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《闘争》の記録簿--いいかぃ!その幸せは“たたかってきたから”手に入ったんだぞ
 

さまざまな闘争の記録

公害共闘

本誌1971年版収録。以下、

1960年代後半から、はっきりと市民生活を脅かしはじめた公害に対して、四大公害(富山イタイイタイ病事件、四日市ぜんそく事件、阿賀野川有機水銀中毒事件、熊本水俣病事件)の裁判闘争を進めている被害者団体や各政党、労組、民間団体が共闘し組織・運動の面で全国的な公害闘争を展開しようとするもの。公害問題に対して、あらゆる政党・労組の違いを越えて統一行動を起こし、公害原因を追及する強力な運動を起こそうとするもので、国民の広い層を含む大衆運動に発展することも予想される。

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公害反対闘争

本誌1977年版収録。以下、

大気汚染、騒音、水質汚濁、食品添加物、交通地獄など、高度経済成長のひずみとして起こった公害は、60年代後半がら全国各地で表面化し、熊本、新潟の水俣病、イタイイタイ病、四日市ゼンソクなど四大公害裁判に象徴されるように、私企業による住民の人権蹂躙によって起こった。住民は企業の責任追及に立ち上がり、それらの裁判はいずれも住民が勝訴した。70年代に入ってからは、大阪の国際空港騒音訴訟や名古屋の新幹線騒音訴訟、あるいは各地の火力発電所、原子力発電所など、公共の事業に対する住民の闘争が特徴となって来た。これは、70年代に入って、公共事業が飛躍的にふえたためで、国に対して「環境権」を主張する考え方が住民の間に高まっており、環境問題をめぐる国と住民の関係は今後さらに緊張の度を加えそうである。

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原子力発電所設置反対闘争

本誌1977年版収録。以下、

昭和38(1963)年10月、茨城県東海村の日本原子力発電所の試運転で、日本に最初の原子力による電燈がともってから10年余、50(1975)年現在、茨城、福井、福島、島根県などで10基の原子力発電所が動き、、石油危機とその後の価格上昇による電気料金の大幅値上げで、今後さらに計画、新設が相次ぐとみられるが、放射能や温排水の「安全性」をたてにして、裁判闘争にまで発展するなど、周辺住民の反対が強まっている。福島県下では50年1月三木首相を相手どり第二原発原子炉設置許可取消し請求の訴訟が周辺住民から起こり、新潟県柏崎原子力発電所1号炉計画では、地盤の軟弱をめぐって住民の反対運動が起こっている。6月には、各地の“原発基地”の住民代表400人が集まって「反原発市民集会」も開かれた。原水禁国民会議(社会党系)も8月の世界大会で原発問題を取上げた。

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原発反対闘争

本誌1980年版収録。以下、

エネルギー危機、電力不足を背景に原子力エネルギーの開発が促進されており、わが国では現在稼動中の原子力発電所が14基、建設中、準備中も含めると28基に及んでいる。原子力発電所設置をめぐる反対闘争の争点は、大別すると、<1>安全性の問題−温排水による漁業資源への影響、平常運転時の放射線の環境への影響、放射性廃棄物の処理、災害対策立地、<2>設置認可手続上の違法性、の2点である。愛媛県西宇和郡伊方町での原子力発電所建設は、昭和44(1969)年に四国電力と町当局との問に「原発敷地の確保に関する契約」「業務委託契約」が締結、町議会での誘致決議、45年県議会の誘致決議、47年原子力発電所設置許可という手順で推進された。一方、44年10月「伊方町原発設置反対闘争委員会」が結成され、活発な反対闘争が開始さ九た。闘争は学習会、同盟休校、ボーリング機械等の破壊、不当な用地買収に対する訴訟等の裁判闘争によって進められた。ことに「伊方原発反対八西連絡協議会」によって48年8月に提起された「原子炉設置許可処分取消請求」は4年2カ月にわたる審理の末、52年10月に結審し、翌53年4月松山地裁は原告住民の請求を全面棄却している。しかし現在第2号炉建設をめぐって新たな聞争が進行している。また原発反対闘争は、わが国ばかりではなく、各国で活発な動きをみせている。

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住民闘争

本誌1986年版収録。以下、

新左翼各派の闘争目標は、長く「成田」をその中心としてきたが、成国空港2期工事が具体化しないこともあって、反原発、反基地などの「地域住民闘争」を「80年代闘争」の焦点として「反資本、反権力のより広範な戦線を形成するものとして取組む」との方針を打出しており、今後の方向として注目される。各派の住民闘争への昭和59(1984)年中の取組みを地域別にみてみると、中部、関東地方各12カ所、九州地方15カ所など全国61カ所で、前年より3カ所上回り、年々増えている。闘争種類別では、反原発が、宮城県・女川、新潟県・巻、静岡県・浜岡、佐賀県・玄海などの25カ所で、約半数。ついで反火電(北海道・伊達、石川県・七尾など)6件、反基地(山梨県・北富士、岡山県・日本原など)、反空港(岩手県・花巻、大阪府・泉州沖など)、反CTS(石油備蓄基地)各5件などである。これらの地域住民闘争への取組みは、あくまで地域住民との共同闘争を基本とするという立場で、実力行動など過激なやり方をできるだけ避ける方向のようで、集会、デモ、ビラ配りなどのほか、政府、自治体、関連企業などに対する抗議および裁判闘争の支援活動が主となっている。

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三里塚闘争

本誌1980年版収録。以下、

13年にもわたって継続している三里塚闘争は、住民運動の最も先鋭化した例である。学生、労働者との共闘や死傷の大量発生を理由に三里塚闘争を住民運動から除外しようとする考えもあるが、その地域性及び運動の主体たる農民の日常生活の中から発生したという点からみると典型的な住民運動の例と考えられる。昭和41(1966)年7月に行われた「三里塚空港設置」の閣議決定は、前年2月に空港予定地とされた富里村での強力な反対運動による子定地変更であった。これに対して41年6月に「三里塚空港反対同盟」が結成され精力的な闘争が展開された。しかし成田空港は53年5月に機動隊に守られた厳しい検問体制の中で開港された。三里塚闘争が多くの脱落者を生みながらも13年にわたって展開されたのは、<1>政府の安易な予定地変更(富里→三里塚)、<2>民主的な手続を欠いた空港建設の強行、<8>「空港」の公共性に対する疑い、<4>開拓民であった三里塚農民の土地への執着、などの理由によるものであった。

森山運輸租は本年7月、開港いらい凍結されていた2期工事について、反対派農民との話し合いによる解決を反対同盟に提案した。これは、運輸相が本年3月閣議で明らかにした「年内着工」を撤回したものである。いまのところ同盟側では「2期工事を前提にした話し合いに応じない」態度を崩していないが、2期工区内17戸のうち2戸が既に土地を売却しており、今後の動向が注目される。なお、新たに騒音公害や航空燃料輸送パイプラインの建設問題などが起っているので運動が拡大する可能性もある。

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全国農地開放者同盟

本誌1959年版収録。以下、

旧地主団体の一本化したもので、昭和32(1957)年末結成された。それまでの解放農地国家補償連合会、農地犠牲者連盟、被買収農地国家補正連合会の3団体が統合されたものである。ねらいは反当り10万円の国家補償要求にあり、とりあえずその前提として内閣に農地補償問題の調査会をつくらせるところにある。しかし政府の反対にあって33年度予算では実現せず、結局自民党内に調査会がつくられた。

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労闘スト(破防法反対スト)

本誌1954年版収録。以下、

昭和26(1951)年6月、総評を中心として各組合が結集し、労働法規改悪反対共同闘争委員会(労闘)を結成、闘争体制を固めてきたが、破防法案が上程されるに及んで、4月12日の第一波ストから6月12日の第5次ストまで約2カ月間にわたって5回の政治的ゼネ・ストをおこなった。第1波スト参加人員30万、第2波110万、6月の第3、4、5波合せて150万という大規模なもので、職場大会、定時退庁、賜暇戦術等で同調した組合員200万をかぞえ、戦後最大のゼネ・ストである。

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東京教育大紛争

本誌1973年版収録。以下、

昭和38(1963)年5月、筑波山ろくへの大学移転が論議されたのを契機とする。それまで3カ所に分散していた各学部の統合移転の気運が生じ、42年6月10日、評議会で移転が決定されたが、文学部教授会や学生の反対を無視した強引な決定だったため、以後移転賛成派と反対派が鋭く対立するに至った。43年6月の学長選挙で勝利した賛成派は、ついに6月20日、評議会で44年度の予算に移転調査費を盛込むことを決定した。この決定にたいして学生側は、文学部自治会の無期限ストを皮切りに体育学部を除く、ストライキで対抗し、<1>6・10決定の白紙撤回、<2>太学の将来計画などを審議しているマスター・プラン委員会(MP委員会)の解散、などをかかげ大衆団交を要求した。評議会は、授業再開を図るため、この要求に応じることを決定したが、移転推進派の理学部教授会が反対し、「今までの一方的な決定を白紙に返し、学生を含む全学的な話合いで移転問題を決めるべきだ」とする文学教授会と、鋭く対立し、43年12月には、体育学部を除く4学部の入試中止が決定されるに至った。この問題は、その後、タカ派の宮島学長が、反対派の文学部教官の辞任を求めたため、文学部の多数教官と大学当局との間に対立がつづいている。

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東大闘争/日大闘争

本誌1983年版より。以下

昭和43(1968)年から44年にかけ全国的に大学改革をめぐって学生運動が激発した。各大学の個別の問題は、大学制度そのものの改革まで迫る政治闘争に発展し、授業放棄、建物封鎖などが行われた。東大ではインターン制度をめぐり学生に処分者を出したことが発端となり、機動隊が導入されたことから全学共闘会議が結成され、東大解体を叫び無期限ストに突入し、安田講堂をはじめ建物を占拠した。紛争のヤマ場は、44年1月18日の安田講堂をめぐる全共闘系学生と機動隊との攻防戦で、最後までたてこもった学生全員が検挙された。日大では20億円の使途不明金問題が発端となり、古田会頭と学生との大衆団交がなされたが、佐藤首相の後援をうけた大学当局は、体育会系学生らのカで封鎖を解除していった。8月3日に大学臨時措置法が強行可決された後、警察力で各大学の封鎖は解かれ、学生運動はしだいに鎮静化した。

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狭山裁判闘争

本誌1994年版収録。以下、

部落解放同盟は、1963(昭和38)年5月、埼玉県狭山市で高校生中田善枝さん(16)が誘拐、殺害された事件の犯人として逮捕された石川一雄・元被告は、被差別部落出身であることへの予断と偏見に基づくものだとして、判決の取り消しと再審の開始を求めて闘争をつづけている。石川・元被告は再逮捕後犯行を自供、浦和地裁の一審(64年3月)は死刑の判決を言い渡したが、東京高裁の二審の法廷で「犯行を認めれば10年で出してやるといわれ、信じた」と自供を取り消した。しかし、東京高裁は74年10月、無期懲役の判決を下し、最高裁も77年8月、上告を棄却して、無期懲役が確定した。

弁護団は異議申立書を提出、再審を請求したが、再審開始の有力な証拠は認められないとして80年2月、棄却された。弁護団は81年にも、石川・元被告の自供は当時現場近くの桑畑で作業していた農夫の証言の状況と一致しないなどの再審請求の意見書を提出したが、最高裁はこれについても85年5月、棄却した。一方、全解連は、石川・元被告を有罪とする証拠に多くの疑問があったとしても、無罪を決定的に証明する証拠もない、との見方をしている。

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リブ(LIB)運動

本誌1971年版収録。以下、

リブとはliberation(解放)の略で、現在アメリカをはじめ各国で盛んになりつつある婦人解放運動のこと。アメリカで最大の婦人解放組織といわれるNOW(全米女性連盟)は、性別による差別の撤廃、女性が指導的地位につく可能性を増大すること、雇用の機会均等などを主張の内容としている。

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ノー・ブラ運動/3NO

本誌1971年版収録。以下、

男性との真の平等をはかるために、ブラジャーをはずそうというアメリカの女性のなかではじまった運動。コンピュータの予想でも、70年代は全女性がノー・ブラになるという。これにノー・ガーター、ノー・パンティ(パンティーストッキングにかわる)を加えて、3NOという。

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