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歴史は繰り返されるの用語集
 

よみがえるモノたち(政治・経済)

トウ小平復活

1978年版本誌掲載。以下、

1976年4月の天安門事件で失脚したトウ小平副首相が再び復活した。四人組逮捕のあと復活がうわさされていたが、77年7月発表された中国共産党第十期三中全会の公報により、中共中央委員、中央政治局委員、同常任委員、中共中央副主席、中共中央軍事委員会副主席、国務院副総理、人民開放軍総参謀長として復活したことが確認された。トウ小平は56年には党中央書記局総書記に就任し、劉少奇・トウ小平ラインを形成した。しかし文化大革命のさい、劉少奇につぐ党第2の実権派として批判され、66年の8月以降、公式の場から姿をけした。その後、文革が一段落した73年に副首相の肩書きで復活し、75年には党副主席および解放軍総参謀長に就任し、周首相の後継者と見なされるにいたった。

ところが76年の2月からはじまった走資派批判により名指しで批判され、4月に起こった天安門事件で、事件がかれの陰謀であったとして責任をとわれ、すべての職務を解任されていた。したがって今度の復活は2度目の復活である。

豊富な実務経験と解放軍にも広い人脈を持つトウ小平が、失脚前と同じく党(副主席)、行政(副首相)、軍(解放軍総参謀長)という三つの分野にわたる高い肩書きをそなえて復活したことは、党組織の再建と解放軍を掌握して、四つの近代化(農業、工業、国防、科学技術を今世紀中に世界のトップレベルにまで近代化すること)を実現しようとする華国鋒体制にとって不可欠のことであった。

走資派批判のさいに、階級闘争を放棄し生産力至上主義をとなえる「三大毒草」であるとして批判されたトウ小平の『総綱を論ず』、『科学院報告提綱』、『工業二十条』などの文献が、ことごとく「かぐわしい花」として名誉快復されており、今後これらの線にそって四人組により混乱させられた諸分野での再建がすすめられるであろう。しかし、トウ小平復活には文革派からの強い反対があったことも伝えられており、またトウ小平の実力が華国鋒首相をしのぐおそれもあり、このあたりの調整が華国鋒体制にかせられたおおきな課題である。

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国民復興愛国運動  PRON Patriotyczny Ruch Odrodzenia Narodowego ポーランド語

1985年版本誌掲載。以下、

戒厳令下で設立された統一戦線機関のこと。この国の統一戦線機関としてはかつて「国民統一戦線(FJN)」があったが、他の東欧諸国と同様、選挙の際の候補者名簿作りを主目的とする形骸化された組織で、1980年の政労合意のさいに、「連帯」による協力拒否のため実質上消滅した。81年12月の戒厳令後、ヤルゼルスキ政権は権力の大衆的基盤を築こうとして、83年5月にPRONを結成、構成員は45万人を数えるに至った。国民統一戦線が各政党代表によって構成されていたのに対し、PRONは知識人層、労組、協会、自営業者などの各種社会層の代表により構成され、その機能も選挙のときだけでなく、重大な問題に関して国会の諮問に答える常設的なものになった。83年11月の物価値上げ発表にさいして、PRONが反対の意思表示をしたため、政府は値上げ幅を大幅に縮小せざるをえなくなったことに見られるように、ある程度の自主性を示すこともあるが、基本的には軍政延長政権の以降を代弁する機関であり、真に大衆的な組織にはなっていない。

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ハンガリーの“戦後体制”復活

1990年版本誌掲載。以下、

1989年2月の党中央委総会は、それまでの一党支配体制を改め、戦争直後の複数政党制に戻すことを正式に決定した。45年11月に完全に自由な総選挙が行われ、小農業者党(小地主党)が57%を得票して第一党となり、同党党首のフェレンツ・ナジを首相とする政権が成立した。共産党は17%の支持しかえられなかったが、内相のポストを確保し、ソ連軍の圧力を背景に、政敵をつぎつぎに排除し、48年6月に社会民主党を吸収したのち、一党支配体制を築いた。

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欧州復帰(アルバニアの)

1992年版本誌掲載。以下、

アルバニアは欧州安保協力会議(CSCE)に参加しない欧州唯一の国であったが、自由化にともないその態度を微妙に変化させた。1990年5月にチャルチャニ首相がはじめて参加の希望を表明、6月にウィーンで開かれたCSCE準備会議にオブザーバーを派遣、11月にパリで開かれたCSCE首脳会談までにCSCEのすべての取り決めに署名する用意があることを明らかにした。91年6月19日にベルリンで開かれたCSCE外相会議はアルバニアの正式加盟を認めた。この直後にベーカー米国務長官がティラナを訪問したが、市民は20万人という「史上最大の集会」でもって歓迎した。労働党もすでに外国の援助なしにはアルバニアの再建が不可能であることを認め、EC加盟を希望している。

91年7月末には人民議会幹部会が外資を保護する法令と利益の国外送金を許可する法令を可決した。

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沖縄復帰20年

1993年版本誌掲載。以下、

日本民族が複合民族であることは相互に異質な縄文時代と弥生時代の重層があることでもわかる。牛馬が無かったと中国の史書が伝えている時に馬の渡来があって、朝鮮半島を経て蒙古系の騎馬民族の移動もあったことを推測させられる。仏教の渡来も、宗教だけが導入されたのではなく、半島からの渡航者が支配層を中心に多数流入したことがあってのこと。この交流は濃淡はあれ、琉球列島までに続いているわけで、しかもこの島々は対岸の大陸が目と鼻の関係である。

白人、黒人、さらに黄色民族と系脈ありと、しばしばいわれるインディアン等からなるアメリカ合衆国とは歴史の深さが違い、日本列島はマンモス時代からの遺跡のある大陸続きである。異民族の流入は今日でも同じ海流をたどって難民という形でたえまなく続いている。このような民族移動のなかで注目されるのは、戦後復帰20年を迎える沖縄の場合である。わが国の骨格解剖学・人類学の先覚者金関丈夫は九州の球摩川以南は琉球列島と同系の体質がみられると割り出した。熊襲のクマは隈(スミ)という意味で、熊野のクマと同じであろうが、俗説では毛深いといわれたこともある。戦前には関東平野の地名をアイヌ語で解明するバチェラー博士のような説があったが、関東地方は「鳥の鳴く」という枕詞が万葉集ではみられるように、空漠たる原野には夜明けの鳥の声が遠くまで響いた。筆者は沖縄の離島で鳥の声以外には何一つ物音のない寂莫さを味わった。

琉球列島は南方諸島と同じように、久しい間、国家権力の体制を持たなかった。聚落はあっても共同体構造の大家族構成であった。原始呪術的な社会統制はあっても海をへだてた大陸の政治体制がそのまま及ぶことはなく、島の独自性を保持しながら、国生みの文明史が展開されていった。そこには類例のない沖縄の生活文化の豊かさと深さがある。

発展途上国の地理的環境とは大差のないここで、なぜ最先端の文化を担う交易港を中心に急速な発展をとげ、独自の王朝を形成することが出来たのか、それは世界的に注目されることである。

尚王朝の国家というユニークな権力体制が、聖徳太子の時代のわが国の仏教移入に匹敵する対岸の儒教の社会体制を背景として、先見の明をもって計画的に実現されたためであった。そこには王朝を背景に聖徳太子が果たした役割を、一宰相であり思想家であった蔡温という先覚者が担ったからこそ、自覚的に展開された政治の軌道が敷かれたのであった。

彼は表面では尚国王の体制を儀禮的な存在としてたてて、実際の権力を握った人物で、よく言われる哲人政治家とはこの人についていわれるような人物であったことは日本本土では、あまり気付かれていない。

儒学を学んだ人が執政者の顧問として、これを講じた例はあるが、その人の手によって実践されることは稀有に近い。哲人政治を説いたプラトンでも、彼が旧社会体制に立ち向かい、政治の合理性をはかったわけではなく、蔡温のように全人間的な政治指導者である例はみられない。

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族政復古

1995年版本誌掲載。以下、

自社さ3党連立政権の初仕事となった生産者米価の決定劇は、「族議員」の復活を強く印象づけた。「反自民連立政権で影響力が低下した族議員が息を吹き返しつつあり、王政復古ならぬ「族政復古」に、官僚主導で永田町を圧倒していた霞が関も対応の変化を求められそうだ」と日本経済新聞(7月7日朝刊)。

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3金時代の復活

1996年版本誌掲載。以下、

1995年6月27日、韓国で35年ぶりの統一地方選挙が実施され、注目のソウル市長選挙で野党・民主党の趙淳候補が当選するなど、金泳三大統領の率いる民自党が大きな敗北を喫した。6大都市と9道の市長・知事のうちで、与党が勝利したのは、釜山、仁川、慶尚南北道、京幾道の五つの市長、知事選挙にとどまったのである。他方、金大中氏を事実上の指導者とした民主党は、ソウルの他に、全羅道南北道、光州を制し、金鐘泌氏の率いる自由民主連合(自民連)も大田、忠清南北道、江原道で勝利した。地方選挙であったにもかかわらず、金泳三、金大中、金鐘泌の「3金」の率いる政党が、それぞれの出身地域で圧勝し、全国を地域的に3分割したのである。余勢をかった金大中氏は政界復帰を宣言し、9月5日、民主党主流派議員53名を引き連れて、新たに「新政治国民会議」を結成し、その総裁に就任した。

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ハイチ民政復帰

1996年版本誌掲載。以下、

1994年10月15日、アリスティド大統領が亡命先のアメリカから帰国して、91年9月30日のクーデター以来の軍政から解放された。ハイチ史上初の民主的選挙で大統領に選ばれたが、就任後8ヵ月で追われた大統領の復帰だった。表向きはカーター元米大統領らの説得によってセドラ将軍らが出国して民政が復帰したが、決定的要因はアメリカ軍の武力行使の脅しだった。その後は、アメリカ主導の多国籍軍のもとで、そして95年3月末からは国連ハイチ派遣団(UNMIH)のもとで、民主化がすすめられることとなった。民主化の徹底を望まないアメリカ政府と、「国民的和解」を強調するアリスティド政権のもとで、反動勢力は温存された。6月25日の総選挙・地方選挙では、技術的なミスにくわえて、不正行為・妨害行動もあり、とうてい「民主的」とは言えないものとなった。

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メキシコ・ペソ危機の再燃

1996年版本誌掲載。以下、

1994年12月20日、メキシコは約15%のペソの切下げを実施し、さらに22日には変動相場制に移行してから、ペソは暴落しペソ危機と言われる事態に発展した。危機はさらに他の新興市場(Emerging market)にも波及し、再び国際的な金融危機が生ずることが懸念された。メキシコは82年8月末にも債務支払不能の状態に陥り、累積債務問題顕在化の引金を引いたが、その時の主要債権者は日米欧の民間銀行であったのに対し、今回の債権者は短期のメキシコ政府証券などの債券や株式を保有する内外の投資家であり、前回よりはるかに逃げ足は早いと見られた。NAFTAの構成国という点でアメリカ、カナダは直ちに支援策を発表したが、アメリカ政府による国際的支援策の取りまとめは遅れ、翌95年1月31日になってアメリカ政府はIMF融資178億ドル、BIS融資100億ドルなどを含む合計498億ドルの支援策を発表した。IMFの発表によると、IMF融資は総額120億7020万SDR(約178億ドル)の18カ月のスタンドバイ・クレジットであり、これは同国の割当額の6・88倍に相当し、比率的にも絶対額でもIMFとしては未曽有の大型貸しである。このうち52億5990万SDR(割当額の300%、約78億ドル)は直ちに引出し可能、残りの68億1030万SDR(約100億ドル)については、G10以外の国々からの融資が予定されており、それが100億ドルに達しない場合には、その未達部分をIMFが融資する。BISからの100億ドルは、直接に援助を行うアメリカ、カナダの2国を除く工業国の間に割振られる。今までのところ、アルゼンチンなどの例を除けば他の新興市場への波及は回避されているが、そのような事態の発生に対処する目的でIMFの中に緊急融資制度を創設することが検討されている。

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レバノン復興

1998年版本誌掲載。以下、

1975年からの約15年に及ぶ内戦を経験したレバノンで復興への取り組みがなされている。内戦終結、中東和平プロセスの進展を背景に、92年10月に成立したハリリ政権は、2002年までの10年間に総額129億ドルの投資をするなどを目標とした復興計画「ホライゾン2000(Horizon 2000)」を発表。海外からの積極的な資金調達によるインフラ整備などに取り組んいる。アラブ諸国やフランスなどヨーロッパ諸国からの資金流入も活発で、世界銀行によれば、1人当たりGDP(国内総生産)も90年の1000ドル以下から95年には2700ドルに増大した見込み。また、96年12月にはワシントンでレバノン支援国会議が開催され、29カ国、6国際機関が参加。2000年までに30億ドルの支援を行うことに合意した。

しかし、レバノンは必ずしも安定しているわけではない。政治、軍事的にはシリアの影響下に完全に組み込まれ、また、イスラエルとの間では南レバノン問題を抱え、イスラエル軍による攻撃が断続的に続いており、97年に入ってからは復興の足取りもやや鈍くなっている。レバノン復興の最大の鍵は中東和平プロセスの進展、レバノンの行方を左右しているイスラエル・シリア間の和平交渉である。

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復活当選

2000年版本誌掲載。以下、

衆院選で小選挙区で落選しても、比例名簿によって当選することを復活当選という。一部で“ゾンビ議員”などという呼称もある。この復活当選は、政党の名簿によるもので、小選挙区で法定得票に達せず、さらに供託金も没収されるという状況下で当選することもある。さらに小選挙区順位が4位〜5位でも当選し、2位や3位の人を飛び越して当選することなどに対し、多くの批判がある。復活当選には、次点者にかぎり、法定得票をみたさなければならないという制約を設けるべきだという意見もある。

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アジアの証券市場の崩壊と復活

2000年版本誌掲載。以下、

アジア、とくにNIESおよびASEAN4(マレーシア、タイ、インドネシア、フィリピン)の各国は、1997年7月、タイのバーツに端を発した通貨・金融危機のもと、株価が急落した。90年代に入ってアジア各国は高い経済成長率を記録し、93年に世界銀行は『アジアの奇跡』の中で、世界の成長センターと高く評価した。高い経済成長は各国の株式市場の拡大を促したが、要因の一つが海外投資家の急増であった。アジアの高い経済成長を評価して長期および短期の資金が株式市場に流入した。タイ、マレーシアは国際金融センターとしてオフショア市場を創設したが、これが短期資金の流入に拍車をかけた。有効な投資資金以上の海外からの資金は不動産や株式の購入に向かい、バブルが形成されていったのである。株価下落の要因はバブルの崩壊、ドル・リンクされてきた為替レートの急落による海外資金の流出、海外負債の急増、大量の不良債権による金融システムの崩壊、さらに実物経済が落ち込んだことによる。IMFを中心とした国際的金融支援や新宮沢基金などのテコ入れ、継続的なアメリカ経済の好況などにより為替レートはしだいに安定化し、株価は急速に回復している。しかし、株価急上昇が真にアジア経済の復活を反映しているかはアジア各国の今後の経済・金融改革に依存している。

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日産リバイバルプラン(NRP)

2002年版本誌掲載。以下、

1999年10月発表、ゴーンが作成した日産の再建計画。5工場の閉鎖、1兆円のコスト削減、部品・資材取引メーカーの半減、非自動車部門の売却、2万1000人に及ぶ人員削減計画など、内部の人材ではなしえない厳しい内容が話題となった。

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