倍が死亡した後に、加藤六月との派閥後継争いに勝利した三塚博は三塚派を91年に結成。三塚自身が経済疑惑を取り沙汰されるなどしたため、首相候補としての戦いに専念できず、派閥としての結集力は徐々に弱くなっていった。

森派: 98年、三塚の会長辞任で森喜朗が会長となり森派を結成するが、亀井静香らが脱退して派閥の勢力は半減した。森、そして小泉と総理大臣を連続して生んでいるが、派閥としての力量は衰退している。

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佐藤派/田中派/竹下派/二階堂派/小渕派/橋本派

佐藤派: 戦後最長の総理大臣在任期間を持つ故佐藤栄作が創成した派閥。佐藤は岸信介の実弟だが、故吉田茂に仕えて戦後の日本政治・経済の方向性を指導し、保守本流の系譜を創りあげた。

田中派: エリート階級出身ではなかった田中角栄は「コンピューター付きブルトーザー」の異名を若くして呈される実力者で、保守本流である佐藤派を佐藤が首相退陣後の72年に奪取した。同年、政権も奪取し「今太閤」といわれたが、金権問題で退陣。経済至上主義、ハト派的派閥を確立した。

竹下派: 田中派の有力幹部であった竹下登は、田中の影響力を排除するために竹下派を結成し、派閥の大半を奪い取った。しかし、官僚懐柔、金権支配など田中の手法はそのまま継続していった。

小渕派: 93年、竹下派の有力幹部だった故金丸信の脱税事件をきっかけに派閥は分裂。小沢一郎らの有力幹部は自民党を離党して新勢力 (後の新進党) を結成。最大派閥から少数派閥に転落した竹下派は、故小渕恵三を中心とする小渕派に衣替えした。豊富な人材と資金ルート、政治的な計略と行動力でもって橋本龍太郎を首相に押し上げるなど党内一の団結力と力を示した。98年には小渕を首相に選出させるなど、再び最大派閥として蘇っている。

橋本派: 小渕の死後は橋本派に衣替えしたが、集団指導態勢を取らざるを得なくなり、派閥のきしみも聞こえてくるようになった。

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池田派/大平派/鈴木派/宮沢派/加藤派

池田派: 吉田茂の薫陶を受けた故池田勇人が創設した池田派は、戦後の保守政治の道筋をつけた派閥で、佐藤派以上の保守本流といえる。池田は所得倍増計画を推進するなど、経済政策で実行力を見せ、優秀なキャリア官僚を多数派閥に迎えいれた。

大平派: 故大平正芳も大蔵省出身で、池田の死後故前尾繁三郎に引き継がれていた池田派を71年に継承した。派閥内は官僚出身者が多く、駆け引きや行動力に弱いため「お公家集団」と他派閥からは揶揄されるようになったのもこの頃から。

鈴木派:80年、首相在任中に急死した大平の後を受けて派閥を継承した鈴木善幸は、大平同様に田中派の支援を受け首相に就任した。“暗愚の帝王”などと批判された鈴木だが、派閥の伝統であるハト派的方針は守り抜いた。

宮沢派: 86年に鈴木から派閥を引き継いだ宮沢喜一は、竹下派の力によって首相の座は得たが、官僚出身の弱点を克服できなかったため政権の座を手放すことになった。派閥としての弱点も同様で、求心力の低下が目立ってきた。

加藤派: 98年に下克上的に宮沢から派閥を奪った加藤紘一だが、このとき河野洋平らが離脱し、派閥の弱さを露呈している。その後、加藤の小渕政権への反乱失敗などがあり、派閥を分裂状態になってしまった。

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青嵐会

73年、超タカ派の政策集団として派閥横断的に結成された。故中川一郎、渡辺美智雄、石原慎太郎、浜田幸一ら自民党内の若手右派政治家が大挙参加し、綱領に血判を押すなどのパフォーマンスもあり話題になった。しかし、党の有力幹部はこの時「あと2、3回当選して大臣の座が目前になれば皆おとなしくなるさ」と言ったが、その言葉どうり、大臣適齢期になると、議員の多くは元の派閥に帰っていき、青嵐会は消滅した。

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