月刊基礎知識
月刊基礎知識トップページへ バックナンバーへ
SARSだからといって疎んじるな!中国系のりっぱな《キーパーソンからキーワード》
 

邱永漢

邱永漢さんは、日本人にとって「海を渡って成功する華僑」の代表選手みたいな存在だった。

来日

1924年台湾に生まれた邱は、名門・旧制台北高校を経て1942年来日(とはいえ当時台湾は日本領)、受験に合格して東京帝大の経済学部に入学した。。ちなみに李登輝総統も似たコース。台北高校を卒業して来日、京都帝国大学に学んでいる。

高校では文学かぶれとして知られていた邱が経済学部を選んだのは、植民地出身者が文学を志しても生活していける目途が立たなかったからだという。

ページの先頭へ 戻る

金儲けの神様

邱のニックネームもしくはキャッチフレーズ。その商才は若い頃から群を抜いていた。亡命先の香港で、邱は物資欠乏の日本へ、郵便小包を利用して商品を送る事業を考案。香港到着後2年にして、高級マンションを借り、運転手つきの自家用車を乗り回す身分となった。ときに弱冠26歳。ただし、この事業はのちに行き詰ったという。

現在のニックネームは「Qさん」で、生き方全般にわたる知恵をWeb上で紹介している。

ページの先頭へ 戻る

内地人

戦前、日本の植民地となっていた台湾で、日本人を呼ぶ言い方。邱は1924年、台湾・台南市生まれ。父は台湾人の実業家、母は久留米市生まれの内地人で、台南市の市場にある牛肉屋の娘だった。父にはすでに妻があり、また、当時、内地人が植民地の人間と結婚することはできなかったので、法的には内縁関係だった。邱自身は、のち母方の血縁から日本に帰化した。

ページの先頭へ 戻る

2・28事件

台湾住民(本省人)による反中国国民党暴動。1945年の日本の敗戦により、台湾の政権は中国に移管されたが、大陸からわたってきた外省人(国民党)の敵意をもって遇する支配に住民の不満が高まった。1947年2月27日、台北市でやみタバコ売りの女性と警官隊との間に起きた揉め事に端を発し、翌28日、住民群衆が殺到、警官の発砲で市民が死亡した。それをきっかけにして民衆の反国民党暴動が発生、一方で国民党政権による大弾圧が始まった。日本統治時代に養成されていた台湾人エリートたちが、暴動との関連を問うことなく逮捕され殺害され、その数2万人に達するといい、今なお行方不明者が多い。

外省人と本省人の緊張関係(省籍矛盾)や台湾独立運動はこういう経緯によるもの。若き日の邱も、独立運動に参加したが、身の危険を感じ、1948年、香港に亡命した。

発生以来、二二八事件に触れることはタブーとされてきた。民進党に代表される台湾人(本省人)の勢力が台頭すると、事件の真相究明の声が高まり、90年には李登輝総統が、二二八事件の遺族と会見した。政府機関による調査も開始された。91年には『二二八事件文件輯録』が刊行され、研究書も数多い。97年2月28日には二二八事件50周年を記念して、「台湾228記念館」が開設された。

ページの先頭へ 戻る

邱飯店

邱家の料理がきわめて美味であることをたとえた表現。命名者は文藝春秋社の名編集者・池島信平(1909−73)だという。邱は香港での生活も軌道にのったため、広州の名家の出である潘苑蘭と見合い結婚。潘は結婚以前は台所に立つことなく育ったといわれるが、結婚後は腕をふるい、のちには檀一雄や佐藤春夫などの文人・実業家たちをしばしばもてなした。食についてのエッセイ『食は広州に在り』(中公文庫)は名著。

ページの先頭へ 戻る

邱世嬪

きゅうさいぱん エッセイスト。1952年、香港生まれ。邱の長女。愛称「サイパンちゃん」。著書に「八宝菜々」など。生まれたのは映画「慕情」(1955)に登場するセント・マリー・ホスピタル。邱は郵便小包の事業が傾いたのと、世嬪の首筋にできた痣の治療のため、そして作家を志して、1954年、日本に居を移すことになる。

中国茶のショップとして知られる「Blue Tea」(東京・渋谷)は、世嬪の主宰。

ページの先頭へ 戻る

直木賞

邱は小説「香港」にて、第34回の直木賞を受賞(1955年下期)。ちなみに、同時受賞は新田次郎の「強力伝」で、同期の芥川賞が石原慎太郎「太陽の季節」だった。邱は長女・世嬪の出生後あたりから、新しい事業の展開を求めてたびたび日本に赴くようになったが、知り合いのジャーナリストに短編を見せたところ、作家・長谷川伸(1884−1963)の主催する研究会「新鷹会」に橋渡しされて筆力が認められ、会に出席するようになっていた。

ページの先頭へ 戻る

檀一雄

1912−1976 作家。代表作に「火宅の人」「リツ子・その愛」など。女優・檀ふみの父でもある。戦前、東京帝大経済学部に在学中だった邱は、友人を通して新進の作家である檀に紹介される機会を得たが、あまり興味が湧かず断ったという。戦後、作家への道を歩み始めた邱は流行作家となった檀にみずから手紙を書いて知遇を得、出版社への紹介などに際して力添えを受けた。邱と相ならぶ文壇の食通で「檀流クッキング」等の著書もある。

ページの先頭へ 戻る

「中国人と日本人」

邱の著書。1993年、中央公論社(現・新社)刊。日本人と中国人の相互理解のため、両者がいかに異なった存在であるかなどを独自の視点で叙述、新しい交流の必要性を説いたエッセイ。たとえば、日本人の気質は職人的であり、中国人は商人的、といった具合。この年を代表するベストセラーになった。

ページの先頭へ 戻る

華僑

外国に移住した中国人の総称。邱もその一人といえる。この言葉が用いられるようになったのは、19世紀後半。列強の圧力により、東南アジアに脱出する中国人が合法化され、「海外に仮住まいする中国人」という意味で 「華僑」と呼ぶようになった。同郷人による互助グループを「幇」(bang)といい、福建、広東、潮州、海南、客家の5大郷幇は、人数の多さと団結を誇った。

現在、中国政府は、中国籍のまま海外に居住している人を「華僑」、他国の国籍を取得した人を「華人」というように区別して定義している。ちなみに在日華僑は18万人、華人は2万3000人といわれる。また80年代以降、欧米、日本などにビジネスを求めて渡航する中国人が急増したが、それらは新華僑とよばれる。

ページの先頭へ 戻る
All Right Reserved, Copyright(C) ENCYCLOPEDIA OF CONTEMPORARY WORDS