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自己責任論は、無責任社会の裏返し
執筆者 土屋彰久

「自己責任論は、無責任社会の裏返し」

自己責任

自己責任という言葉自体は、昔からありますが、これは責任文化の存在を大前提とするもので、基本的に欧米型の発想であり、日本固有の文化に基礎を置くものではありません。日本では、戦後の民主化、近代化の波に抗して無責任文化を温存しようという「伝統の圧力」が、教育現場を始めとして根強く残ったために、自己責任以前の責任の感覚からして、一般国民の感覚の中には、未だに存在しません。ですから、日本でまかり通っている「自己責任」論も、実は本来の欧米の常識とはズレているのに、誰もそのことをおかしいと思わないわけです。今、日本で言われているような「自己責任」は、通常、英語ならば「オウン・リスク(own risk):自己で負担する危険」と表現され、それは「責任の論理」よりも「負担の論理」の問題として捉えられる性質のものです。もちろん、言葉の上では「負担の責任」と言い換えれば、同じであると言うことも可能ですが、「予期される危険が発生した場合の負担」を誰が引き受けるか、というところから話は始まっており、危険性の予期とは直接の関係はなしに、「損害が発生した場合、誰が賠償するのか」というところから話が始まる、本来の「責任論」とは意味合いが違います。直訳で、「オウン・レスポンシビリティー(own responsibility):自己の立場上の責任」としてしまうと、言葉の上では間違いではないのですが、ニュアンスが違ってしまいます。何がいけないのか? 話は簡単です。日本における「自己責任」の用語法に問題があり、しかも、そのような誤用まがいのジャパン・ローカルな用語法を、政権側が意図的に先導し、それに批判力、検証力に欠けるメディアが、盲目的に追従している状況に問題があるということです。

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オウン・リスク  own risk

オウン・リスクの発想というのは、「オウン・ディシジョン(own decision):自己決定」の存在を前提とし、「オウン・ベネフィット(own benefit):自己利益」と対になっています。つまり、自分の利益のために自分で決定した場合には、その結果生じる不利益も引き受けなければならない、ということです。この「自己決定−自己負担−自己利益」の原則は、資本主義経済=経済的自由主義の大原則で、自己責任論など持ち出すまでもなく、資本主義諸国においては自明の理と言えます。ですから、自己利益のために放漫経営をして破綻した金融機関を公的資金で救済するのは、この原則に明らかに反するということになります。なのになぜ、実際には救済されたのかというと、金融機関は、表では規制でがんじがらめの護送船団方式、裏では政官界とのズブズブの癒着関係ということで、どっちから見ても、実は自己決定をあまりしていないんですね。だから、破綻した際にも「あんたらの言う通りにしてこうなったんだから、責任取ってくれ」と居直れるわけです。ただ、それは同時に、「資本主義の権化たる金融機関による、資本主義のルールの否定」という皮肉な矛盾ともなっており、論理の上では破綻しています。まあ、論理の破綻で済むなら、経営破綻よりはましという経営判断ですね。

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金融界の地殻変動

 自己責任論を最初に言い出したのは、金融界ですが、その背景には、バブル崩壊以後、長期にわたる運用難の環境下で、それまでの経営スタイルでは、収益を確保できなくなってきたという事情があります。金融というのは、安い金利で金を借りて、高い利回りでその資金を運用して、その利ざやを稼ぐのが仕事の基本です。しかし、その資金運用がうまく行かないと、調達利率が運用利率を上回る、いわゆる「逆ざや」が発生します。バブル以前、それでも日本経済は全体としては緩やかながらも右肩上がりでしたが、このバブル経済に対する対応を誤ったために、日本経済は右肩下がりの縮小型経済へと構造が転換してしまいました。そのため、運用利率は低下を続け、それに対応して調達金利もゼロ金利政策などで下げられたのですが、銀行が一般国民にプラス金利で貸し付けている時に、銀行にだけ日銀がマイナス金利で貸し付けるのはさすがに無茶だということで、調達金利はゼロ近くで止まりましたが、経済政策の誤りを見事に反映して、運用利率は下げ止まらず、諸経費を引いたら赤字という金融機関が続出し、金融機関は合併、撤退、顧客サービスの有料化、値上げと、コストカットに走っているわけです。そうした金融機関の中でも、銀行は調達利率が市場の実勢に連動するだけまだましなのですが、保険、中でも主力商品の貯蓄的性格が強い生保の場合、契約の期間が長く、昔の高い予定利率に縛られてしまうため、バブル崩壊後、早くから逆ざやが発生し、実際、破綻も相次ぐなど、苦しい状況が続いています。

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ゼロ金利政策

ゼロ金利政策というのは、どんな金利もゼロにするというものではなく、短期金融市場に大量に資金を供給することで、その主力商品である無担保コール翌日物(オーバーナイト)の仲介手数料を差し引いた実質運用金利を0に誘導する日銀の政策のことを言います。ですから、仲介手数料の分があるので、調達金利まで0になることはありませんが、それでも史上空前の低金利であり、実質的に、ほぼ0と考えて問題ありません。また、短期金利の低下は、長期金利に対しても低下の影響を与えますが、それは間接的で限定的なものにとどまるために、一般のローンの金利はそこまでは下がりません。庶民にとって、もっとも身近な長期金利である、住宅金融公庫の固定金利型ローンの金利(現在、3%前後)は、たしかにそれ自体としては、歴史的な低水準にありますが、それでも短期金利との開きは大きなままです。このように、ゼロ金利政策は、金融業界内部にとどまる資金供給であり、庶民の懐にはなかなか届きません。庶民にとって、もう一つの身近な金利である、消費者金融の金利なんて、ほとんどが出資法の上限ぎりぎりの29.2%です。庶民の暮らしの中でゼロ金利の風が吹いているのは預金の金利だけです。

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逆ざや

生保は、その商品の設計にあたり、まず運用利回りを予測します。これを予定利率と言いますが、この予定利率を基準に、保険料率や保険金額、満期金といった諸条件が決められます。そして、実際の運用実績がこの予定利率を下回ると「逆ざや」となります。生保の商品は、掛け捨ての自動車保険などの損保系の商品を典型とした短期型の商品と違い、20年、30年といった長期型商品であるために、景気の変動とは関係なく、原則として満期まで予定利率を守らなければなりませんから、景気の下ぶれリスクにも対応できるよう、ある程度の余裕を持って、この予定利率は設定されます。バブル以前は、拡大型の経済構造、政府の借金体質に裏付けられたインフレ政策、寡占構造と護送船団方式で低く抑えられた予定利率などの要因により、実際の運用利回りは、ほぼ常に予定利率を上回り、生保は左うちわでした。こうした、半分インチキの好環境で甘やかされた生保は、表面上、好調を維持したその業績とは裏腹に、実は、運用能力を低下させていきました。そうして、プラザ合意以後の金融緩和の追い風の中、怖い物知らずの「新人類」ファンド・マネージャー達は、実体的収益性を無視した投機に走り、バブルを起こすわけですが、このバブルが、一時の宴と引き換えに、その後の絶不況をもたらし、予想もしなかったような経済環境が現出するに至り、結局は自分達の首を絞めることになりました。つまり、元をたどれば、生保にとっての逆ざやは、けっこう「自己責任」だということなんですね。

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利ざや

逆ざやというのは、「利ざや」から派生した造語で、利ざやと同時に生まれた言葉ではありません。金融界の人たち、中でも株式市場に関わる人たちなどは、この種の造語を作るのが上手で、ひねりの利いた絶妙なものもあれば、生活実感に根ざした自然なものもありと、さまざまな新しい日本語を生み出しています。「利ざや」自体も、そうして古くに生まれた商売用語が一般化したものですが、その由来は、「刀の鞘」から来ています。刀の鞘は、刀がきれいに納まるように、最初から刀身より若干長めに作られているのですが、この刀身と鞘の長さの差が利幅を連想させるということで、利幅を「サヤ」というようになり、その後、「利ざや」という言葉が一般化しました。今でこそ、実物を見る機会は少なくなりましたが、玩具の刀もペーパーナイフも、皆、構造は同じですから、そんな気分で眺めてみるのも、面白いかもしれません。

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金融界発の自己責任論

金融界から自己責任論が出てきた理由は簡単です。右肩上がりの経済では、大小の差はあれ、基本的にみんなが勝ち組に入れるので、他人のふんどしを借りてでも、何番も相撲を取った方が得なんですね。だから、とにかく資金を集めろということで、どの金融機関も預金集めに奔走したわけです。負けることはないとわかっていれば、安心して全責任をかぶれるからです。客も銀行も大蔵省も、ペイオフ、預金保険なんて話は知識としては知っていても、この世の物とは思っていませんでした。ところが、右肩下がりの経済では、負け組を食い物にすることで勝ち組の利益が辛うじて確保されます。そうなると、ただ相撲を取っていたのでは、厳しくなった土俵の上で、ころころ負けかねません。実際、脇の甘かった金融機関は、こうした環境変化に気付くのが遅れ、バブル崩壊後の絶不況の中、ポンポン飛びました。こうして、にわかにペイオフという言葉が現実味を帯びてきたもので、政府は慌てて停止することにしました。必要になった時に停止するとは、何のための制度かと思ってしまいますが、逆にそれだけ、金融機関&大蔵省が、事実上、全責任を負うという不自然な慣行に、この国全体が慣れきっていたということの表れだと解釈すれば、理解できることではあります。こうして、ペイオフを停止している間に、この慣行から脱却しよう=どさくさに紛れて、自分達の責任まで国民に押しつけよう、ということになりました。

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自己責任論の狙い

バブル崩壊後の経済環境は、右肩下がりの基調の中、ある種、サバイバル我慢比べのような状況になっています。つまり、このまま座して死を待つよりは、とギャンブルに出た企業の新規投資を寄ってたかって食い物にすることで、他の企業が食いつないでいくという構造です。元々、経済にそれなりに余裕がある段階では、そうした新規投資のギャンブルをするのは実業系の企業で、金融業界は、そうした企業から金利を吸い上げていればよかったのですが、絶不況では優良な融資先などそうそうなく、金融機関の方も、金融市場の中で危ないギャンブルに手を出さざるを得なくなります。要するに、金融機関の中からも、もっともっと負け組を出して食い物にしないと、勝ち組の食い扶持が確保できないような状況が近づいてきている、あるいは、すでに半分そうなっているということです。今までは、金融市場の博打場は株式市場に限定されていましたが、これからは全市場が博打場となります。そうなると、金融市場の中で、これまでとは比べ物にならないような損が発生することになりますが、とてもじゃないですが、こんな責任、誰も引き受けられませんので、責任は消費者本人におっかぶせるしかないということで、金融界一丸となって、自己責任の旗を振り始めたというわけです。

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確定拠出型年金

金融界の肝いりで導入された、「自己責任商品」第一弾が、おなじみの確定拠出型年金です。その元となったのが、アメリカの401Kですが、誰でも一度は耳にしたことがあると思います。確定拠出型年金では、加入者は運用方法を自分で選べる代わりに、その損得、全てを引き受けなければなりません。ですから、企業の側は、月々の掛け金を支払った段階で、それ以上の負担は発生しませんし、実際の運用を引き受けるファンドの側も、大穴を空けたところで、運用手数料すら取りっぱぐれることはなく、その分も上乗せして加入者の丸損となります。つまり、金融市場の中で毎日発生する損を、そっくりそのまま、市場の外の年金加入者に転嫁することが可能な、おいしすぎるシステムなんですね。特に、構造上の問題として負け組を必要としているこれからの金融市場にとって、庶民の資金を掻き集めた上で偽装破綻をやってくれる怪しい金融機関と並んで、この確定拠出型年金は、非常に有望な負け組予備軍として期待を集めています。もちろん、国債など、安定性最優先の選択肢も用意されているので、運用先を選ぼうにも、全て外国株式や商品先物取引などリスキーな物ばかり、などということはありませんが、そのような選択をしている限り、今まで確定給付型年金が約束してきたような利回りは、もはや期待できません。現行の確定給付型の年金水準から見れば、所詮、少なく減らすか沢山減らすかの選択肢しかないというのが、確定拠出型年金の実情です。

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無責任社会

無責任は、善し悪し抜きにして、日本の伝統文化です。これは、集団的農耕を産業の基礎として発展してきた、農耕民族としての伝統を背景としたもので、その意味では、狩猟民族型の発想である、自己責任の感覚が根付きにくいのも当然と言えるところがあります。しかし、現代の無責任社会をもたらした背景として、こうした文化的要因のみならず、政治的要因も大きな影響を及ぼしていることも忘れてはなりません。責任原則の明確化と責任の個人化というのは、近代社会の重要な特質の一つとして、いずれの国においても、近代化の過程で確立されたものです。ところが、日本の近代化というのは、明治政府、あるいはアメリカと、常に「上からの近代化」として進められてきたために、その「近代化」の内容を権力側の都合に合わせて調整するということが、さまざまな箇所において行われました。その過程で、権力側は責任原則をパターナリズム(父愛主義)にすり替えることで、為政者、一般国民の双方において、責任の所在、というか責任そのものをうやむやにしてしまいました。こうした権力側の基本姿勢は、戦後になっても基本的には変わらなかったため、名目上、主権者となった一般国民は、このパターナリズムのぬるま湯にどっぷりと浸かったまま、「逃れることのできない主権者としての責任」すらも忘れてしまって、今日のような状況を自ら招く結果となりました。

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パターナリズム  paternalism

訳語としては、父愛主義が第一義ですが、意訳として、干渉主義、温情主義なども当てられます。ただし、どの訳語も正しいには正しいのですが、これらいずれも、その意味内容を完全には表せるものではありません。つまり、パターナリズムというのは、それらを全部合わせた「立場が上の者が、わが子に接する父親のような温情を持って、下の者の決定に干渉する姿勢」を一語で表すような言葉だということです。パターナリズムは、上の者の能力が高く下の者に十分な能力がない場合には、たしかによい結果をもたらす可能性が高く、上からの改革により、近代化を急速に進める場合には効率的と言えます。しかし、その副作用として、下の者の能力が向上しないという問題があります。護送船団方式で守られてきた日本の金融機関が、護送船団を解かれてバンバン飛んで、日本版ビッグ・バンの狂態を演じたのも、その典型例です。さらに、パターナリズムには、利益相反と責任の所在という二つの問題がついて回ります。利益相反というのは、上の者の利益と下の者の利益が衝突するケースで、この場合、下の者は一方的に損することになります。また、責任の所在の問題というのは、上の者の判断ミスにより損害が発生した場合に、その損害は下の者が被るだけで、上の者は、その立場の強さを生かして責任から逃れてしまうという問題で、実際、医療ミスの多くは、患者の無知につけ込むなど、こうした形で闇に葬られてきました。これは、日本の医療業界の悪しき伝統で、「医のパターナリズム」と、独立の名前まで付けてもらっています。ちなみに、どこぞの恥知らずな国会議員が知ったかぶって、パターナリズムをパターン主義のことだなどと曰っていたのを新聞で見かけたことがありますが、このような議員を我々国民が選んでしまうのも、元はといえば、パターナリズムのぬるま湯の中で脳みそがふやけてしまって、まともな候補者を選ぶ能力が低下してしまったからなんですね。

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責任原則

責任原則とは、「自由なければ責任なし」、もしくは、「自由は責任を伴う」と表現される、近代社会の根本原理の一つです。これは、まず何よりも厳格な刑事責任の問題を巡って確立されたもので、だから「自由なければ責任なし」という、消極的表現がされるのですが、その後、市民革命などにより進んだ民主化の過程で、一般市民が根本的な自由を手に入れた段階で、自由と責任は表裏一体のものであることが再確認され、同時に進んだ個人の確立と相まって責任原則が個人化されるかたちで、根本原理としての個人主義が確立しました。つまり、個人として自由を享受するためには、それと同時に責任も負わなければならないということです。

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無責任原則

「自由なければ責任なし」という責任原則を裏返すと、そのまま、「自由を放棄すれば、責任を問われることはない」という無責任原則になります。実際、日本人はさまざまな場面でさまざまな自由(=決定権)を立場が上の者(生徒−先生、部下−上司、地方役人−中央官僚、陣笠議員−派閥の領袖、日本政府−アメリカ政府、など)に委ねることで、とにかく責任から逃げてきました。上の者による決定権の簒奪や独占だけでなく、下の者のこうした保身第一の責任逃れ体質もまた、大きな力となって、日本のパターナリズムの伝統を支えてきたわけです。しかし、無責任原則は、そのレベルでは止まりません。個人主義を履き違えた無責任な行動が横行するようになれば、それはやがて、「責任を負わぬ者に自由は与えられない」という、次の段階、すなわち不自由原則にステップアップしてしまいます。プライバシーを犠牲にしつつも、犯罪対策を優先して、防犯カメラが街角に設置されるケースが増えているように、責任からひたすら逃げ続けてきた日本社会は、すでに不自由社会に突入しています。

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個人主義

個人主義、個人主義と日本ではよく言われますが、そこでの含意は、不干渉主義、他者との隔絶、あるいは自分勝手やワガママといったネガティブな意味合いばかりで、個人主義が本来意味するところとは、かけ離れたものとなっています。個人主義は、個人同士が互いに相手の人格を尊重するという、相互主義によって成立する原理であり、単純な孤立主義ではありません。また、個人主義が、他者に対する不当な干渉を排除するのは、他者の人格を尊重してのものであって、むしろ、他者の存在を無視した自分勝手な振る舞いは、個人主義に反する行動となります。自己の行動に責任を持ち、他者の人格を尊重して初めて、自らの自由もまた同じように認められる、それが個人主義の基本です。ですから、他者に対する基本的な敬意を欠いている、あるいは無責任な行動は、個人主義によって保護されるものではなく、それは緩やかなアナーキーでしかありません。個人主義は、元々、封建的秩序、身分制社会の不自由と団体責任から個人を解放する過程で確立されたものであって、第一に責任の所在を明確にするというところから発しています。つまり、無責任が横行する現代の日本社会というのは、本来の個人主義の理念には全く逆行しているということです。

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根本的自己責任

責任というのは、何らかのルールがあって初めて成立する、その意味では「法的」で人工的な発想ですが、そうした責任とは別に、人である限り、というか生物である限り逃げられない、根本的自己責任、あるいは絶対的責任とでも言うべきものが存在します。それは、自らの行動、選択の結果から究極的には逃げられない=最終的にはその全責任を否応なく負わされるということです。たとえば、ヤブ医者の手術ミスで死んでしまった場合、法的にはその医者の賠償責任を追及できます。しかし、それで本人が生き返るということはありません。ここでは、法的正義とは全く関係なく、ヤブ医者を選んでしまった選択ミスの責任を、自らの命で償わされているわけです。その街に、ヤブ医者しかいなかったとしても、根本的には同じです。政治的選択も同じで、与党に投票した場合に限らず、投票に行かなかったからと言って、あるいはさらに、自分の投票した候補が当選しなかったとしても、政府の愚策や失策の被害から逃げることはできません。理不尽だと言っても、被害は現実に発生しますので、それを避けるには自分で努力する他はありません。このような努力が、さしあたって、根本的自己責任を踏まえた行動の一例ということになるでしょう。この責任から逃げても、事態は悪化するのみなので、正面から向き合うのが賢明な対処法と言えましょう。

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