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日本の政治が語れる常識・知識事典
その政治家がどういうヒトかわかる事典
執筆   斎藤信義 (ジャーナリスト)

消えた党

新自由クラブ

河野洋平、西岡武夫ら衆参6人が、ロッキード事件を契機として、「腐敗との決別」を旗印に自民党を離脱して76年6月に創成した保守リベラル新党。同年12月の総選挙では18議席を獲得する大ブームを巻き起こしたが、次第に先細りになっていった。86年8月には河野以下メンバーのほとんどが自民党に復党し、党は消滅した。その後の新党ブームの先駆けとしては意味があるが、その失敗は厚い権力基盤の“壁”を議員個人個人に深く実感させ、政界再生のダイナミズムを奪う結果となってしまった。

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新進党

94年11月に発足。新生党、公明党、民社党を核として、日本新党の大部分が参加するなど衆・参合わせて214名という大勢力を誇った。政治的には保守・中道路線。小沢一郎は党首戦で盟友・羽田孜を破り党内ヘゲモニーを掌握したが、独善的で“陰険”な党運営に離反者が続出した。ついには元首相の羽田・細川、側近であった熊谷弘らも離脱し、98年1月には瓦解した。

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日本新党

92年5月に細川護熙が創った保守新党。既成政党への批判を背景に、細川のパフォーマンスもありブームを巻き起こす。93年7月総選挙では新人36人を当選させる大躍進を果たし、選挙後には新生党、社会党などの野党各党と組んで非自民連立政権を樹立した。細川は首相に就任し高い支持率を得たが、新生党・小沢の独善を止めることができず連立政権は瓦解した。細川は自らの“献金疑惑”もあり政治への興味を無くし、日本新党立て直しの努力を放棄し党は解体してしまった。

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新党さきがけ

政治改革を旗印に、自民党若手代議士が93年6月に結成した保守リベラル新党。同年7月の総選挙では日本新党と協力して13人を当選させ、細川連立政権樹立の牽引役を果たす。代表の武村正義は官房長官に就任して政権の中枢を担うが、次第に小沢との確執を強めていった。日本新党との合同の約束を細川に破られたことから、94年7月の「自民・社会・さきがけ連立政権」に参加。村山社会党政権から橋本自民党政権に移った後の96年8月、代表幹事だった鳩山由紀夫らは連立政権の矛盾、武村の“日和見主義”を批判し、武村を排除するかたちで民主党を結成し、さきがけは消滅した。

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新生党

政治改革を標榜し、93年6月に自民党を脱党して創った保守新党。党首・羽田孜、ナンバー2の代表幹事は小沢一郎。同年7月の総選挙では36人から55人へと躍進し衆院第3党に躍り出た。選挙後には細川連立政権の樹立に主導的役割を果たしたが、小沢の強権的政権運営により社会党・さきがけを政権外に去らせてしまった。94年11月、公明党などと合同し新進党になる。主要メンバーが元自民党竹下派であることから、竹下派の主導権争いに敗れた小沢が党外に活動の場を移しただけ、との批判は根強い。

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新党・みらい

細川政権瓦解後の混迷した政局の中で、94年4月に誕生した。鹿野道彦を代表とする、自民党を離党した中堅・若手議員の集団で、政治改革を標榜した。羽田孜政権には閣外協力し、「自・社・さきがけ政権」には反対するなど自主性を模索したが成功せず、その多くは新進党に合流した。自民党内からは、「政界再編時に自分を高く売ろうとして失敗した」との冷ややかな声もあるように、政治信念での行動というよりも、キャスチングボードを狙う姿勢が目についた。その点が「さきがけ」のように、政界に影響力を持つことができなかった最大の理由である。

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自由党など

「新党・みらい」と同じような政党には、柿沢弘治が94年4月に自民党を離党して結成した「自由党」がある。他にも94年の“激動期”に自民党を離党した政治家たちが結成した党としては、野田毅の「高志会」「フロム・ファイブ」や「改革の会」など多数ある。そのいずれも政治理念の高い党とは言えず、いつのまにか霧散してしまった“腰掛け”的存在の党なので、政治家にとってこれらの党に属していたことは、マイナス評価となる場合が多い。

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太陽党

新進党の解体を受け、小沢と対立した羽田孜支持派が96年12月に結成した党。旧竹下派所属議員を中心に保守系メンバーが多く、そのほとんどは民主党に合流した。現在の民主党保守派の主流を構成している。

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日本社会党

45年に結成された社会民主主義政党。長期低落傾向に陥っていたにもかかわらず、党内では左右の路線対立に明け暮れる。93年7月の総選挙で70議席と歴史的大惨敗を喫したが、細川政権に参加して45年ぶりに与党となる。94年7月には「自民・社会・さきがけ政権」を誕生させ、党首・村山富市を首相に就任させる。しかし政権の主導権は自民党に握られ、党は“現実路線”に傾斜していくが、それにより党内対立は決定的になった。96年1月、村山政権が終局し、現実路線へと舵取りを修正するため「社会民主党」と党名を変更し、歴史ある日本社会党は終焉した。これを機に、党内の右派、現実派は民主党に合流し中道左派の道へと進む。社会民主党には左派、社会民主主義原則派のみが残り、少数野党へと転落した。

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民社党

60年、社会党を脱党した故西尾末広らによって結成された中道右派政党。労働組合左派の「総評」の社会党支持に対抗した、右派の「同盟」労組の支持を受けてきた。93年7月の細川連立政権に参加するが、94年7月の「自・社・さ」政権には反対する。94年11月の新進党結成に参加し、民主党は消滅した。新進党解体後は、一部を除き多数は民主党に合流している。民主党内では保守派らと提携して派閥の一翼を担い、旧社会党人脈派閥らと対抗関係にある。

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進歩党

河野洋平の側近であった田川誠一が創った党。86年の新自由クラブ消滅後も、自民党に復帰することを潔しとせず、反金権の旗印を掲げた政党。清貧・反骨の田川を慕う国会議員は多く、たった1名の議員政党ながら政党政治の駆け込み寺的要素があった。しかし政局的には何の働きもできず、93年の田川の引退とともに消滅した。

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社会市民連合/社会民主連合

社会市民連合 77年7月の参議院選挙前に結成された、市民主義を旗印とする中道左派政党。菅直人、江田五月らが創設した。 社会民主連合 江田らは、田英夫・秦豊らの社会党内の労組依存体質批判派を向かい入れ78年3月に社会民主連合に党名を変更し、田を代表とした。社・公・民3党連立政権を指向し、その接着剤として活動を続けたが党勢は伸びず、既成政党の間に埋没気味であった。94年5月には解散し、組織としては日本新党と合併。5人の国会議員は、日本新党、新党さきがけ、無所属と分かれた。

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民主改革連合

89年7月の参議院選挙で、労働組合「連合」の推薦を受けて当選した11人が結成した、参議院の院内会派。連合の主導の元、社・公・民3党の協力を得て、既成政党とは一線を画した政治を標榜したが、92年選挙では議席ゼロ、95年選挙でも議席2と低迷し、影響力はゼロとなった。連合の政治力の衰退を見せつける組織として有名。

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