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その他の事典
 

『現代用語の基礎知識』旧版項目より

「気象観測史上 (はじめての…) 」〔流行語大賞'90〕

特別部門・年間多発語句賞
受賞者:テレビ各局のお天気キャスター

この年は春、夏、秋、冬と、異常気象の連続であった。そのため気象予報では「気象観測史上初めての」とか「測候所開設以来の」という枕言葉が多用された。温暖化、オゾン層破壊、酸性雨など、地球の機能全体に狂いがきているのでは、と人々にエコロジーを考えるきっかけを与えた。

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異常気象 (unusual weather) 〔1991年版   気象〕

過去の平均的な気候状態 (普通は過去30年程度) から大きくかけ離れた気象現象。異常気象の内容や発生数は気候変動の動向に大きく係わっている。最近は、炭酸ガスなど温室効果気体の増加による気候の温暖化が注目されており、80年代は世界的に異常高温の発生が増加し、異常低温は反対に減少した。一方、日本では夏季の低温の多発が影響し異常低温の方が目立つが、88〜89年の冬は暖冬異変と騒がれ、89〜90年の冬も4年続きの暖冬となった。

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利雪/親雪/克雪〔1996年版   気象〕

一九八八 (昭和六三) 年に改訂された「豪雪地帯対策基本計画」では、雪害を防止する克雪から雪を自然資源として積極的に利用する利雪へと考え方を転換した。また、九二 (平成四) 年には、雪国の地域づくりを進めるよりどころになる豪雪地帯特別措置法 (豪雪法) が改正され、「利雪」という用語が初めて法律に盛り込まれた。「利雪」の主なものは、 (1) 冬の間に雪を谷間に集めて保存し、夏の渇水期に水資源として利用する「雪ダム」の構想。 (2) 冷熱源を冷房や温度差発電に利用。 (3) 断熱保温材として野菜などの農作物の抑制栽培や貯蔵に利用。 (4) 観光やイベントに利用。雪に親しむ「親雪」「和雪」などの言葉も生まれた。

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電磁波障害〔健康問題   2001年版〕

放射線から、可視光線、さらには電波に至る一連の波動をすべてひっくるめて、専門的には電磁波 (→別項) というが、現在、携帯電話やパソコンの普及とともに人体に対する影響が問題になっているのは、電流の流れから発生する電磁波のこと。人体に対する影響は、すべて疫学的調査結果によるもの。これまで電磁波障害というと、飛行機の計器類に対する影響などが注目されていたが、スウェーデンのカロリンスカ研究所が、高圧送電線周辺の住民約四五万人を対象に一九六○年から二五年間にわたって大大的な調査・研究を行い、この結果を『カロリンスカ報告』として発表して以来、世界中が電磁波の人体に対する影響に注目しはじめた。同報告によると、送電線の近くに住む住民ほど電磁波の影響とみられる障害が大きく、三ミリガウス以上の被曝 (ひばく) の場合には、小児白血病の発生が約四倍近く増えることがわかり、わが国でも高圧送電線建設に反対する住民運動が各地で起こっている。また、携帯電話を病院内で使用することによって、心電図や輸液ポンプなど医療機器に誤作動などの影響が起こることで騒ぎが大きくなり、郵政省 (総務省) は一九九六 (平成八) 年四月に、医療機器の六二%に何らかの誤作動が起きるという実態調査の結果を発表し、病棟内では携帯電話の電源を切るなどの暫定ガイドラインが作成された。

なお、電磁波の人体に対する影響について、確定的な因果関係を証明するものが少なく、それに電力会社や家電メーカーなどの思惑もからんで、無害説もかなり強引にさけばれているが、九八年六月、アメリカ国立環境衛生研究所の諮問委員会は、電磁波は発がんの原因になりうるという見解をまとめた。疫学調査では送電線近くに住む子どもにわずかに白血病の増加がみられたほか、電磁波の強い環境で働く成人の場合にもやはり同様な増加現象がみられた。

また、携帯電話の電磁波の危険性については以前から脳腫瘍との関連が疑われていたが、まだ科学的な実証がない。郵政省は九○年に、出力七ワット以下なら問題ないという同省審議会の防護指針を発表したが、九七年になって国際的な基準に合わせて、人体に吸収される限度を体重一キログラム当たり二ワットに定める指針を追加した。さらに二○○○年四月、イギリス消費者協会が、携帯電話にイヤホンをつなげて使うと、イヤホンのコードが電磁波を伝えるアンテナの役割を果たし、直接耳に当てるときの三倍の電磁波が頭部に伝わったという調査結果を発表して以来、騒ぎが再燃し、郵政省はそうした因果関係を解明するための初の疫学調査を実施することになった。調査期間は約二年、結論は二○○四年ごろになる見込み。

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無党派層〔1991年版   政党関係〕

支持する政党がない有権者層。朝日新聞社世論調査によれば年々増加する傾向にあって、1986 (昭和61) 年衆参同日選挙時には3400万有権者が無党派層と推定された。大都市部では既成政党の支持を抜いて第一党の勢力をもっている。90年総選挙では土井社会党の伸長、自民党の危機が重なり無党派層は2900万有権者推定に減少したが、自民に次ぐ第2の勢力として選挙結果に大きな影響力を与えたものとみられている。特に自民党は86年選挙でこの層から60%の支持を得たと推定されていたが、今回は47%に落ち込んだ。

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無党派層〔2000年版   政党〕

支持する政党のない有権者のこと。特に地域的つながりの薄い都市部で増える傾向が強く、ある調査によると、大都市で五−六割、中小都市で三割程度、農村部でも二割程度存在するといわれている。無党派層は、政治・選挙に比較的関心が薄く、選挙の投票率を下げる要因になっている。無党派層の質的な分析は十分でないが、よくわからないので何となく投票する (棄権の可能性も高い) 「無責任型」と、自分の意見をはっきりもった「自立型」の二種類に大別できる。もともと支持する政党がない「伝統的無党派層」と、既存の政党に失望して、支持する政党がない「一時的無党派層」とにも分けることができる。いずれにせよ、一九九八 (平成一〇) 年七月の参院選にみられるように、無党派層が大量出動して選挙の主役になる場合、政権交代を含めた、劇的な変化が生じる。今後もその傾向は増大するものと思われ、今後の政局の行方は無党派層のバランス感覚にかかっている。

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女性議員の活躍〔1991年版   女性/男性問題〕

1987 (昭和62) 年の統一地方選挙以来、女性の政治進出が盛んになっている。89 (平成1) 年7月には東京都議会に17名、参院選には22名の女性議員が誕生した。90年2月の総選挙では12名の女性候補が当選した。内訳は土井ブームの続く社会党が推薦も含め9名、共産党2名、公明党1名となっており、自民党は55年に議席を失って以来ゼロの状態が続いている。6月の参院福岡補選は安定多数を狙う自民党の候補者に、社会党の女性候補が、大差をつけて当選した。

当選を果たした女性議員たちは各地方議会で「ミスコンテスト、高校男女別定員枠」などさまざまな女性差別の問題をとりあげている。

衆参両院でも女性議員45名中41名が超党派で「地球環境を守る女性国会議員有志」の集まりを結成した。いずれは女性の地方議員等にも働きかけるなど、環境保護への大きな力になりそうである。

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郵政3事業〔流行語大賞'97〕

トップテン入賞 受賞者:小泉純一郎 (厚生大臣)

行政改革が遅々として進まぬ中、一石を投じたのが小泉。かねてからの持論である「郵政3事業の民営化」を具体化するように迫った。3事業とは、郵便・貯金・保険のことで、圧倒的な資金力を持つ郵政省が、同じ業種の民間企業の経営を圧迫しているという主張である。公共性と採算性の兼合いもあり、熱い論議を呼んだ。

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橋本自民党新総裁 (Ryutaro Hashimoto as New President of   LDP) 〔1996年版   政党〕

一九九五 (平成七) 年九月の自民党大会で第一七代総裁となった橋本龍太郎議員。当初、河野洋平総裁と九月一○日告示の総裁選挙で争う予定であったが、河野議員の出身旧派閥 (旧宮沢派) から、加藤紘一議員グループが橋本支持を表明して分裂、一転、河野議員が不出馬を表明。小泉純一郎議員が出馬したが、圧倒的多数で橋本議員が新総裁に当選した。橋本議員は旧竹下派の七奉行の一人といわれた有力議員。河野総裁誕生となった九三年の自民党の政権脱落後の総裁選でも出馬が取り沙汰されたが、竹下派の分裂が、自民党の政権脱落の要因だった経緯から立候補を取り止めていた。また橋本議員は、自民党内で右派に属する議員。第二次世界大戦までの日本の植民地拡大政策の理念「八紘一宇」を肯定する日本遺族会会長を務める。右派の故渡辺美智雄議員も当初より橋本支持を表明した。党改革の一環として、九五年三月に党大会で採択した自民党「新宣言」も今後、白紙撤回されるのかが注目される。

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政界再編と宗教界〔1995年版   現代宗教〕

五五年体制の崩壊とともに政治と宗教界との関係も再建を余儀なくされるにいたった。連立与党への公明党の参加は、連立与党内と宗教界に少なからぬ波紋を投げかけた。他の宗教団体から支持を受けている連立与党の議員は、公明党との連立によって宗教団体間の確執に巻き込まれることになった。他方宗教界は、政権の一翼を担うことになった公明党に対して警戒心を抱くこととなった。霊友会の外郭団体であるインナー・トリップ・イデオローグ・リサーチ・センターは「緊急提言」と題した冊子を一九九三 (平成五) 年九月末に送付し、排他独善的な体質を持つ宗教団体を母体とする政党が連立政権の一角を占めていることに憂慮を表明した。九四年六月二三日には、立正佼成会、神道政治連盟などが設立に参加した「四月会」 (信教と精神性の尊厳と自由を確立する各界懇話会、俵孝太郎代表幹事) が設立され、公明党への批判がなされた。こうした状況下において自民党は創価学会以外の宗教団体との連携の強化を図ったが、他方、九三年末には創価学会と立正佼成会の幹部が会合し対話の継続が合意されるなど、政治の流動化にともなって、宗教界の対立関係も微妙に変化を見せている。政教分離の原則や閣僚の靖国神社参拝問題など、政治と宗教の関係は政局に大きな影響を及ぼすことが予想される。

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新進党結成 (New Frontier Party) 〔1996年版   日本政治〕

一九九四 (平成六) 年一二月一○日、旧非自民連立政権を構成した新生党、公明党、日本新党、民社党と自民党離党者を中心に、衆議院一七八、参議院三六 (九四年一二月一二日現在) からなる巨大野党、新進党が誕生した。根本的な政界再編を狙う小沢一郎新進党幹事長の新・新党構想に沿ったもの。九五年七月の参議院選挙では、低投票率の下、旧公明党・創価学会の固い組織票に支えられ議席を倍増。次回の総選挙でも「無党派層」を中心とした大量の棄権があれば、自民党をも上回る政権党に躍進する可能性も。しかし、党組織の中核を構成する旧公明党・創価学会に対するアレルギーも強い。また、「戦後五○年決議」の際にも見られたように、党内には異なった歴史観を持つ集団も存在し、政策的にも一貫しているとはいいがたい。政界の再編過程における過渡的政党と見た方が適切。

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公明 (Koumei) 〔1996年版   政党〕

一九九四 (平成六) 年一二月に地方議員と九五年の参院選挙で改選されない参院議員によって作られた公明党の一部が分かれた政党。九四年一二月に発足した新進党に、公明党所属だった衆院議員、改選される参院議員が参加し、公明党が解散したなかで九五年四月の統一地方選挙を目前にしているなどの選挙戦術から、地方議員中心に発足した。統一地方選挙終了後も公明の新進党合流は行われず、創価学会員の新進党の党員化にも旧公明党議員が反対するなど、創価学会と新進党との協力関係に微妙な陰が落ちている。

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創価学会の自民党候補支持〔1997年版   日本政治〕

創価学会は、山梨二区で自民党現職、堀内光雄氏の支持を決定。群馬一〜五区、鹿児島一〜五区、富山二区、三区、山梨一区、三区の一四選挙区では自主投票に回ることになった。一九九五 (平成七) 年七月の参院選での新進党躍進の原動力であっただけに、新進党内には動揺が拡がった。人物本位の候補者支持は、新進党結成時点から方針としているが、自民党の宗教法人法見直しの動きや次期総選挙の結果をにらんで、政権党である自民党との距離を考慮に入れた決定との観測もある。九五年一一月の参院佐賀補選では新進党候補を全面支援したが、九六年三月の同岐阜補選では自由投票に回っている。総選挙での新進党不振を受けて、旧公明党・創価学会が新たな動きを見せることも。

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旧公明党勢力〔1999年版   政党〕

公明は一九九四 (平成六) 年一二月に地方議員と九五年の参院選挙で改選されない参院議員によって作られた公明党の一部が分かれた政党。九四年一二月に発足した新進党に、公明党所属だった衆院議員、改選される参院議員が参加し、公明党が解散したなかで九五年四月の統一地方選挙を目前にしているなどの選挙戦術から、地方議員中心に発足した。統一地方選挙終了後も公明の新進党合流は行われず、創価学会員の新進党の党員化にも旧公明党議員が反対するなど、創価学会と新進党との協力関係に微妙な陰が落ちていた。九八年一月に新進党は分裂し、参院の公明と衆院の新党平和の旧公明党勢力は、九八年度中に合流することで一致した。新進党での苦い経験から、今後は独自の路線で自民党、民主党に対峙する「第三極」を目指し、政権レベルと選挙区レベルでは、ケースバイケースで対応すると考えられる。

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公明党〔2000年版   政党〕

公明は一九九四 (平成六) 年一二月に地方議員と九五年の参院選挙で改選されない参院議員によって作られた公明党の一部が分かれた政党。九四年一二月に発足した新進党に、公明党所属だった衆院議員、改選される参院議員が参加し、公明党が解散したなかで九五年四月の統一地方選挙を目前にしているなどの選挙戦術から、地方議員中心に発足した。統一地方選挙終了後も公明の新進党合流は行われず、創価学会員の新進党の党員化にも旧公明党議員が反対するなど、創価学会と新進党との協力関係に微妙な陰が落ちていた。九八年一月に新進党は分裂し、参院の公明と衆院の新党平和の旧公明党勢力は、九八年末に合流することで一致した。そして、九九年八月公明党は、反自民のスローガンを党の基本方針からはずし、自自公連立へと踏み込んだ。

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政策担当秘書 (policy staff) 〔1996年版   日本政治〕

国会議員の政策立案能力を向上させる目的で、一九九四 (平成六) 年一月から新設された三人目の公設秘書。採用資格は、 (1) 毎年一回行われる試験に合格した者、 (2) 司法試験合格者、公設秘書経験一○年以上あるいは秘書経験五年以上で政党職員などの経験をあわせて一○年以上の者で研修を受けた者。九五年七月現在、衆院四三○参院二四○人ほどの政策担当秘書がいる。

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連座制 (involvement system) 〔1996年版   日本政治〕

本来は、犯罪者にたいして、行政上関係あるものが、責任を問われる制度。従来までの公選法では、選挙の総括主宰者、出納責任者、地域主宰者が買収・利害誘導等の悪質な違反行為により刑に処せられた場合、候補者の当選を無効としていた。九四年 (平成六) 年に成立した改正公選法では、この連座制の対象範囲が立候補予定者の親族 (父母、配偶者、子、兄弟姉妹) や候補者・立候補予定者の秘書にまで拡大された。

なお、連座制によって候補者の当選が無効となった場合、同じ選挙区での立候補は五年間できない。

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地盤・看板・鞄〔1991年版   日本政治〕

わが国の選挙活動には多くの制約条件がある。そのため選挙は候補者の選挙区における地位、利害関係 (地盤・顔) や社会的地位 (看板・肩書) 、選挙資金 (鞄) などいわゆる「三バン」で大きく左右されることになる。また「評判」が加わって「四バン」ともいわれているが、2世・3世議員の世襲傾向が強くなってきて「バン」選挙も少しずつ変形してきている。

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ネオニューリーダー (candidate of LDP leader“neo‐new leader") 〔1991年版   政党関係〕

安倍、宮沢、竹下、渡辺の後を担う自民党リーダー候補者。安倍派は加藤6月、三塚博、森喜朗、竹下派は橋本龍太郎、小沢一郎、羽田孜、宮沢派は加藤紘一、河野洋平、瓦力、渡辺派は野田毅、山崎拓、山口敏夫らである。今までのリーダーが政治資金を豊富とするボス型であったのに比べ、候補者群は政策実務型となった。2世議員が多く、また東大出の官僚議員が少なく、私学出身者が多い。

自由民主党のネオ・ニューリーダーは次の通り。
( 指名/当選/年齢/出身校/派閥/閣僚・党役員経験)
羽田孜/8回/55歳/成城大/竹下/農水相 (2)
橋本龍太郎/10回/53歳/慶応大/竹下/厚相、運輸相、党幹事長、蔵相 (2)
小渕恵三/10回/53歳/早大院/竹下/総務&沖縄長官、官房長官 (2)
小沢一郎/8回/48歳/慶応大/竹下/自治相、党幹事長 (2)
加藤六月/9回/64歳/旧姫路高/安倍/国土&北海道長官、農水省、党政調会長
三塚博/7回/63歳/早大/安倍/運輸相、通産相、外相、党政調会長
森喜朗/8回/53歳/早大/安倍/文相
河野洋平/9回/53歳/早大/宮沢/科技庁長官、元新自ク代表
加藤紘一/7回/51歳/東大/宮沢/防衛庁長官 (2)
瓦力/7回/53歳/中大/宮沢/防衛庁長官
山崎拓/7回/54歳/早大/渡辺/防衛庁長官
山口敏夫/9回/50歳/明大/渡辺/労相、元新自ク幹事長
野田毅/7回/49歳/東大/渡辺/建設相
※ ( ) 内数字は回数を示す。

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労働運動の低迷〔1999年版   労働運動〕

一九九八 (平成一○) 年は、組合運動にとって近年最低の労働環境であった。構造不況、金融・証券はじめ大手企業の倒産、リストラの嵐、「日本型」経営、終身雇用の崩壊、四月の失業率ついに四・一%、完全失業者二九○万人、組合組織率二二・六%、ベア過去最低、実質賃金の下落、どれをとっても元気の出る話ではない。多くの組合は雇用を守るので精一杯である。

組合運動は経済要求だけではない。組合員の要望に応えるためには、日常のこまごまとした問題を会社との折衝 (団交や協議) を通じて解決していく任務がある。労働立法 (九八年度は労基法や労働者派遣事業法の改正など) など政治レベルの問題は政党との連携が必要だが、「支持」政党の系列は混沌としてきた。九八年のひたすら「我慢の」組合運動は、九九年に新たな途を求めて苦闘している。

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日本労働組合総連合会 (連合) (RENG#) 〔1999年版   労働運動〕

一九八九 (平成一) 年一一月二一日に発足。九七年六月現在の組合員数七五七万三○○○人。地方連合の下に地域協議会 (地協) がある。

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全国労働組合総連合 (全労連) (ZENR#REN) 〔1999年版   労働運動〕

旧総評反主流派単産を中心に一九七四 (昭和四九) 年に結成された共産党系の統一労組懇を母体とし、二七単産、四一地方組織、約一四○万人が八九年一一月結成。九七年六月末現在の組合員数は八四万四○○○人。

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全国労働組合連絡協議会 (全労協) (ZENR#KY#) 〔1999年版   労働運動〕

連合に反対する旧社会党左派系の国労などが中心になって一九八九 (平成一) 年一二月に発足。九七年六月末現在の組合員数二七万五○○○人。

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新経済計画〔1997年版   日本経済〕

一九九五 (平成七) 年度から二○○○年度までの六年間を対象とする政府経済計画。九五年一一月二九日に経済審議会 (平岩外四会長) が政府に答申し、一二月一日、村山内閣が戦後一三番目の政府経済計画として閣議決定した。

名称は「構造改革のための経済社会計画―活力ある経済・安心できるくらし」。
計画期間の経済成長率を、構造改革が進んだ場合と進まない場合とについて想定しているのが、特徴のひとつ。構造改革が進めば九六年度からの五年間の年平均成長率は実質三%、名目三・五%で、その場合二○○○年度の完全失業率は二・七五%と見込む。構造改革が進まなければ年平均の成長率は、実質・名目とも一・七五%にとどまり、完全失業率はもっと高くなるとする。二つのケースを示したことについては、二つの見方がある。強く改革の必要を訴えるものだという評価と、計画が失敗に終わるシナリオのあることを認めたものだという見方である。構造改革の焦点とされているのは、「高コスト構造」である。その是正のための行動計画として、 (1) 物流、 (2) エネルギー、 (3) 流通、 (4) 電気通信、 (5) 農業生産、 (6) 住宅建設など十分野についてのコスト削減目標が設定されている。また、今後の成長分野として、 (1) 情報通信、 (2) リースなど企業活動支援、 (3) 人材、 (4) 医療保健・福祉、 (5) 余暇・生活、 (6) 住宅関連、 (7) 廃棄物処理など環境関連の七分野を挙げている。

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森田健作 (もりた   けんさく) 〔1993年版   人物ファイル〕

俳優。参院議員。九二年参院戦に連合系のタレント候補として出馬、東京選挙区で当選を果たした。PKO問題に関してあいまいな立場をとったことがファンをがっかりさせたものの、当選後はPKO推進の民社党に入党。一九四九年生まれ。東京都出身。明治学院大法学部中退。俳優デビューは六八年。定番青春スターの道をたどりつつ、青少年に作法を教える森田塾を開いたり、子供向け絵本の出版社を設立するなど社会に向けた幅広い活動も続けてきた。

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青島幸男 (あおしまゆきお) 〔1996年版   この一年の人名〕

東京都知事。一九三二年東京都出身。早稲田大学商学部卒。九五年、通算五期務めた参院議員を辞職して東京都知事選に立候補。政党の応援を一切受けず、政見放送以外は選挙運動をまったくしないという独自のスタイルで、保革相乗りの石原元官房副長官を破って当選。単なる「タレント候補の勝利」ではなく「無党派層の勝利」と讃えられる。五月、あくまでも公約をつらぬき東京都市博の中止を決断。単なる「無責任な思いつき」ではなく「都政を政党・役人・財界から都民に取り戻す大英断」と喝采を浴びる。さまざまな利権・既得権が絡む公共事業をあっさりやめてしまうことも可能なのだという発見は、都民ならずとも新鮮な驚きでもあった。が、最近はどうも雲行きが怪しい。九月、やはり公約だった「旧二信組処理問題に公費を使わない」を撤回表明。また、官官接待問題でも都の食糧費の情報公開を拒否するなど、都民に「まことに遺憾に存じます」と思わせる言動が相次いでいる。もちろんまだせっかちに評価を下す時期ではないし、より現実的に都政に対応できるようになったという見方もできるが、さすがに「そのうちなんとかなるだろう」と楽観ばかりもしていられないようだ。

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松下政経塾〔文化 1978『20世紀事典』〕

松下電器産業相談役の松下幸之助氏が私財70億円を投じ、財団法人「松下政経塾」を茅ケ崎市潮見台に設立することを明らかにし、大きな話題となった。松下氏の構想は、将来日本を背負って立つ政治家など、各界の指導者になる人材を育成しようというもので、1979年に開校した。塾生は毎年大卒などから30人程度選考し全寮制、企業の給与に当たる研修手当が5年の研修期間中支給される。保革にかかわらず門戸を開き、広く人材を育てるというもの。

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ボキャ貧〔1999年版   時代観察〕

「ボキャブラリーが貧困」の略。米国メディアに「冷めたピザ」呼ばわりされた小渕首相が、半ばヤケクソ気味に自らを形容した自嘲的自称。ちなみに首相は早稲田大学雄弁会のご出身であられる。この小渕=ボキャ貧説は、筆者が支持できる唯一の首相見解かもしれない。とはいえ、ボキャ貧の名に値するのは首相だけではない。いまや政界、官界、財界はもとより、言語のプロであるはずの学界、言論界……さらにはボキャブラリーの最前線であったはずの若者界にいたるまで、日本中があまねくボキャ貧に覆い尽くされていると言っても過言ではないのではないだろうか。最近のコギャル語やOL語も完全に「進化の袋小路」にはまり込み、学生やコピーライターやコラムニストの造語能力も衰退の一途をたどっているとしか思えない。TVの『ボキャ天』もどんどんつまらなくなっている。子どもたちが「ムカつく」自分を幼いなりに直観的に相対化することもできず、「キレる」表現を豊かに差別化できないままなのも、無理もないという気がする。これはもはや思考停止どころか感覚停止に近い事態である。これでは『現代用語の基礎知識』の行く末までが危ぶまれる。大量の言語情報をただ受容したり消費したりするのではなく、少しでもより多く「感じる」こと   ――   それなしには、けっして言葉は豊かにならないのである……って、もちろんこれは他人事ではなく、このページにもボキャ貧な紋切り型表現がいくらでも見つかるはずである。ぜひボキャ貧生活脱出のための教材にしていただきたい。

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三極構造 (triangle structure conception) 〔1993年版   政党関係〕

今後の政治運営が、保守、中道 (公明、民社、社民連) 、革新 (社会、共産) の三派によって行われていくとの構造論。公明、民社両党の委員長らが主張し、一九八九、九〇 (平成一、二) 年の国政選挙で自民と社会との狭間にあってその存在意義を問われる結果となったことから、存在意義の再構築として打ち出された。中道・革新または保守・中道という二極的な見方から、中道が国民の目から補完勢力として意義を失いつつあることから、両者とに距離を置いて政治運営を是々非々で行っていくとの考えに帰着した。八三年の自民・新自ク連立政権以降の中道の保守党寄り路線による党勢の衰退に歯止めがかかることが期待されている。

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加藤紘一 (かとう   こういち) 〔1994年版   人物ファイル〕

衆議院議員。自民党〈宮沢派〉、山形二区、当選八回。外交官から政治家へ転身、七二年に初当選。大平内閣で官房副長官を二期つとめた。口の堅さには定評があり、なかなか脱がせにくいという意味で、記者から“ブリキのパンツ”というあだ名をつけられた。安保世代で若手ハト派と目されていたが、八四年、中曽根第一次改造内閣で防衛庁長官に就任、二期つとめた。英語と中国語は抜群の実力で、豊かな国際感覚を武器に外務畑を歩むと思われたが、「外交官出身だが、国内的な政策を知らずに、党内的な力もなしに外交政策をしても意味がない」と、農業問題や社会保障問題、社労行政畑を専門に歩んできた。宮沢派のホープで“将来の総裁候補の一人”との呼び声も高い。一九三九年山形県生まれ。東大卒。

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橋本龍太郎 (はしもとりゅうたろう) 〔1996年版   この一年の人名〕

衆院議員/通産大臣/自由民主党総裁/小渕派。通称=橋龍。一九三七年東京都出身。慶應義塾大学法学部卒。九五年六月、日米自動車交渉/橋本・カンター会談での強硬姿勢と竹刀パフォーマンスは、やはり九月の自民党総裁選圧勝への布石になったようだ。ただし総裁選での小泉純一郎候補との公開討論でも、明確な政策は見えてこない。竹下派以来の宿敵・小沢一郎 (新進党) とどこが違うのかという声まである。日本遺族会会長も務め「中国・朝鮮はともかく対連合国戦争での日本に侵略性はなかった」と明言するなど一見タカ派的イメージだが、実は「反戦平和主義者」の説も。米国では「日本の政治家には珍しく明確な個性と見解を持ち、特に保守系では異色の一匹狼」「小沢と並ぶ欧米型政治家」など評価は好意的。一方で「官庁の擁護者・族議員という古い自民党体質には本質的に変わりない」の声も。ちなみに弟の橋本大二郎・高知県知事も官官

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新保守主義 (neo conservatism) 〔1991年版   アメリカ問題〕

1970年代の後半以降、アメリカにおいて支配的になった政治潮流。その特徴としては、 (1) 自由放任主義、 (2) キリスト教との密接な関係、が挙げられよう。西欧では一般に保守主義は、貴族制や身分制を擁護し、資本主義的自由競争に対してはむしろ懐疑的で社会政策に強い関心を示すことも少なくない。しかし、アメリカの保守主義は徹頭徹尾自由主義的であり、政府の干渉をできるだけ排して自由競争や自由市場の原則を貫くことに熱心である。具体的には減税、政府規模の縮小、福祉の見直し、統制撤廃などが要求されることになる。第2のキリスト教との関連は、平等化の進行によって節度を失いつつある社会に、伝統的な価値や規律を復活させるため、キリスト教への信仰を強めようとする形で現れる。特にエバンジェリカル派やファンダメンタリストが大きな役割を果たしており、具体的には、妊娠中絶、強制バス通学、公立学校での礼拝禁止、同性愛などに反対し、アメリカ社会の道徳的浄化に努めるべきことを訴えている。

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旧渡辺派 (former Watanabe faction) 〔1996年版   政党〕

故渡辺美智雄議員を会長とする自民党第四の派閥。前身は鳩山民主党のうち岸派を除いた議員によって河野一郎議員が創設した派閥。河野議員死去後、大部分を中曽根康弘議員が掌握した。長年にわたって党中央の中心から外れていたが、中曽根議員が一九八二 (昭和五七) 年に総理となってから安倍、宮沢両派に近い勢力を確保するほどに膨張した。九○ (平成二) 年二月の総選挙を経て、渡辺議員が会長に就任。渡辺議員は、宮沢内閣にあって副総理兼外相となったが、健康を害して入院。九三年総選挙後の自民党総裁選挙では立候補したものの、河野議員に敗れた。九四年四月の細川首相辞任では、小沢一郎議員の働きかけから自民党離党の瀬戸際まで決意したが、遂に実行せず、政治家としての信用を大きく失うことになった。九四年に派閥を解消したが、九五年二月には勉強会「新保守研究会」を発足。九五年自民党総裁選挙では、早々と橋本龍太郎議員支持を打ち出し、河野再選阻止を鮮明にした。九五年九月一五日心不全のため死去。

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民主党〔1997年版   政党〕

新党さきがけ代表幹事の鳩山由紀夫は、一九九六 (平成八) 年に入って、春から新党を模索した。新進党の船田元をパートナーとして、いわゆる“鳩船新党”構想があった。結局のところ、船田新保守主義と、リベラル合同を目指す鳩山との意見調整はできず、決裂した。鳩山は、厚生大臣菅直人との連携に入り、八月末、いわゆる“排除の論理”で、武村正義さきがけ代表や、村山富市前首相に対し、「新党への参加を御遠慮いただきたい」とし、鳩山新党を踏み出した。菅も、九月に合流し、民主党として、九月二八日に新党は産ぶ声を上げた。鳩山・菅の二人代表制を取り、“市民が主役”の民主党というキャッチフレーズで、霞が関の解体・再生を目指し、行革による民中心の政治を主唱している。現職五二人で旗揚げし、自民・新進両党に次いで、第三党の地位を占める。この結果、新党さきがけと社会民主党は分裂し、苦しい政局運営を余儀なくされている。第四一回の総選挙で、民主党は五二議席を獲得した。このことによって、民権政治の中心的存在として注目が集まっている。戦後世代の若いリーダーの手腕が試される時である。

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右翼運動 (right‐wing movement) 〔1991年版   政治理論〕

明治の自由民権運動のなかからも、日本国家を対外的に、発展させるという国家主義のために民権を発達させねばならないという国権論が生まれた。この国権論を大陸進出に転換させたのが黒竜会系の右翼運動であり、日本主義的な思想運動に連なっている。また大正時代、労働運動に対抗してスト破りの役割を果たす、保守政党の院外団的な右翼団体があって、暴力団の性格を帯びていた。これに対し、国家社会主義的傾向の右翼は農村青年の不満を吸収して、満州事変を機として軍と結びつく社会変革の行動をとった。また、右翼と呼ばれるものには観念右翼といわれる思想運動から、行動右翼といわれる直接行動を肯定するものまである。

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新右翼〔1993年版   学生・青年・大衆運動〕

とくに一九六八、六九 (昭和四三、四四) 年の全共闘・大学闘争時、新左翼に対抗する潮流として各大学の民族派学生によってつくられた、旧来とは異なる右翼の新しい潮流。既成右翼は「親米反共」だったが、新右翼は「Y (ヤルタ) P (ポツダム) 体制打倒」を基本的理念とする。日本民族の真の独立のために、ヤルタ、ポツダム条約によって第二次世界大戦の終結を決めたアメリカ、ソ連の「二大国による戦後世界の分裂支配」の“ヤルタ体制”と、占領下の「反天皇、反民族、反国家的戦後状況」の“ポツダム体制”を打倒すべきだとするもの。この「Y・P体制打倒」の理念から、現在の憲法、日米安保条約、政、財、官界、そして歴代保守政権と癒着してきた既成右翼も、Y・P体制を肯定するものとして、批判の対象となる。「Y・P体制打倒青年連盟」を名乗る四人による一九七七 (昭和五二) 年三月の経団連、三人による八八年一月の住友不動産襲撃、占拠事件はその理念的行動。新右翼の中には、火力発電所建設反対運動を機関紙に連載したり、原発事故に抗議行動を起こしたり、また警察の職務質問の際の暴力に対し、警察署への抗議行動をつづけるものもある。

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新左翼セクト〔1995年版   学生・青年・大衆運動〕

新左翼党派は、▽革共同 (革命的共産主義者同盟) 系―中核、革マル、JRCL (旧第四インター) など、▽ブント・共産同 (共産主義者同盟) 系―戦旗・共産同、共産同戦旗派や、赤軍派など十数派、▽革労協 (革命的労働者協会、解放派) 系―革労協狭間派、同労対派、▽日共左派系―日本労働党などにほぼ大別される。一九九四 (平成六) 年六月現在、総数約一万八〇〇人といわれる活動家の主要党派別数は中核約三二〇〇、革マル約一九〇〇、戦旗などブント各派計約一三〇〇、革労協二派計約七七〇、JRCL (旧第四インター系) 約五〇〇など。

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新左翼の闘争と戦術〔1995年版   学生・青年・大衆運動〕

新左翼党派は、▽中核派、革労協 (解放派) 狭間派、戦旗・共産同などの武装闘争第一主義グループ、▽革マル派、日本労働党などの組織拡大重視グループ、▽理論グループなど、党派によって性格を異にしている。とくに中核派などの武装闘争重視グループは、公然党派として集会、デモなどの大衆街頭活動を行う一方で、警備強化に対抗、また逮捕への組織維持のために「革命軍」などの非公然・地下活動部分を拡大、強化し、科学機器などによるゲリラ、テロ攻撃に活動の重点を置いており、組織実態の把握が難しくなっている。

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新左翼の理論〔1995年版   学生・青年・大衆運動〕

日本の新左翼は、一九五五 (昭和三〇) 年、日本共産党が第六回全国協議会 (六全協) でそれまでの武装闘争方針を放棄、議会主義路線に転換したことに反発して、革共同、ブントなどが誕生した。そこから、基本的に反共産党の立場に立つため、反日共系、あるいは共産党本部が代々木にあることから反代々木系と呼ばれた時期もあった。その後、活動の過激化につれて警察は極左暴力集団と呼び、過激派というマスコミ用語が定着した。イデオロギー的には、マルクス・レーニン主義、トロツキズム、あるいは毛沢東思想を基調とし、そのため共産党はトロツキストと呼んでいるが、新左翼党派は共産主義・社会主義“本家”のソ連の解体などの状況にも変わらず前記の革命思想を活動の基盤としている。

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ファシズム (fascism) 〔1991年版   政治理論〕

イタリアのムッソリーニの政治運動とその理論をいったのが言葉の起源。それがやがてひろく他の同種類の国家主義運動の総称となった。イタリア語のファッシオは、団結を意味する木の束のことで、権力の象徴であった。ムッソリーニは1922年、ファシスト党政府を樹立し、独裁政治を行った。この場合、すでにあったアナルコ・サンディカリズムの思想状況を利用している。この時期にドイツもヒトラーがナチズムを主張し、ドイツ、イタリアでの一党独裁の国家主義が、フィンランド、ギリシャ、スペインにまで拡大された。ナチズム (nazism) は、民族社会主義 (national socialism) の略称であるが、ナチス (nazis) と呼ばれるのはドイツ語の民族社会主義 (national‐sozialismus) のなかの四つの文字に集約したもの。

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九三年体制 (1993   Regime) 〔1994年版   時代感覚〕

「反自民体制」、「非自民体制」、「八派連立体制」、「細川体制」。一九九三年夏、遂に“五五年体制”が崩壊し五五年以来の自民党一党支配体制が終わりを告げた。それ以前の自由党や民主党などの時代も通算すれば、実に半世紀にもなんなんとする保守派による日本支配体制が突如崩壊したのである。これに先立つこと約一年、九二年一一月三日のアメリカ合衆国大統領選挙で一二年間に及ぶ共和党政治にピリオドを打って民主党の手に政権を奪回したビル・クリントンの勝利は「一九九二年の革命」 (Revolution of   1992) と呼ばれているが、日本で九三年に非自民党勢力の大同団結によって実現の運びとなった七党一派の連立政権は、まさに「一九九三年の革命」とも呼ぶべき大きな変化のエネルギーを発揮したのである。そして、この画期的な「九三年体制」は決して確定的で安定的なものではなく、自民党が“野合”と呼んでいるようなかなり無理な協力関係の上に成立した“同床異夢”政権ないしは“合従連衡”政権、“大同小異”政権であり、早晩さらに新しい体制が生まれることは必至である。かりにそれを“九四年体制”と呼ぶならば、現細川政権を支えている八派のうちの最大勢力である社会党の分裂、および第二勢力としての新生党の保守回帰とそれに同調する公明党を中核とした与党の再編成、ならびに日本新党の孤立化ないしはさきがけなどとの合同を基軸とした“新党連合”の再構築…など、実に微妙なバランス・オブ・パワー (力の均衡) の上に組み立てられることになるであろう。かてて加えて、いまや「史上最強の野党」と呼ばれるに至った自民党のほうも、派閥の廃止や停年制の実施、選挙制度の改革、政治資金の規制、憲法論議…などをめぐって激しく揺れ動き、場合によっては再分裂する可能性もはらんでおり、そのような流れの中から渡辺派や若手刷新グループの離党騒ぎも出てくる可能性が強い。そして、彼らが新生党を選ぶか日本新党もしくはさきがけを選ぶか…などの微妙なパワー・ポリティックスによって、「九四年体制」は完全に「九三年体制」とは質の異なったものになるかもしれない。

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3M連合・YKKライン・竹三関係〔1992年版   ワードウォッチング〕

自民党総裁選での宮沢・三塚・ミッチー (渡辺) 三派連合が「3M」、その各派の山崎拓・加藤紘一・小泉純一郎代議士が「YKK」、竹下、三塚で「竹三 (たけみつ) 関係」。

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グループ・新世紀〔1995年版   政党〕

一九九四 (平成六) 年五月に発足した自民党議員による派閥横断的政策集団。当選一、二回の議員が、海部俊樹自民党内閣から続いた政治改革論議で慎重な姿勢をとりつづけた山崎拓、加藤紘一、小泉純一郎議員ら (YKK) を擁立して組織化した。小選挙区比例代表制の導入が決まったことから、新選挙制度に対応した党運営や、政治資金の透明化などを掲げ、派閥解体、世代交代による党の刷新を進めるとしている。七月の羽田内閣総辞職では、自社連立に積極的な態度をとった。加藤紘一代表、幹事長山崎拓。会員は六四人。

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国対政治 (political negotiations behind the curtain) 〔日本政治〕

公式の議論の場である国会を離れて、各政党の国会対策委員会関係者が行う裏交渉のこと。国会には、議会運営委員会という常任委員会があり、審議事項、質問時間、審議日程、法案採決などの調整を行う。しかし、各党には、国会対策委員会がおかれ、この委員・委員長が国会の場で調整できなかった問題を秘密のうちに調整することが慣習化してきた。各党の総裁、委員長ですら、何が話し合われたかを知らない場合さえあるという。いわば私的な組織である国会対策委員会を中心に、公的な決定が行われる構造をいう。

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世代会計〔財政予算〕

各世代別に、政府に対する支払い (税金の納付、国債の購入、年金の支払い) と政府からの受け取り (補助金の受け取り、国債の利払いの受け取り、年金給付) をそれぞれ分類して、しかもそれをある世代に属している人が一生の間に合計でどれだけ受け取ったり支払ったりしているかを計算して、世代別の損得勘定を確定することを、世代会計という。このような作業は、近年、アメリカの有力な財政学者であるコトリコフ (L.J.Kotlikoff) らによって提唱され、最近ではわが国を含めて主要な先進諸国で、数量的な作業が進められている。世代別のトータルな損得勘定が確定すれば、財政制度によって、どのような世代間の再分配が行われているのかが明確になる。また、世代会計はストックベースの指標であり、フローベースの指標である財政赤字よりも、ストック化した経済では財政に関するより有益な指標と考えられている。

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バローの中立命題 (Barro's debt neutrality) 〔2000年版   財政予算〕

公債の償還するのを先送りし、借り換え債をどんどん発行していけば、現在の世代が死んでから現在の公債が償還される。世代の枠を考慮すると、リカードの中立命題は成立しない。この場合にも課税と公債の無差別を主張するのが、遺産による世代間での自発的な再配分効果を考慮する「バローの中立命題」である。バローは、親の世代が利他的な遺産動機をもつことで、子の効用=経済状態にも関心をもつことを指摘し、その結果、子の子である孫の世代、さらに孫の子であるひ孫の世代の効用にも関心をもつことを示した。これは、結局無限の先の世代のことまで間接的に関心をもつことを意味するから、いくら公債の償還が先送りされても、人々は自らの生涯の間に償還があるときと同じように行動する。公債発行と償還のための課税が同一の世代の枠を超えても、公債の中立命題が成立する。

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二重の負担〔年金〕

年金財政を賦課方式から積立方式に切り替える際に生じる負担。賦課方式の年金では世代間扶養が順送りになされる一方、積立方式の年金は同一世代内部だけで短命に終わる人から長命の人へ所得を再分配する。賦課方式から積立方式へ切り替えると、切り替え時点の青壮年層は両親や祖父母の年金を賦課方式で支えながら、自分の老後は子どもや孫をあてにせず自分の世代だけの年金積立で備えることになる。特定の世代だけに老後生活資金を二度調達させることは平時では容易ではない。

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社会保障の所得再分配機能 (incomes redistribution function of social security) 〔社会保障〕

社会保障は、異なる所得階層間で高所得者層から低所得者層へ所得を移転したり (垂直的所得再分配) 、同一所得階層内または同一職種間等で稼得能力のある者から稼得能力のない者へ所得を移転したり (水平的所得再分配) 、現役世代から高齢世代へ所得を移転したり (世代間所得再分配) 、あるいは同一人の場合でも稼得能力のあるときに積み立てた所得を老後や病気のときに移転する (時間的所得再分配) などの所得再分配機能を有している。こうした所得再分配は、金銭の移転ばかりではなく、医療サービスや介護サービス等の現物給付によっても行われている。社会保障による所得再分配は、税による所得再分配ともあいまって、低所得者の生活の安定や所得格差の縮小などをはかるうえで大きな役割を果たしている。所得再分配効果をジニ係数でみると、年年その効果は拡大しており、特に社会保障による所得格差の縮小効果は大きくなっている。

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橋本政権〔1998年版   政党〕

第四一回衆議院総選挙は、一九九六 (平成八) 年一○月二○日に投票が行われた。予想どおりの低投票率 (五九・六%) であり、国民の不信は、依然として消えていない。三年三カ月に及ぶ連立政権は、新しい選挙制度である小選挙区比例代表並立制での国民の審判を受けた。橋本総裁率いる自民党は、安定多数を求める国民の声に乗って、新しい政治の過半数に近い数字を確保した。保守系無所属議員などや、各党に、政権への協力を求めて、第二次橋本政権を模索した。自民党は、比較第一党の地位を占めての政権工作であり、橋本続投は事実上スタートした。新進党は、敗北の中で責任論が浮上し、党内は分裂含みとなっている。民主党は、野党の立場をより鮮明にすることで、保守連立政権に対決の姿勢を明確に打ち出している。社民党とさきがけは、数の論理の中で重大な岐路にさしかかっている。共産党は、反消費税で党勢を拡大したが、連立政権の枠組みからは外に出ている。九七年九月の第二次橋本改造内閣で、ロッキード事件で有罪となった佐藤孝行が入閣して、支持率の高かった橋本政権はその基盤を大幅に失った。党内の保保派の勢力は弱まったが、スキャンダルなどで国民の支持を失いつつある。失地回復ができるか、このまま支持の低落傾向が続くか、正念場を迎えている。

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角抜き〔流行語大賞'85〕

流行語部門・銅賞
受賞者:山岸一平 (日本経済新聞政治部部長)

この年、目白の闇将軍と言われ、キングメーカーとして政界支配を続けた田中角栄が倒れた。部下である竹下登の造反、そして脳梗塞の発症という事態に陥り、急速に政治的影響力は失われた。この状況を的確に伝える言葉として、社会的に広く認知された。

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政界再編成〔1994年版   日本政治〕

一九九三 (平成五) 年七月実施の第四〇回総選挙は、新旧の九政党がしのぎをけずり、三新党の躍進と、社会党の惨敗、自民党の過半数割れ、そして、非自民連立政権の発足となった。

この現象は、国際関係を背景とした政治的・社会的な変動が日本の政治制度に大きな影響を与えている証拠である。つまり政界再編成への兆候とうねりが、充分に選挙結果に表現されたことになる。

第一二六通常国会の終盤で宮沢内閣不信任案の採決に際して、自民党内の改革派グループの一部は、衆議院解散後離党して新党さきがけ、新生党という新しい政治集団を創設。実態は名実共に真新しい集団ではなく、田中→金丸→竹下と続いた派閥所属議員が小沢・羽田を軸にして脱党者で作った集団。与野党入れ替わりの政権交替ではなく、権力の中心軸になっているのは旧自民勢力で、彼らの意図している政党制は保守二党制の政権の交替である。

細川連立内閣の政治的な使命は、政治改革と景気回復などに集約出来るが、与党間の思惑にそれぞれ相当のズレと距離があるために、連立尊重か党の基本政策尊重かで、連立内閣は常に崩壊の危機を抱きながら政策立案・執行にたたされている。

政界再構成は時代の流れ。細川代表による日本新党結成と自民党最大派閥竹下派の分裂が再編成の発端になった。派閥後継者争いの権力闘争の結果生じた事態とはいえ、政治改革を唱える羽田派の出現は、政界再編へのうねりとなった。

改革への濃淡が自民党内を改革推進派と慎重派に分断し、前者は野党の公明・民社・社会の志を同じくする議員と連携し、派閥分裂などの契機となった。この段階で、一般的にいわゆる『一九五五年体制』の崩壊といわれているが、実質的にそういえるものかどうかを検討する必要がある。五五年の保守合同と社会党の統一以後、自民党を基軸政党とする一党優位体制が四〇年近く続いたのをいわゆる『五五年体制』といっている。

共産党と社会党の一部は細川内閣と自民党の掲げる小選挙区を軸にした選挙制度改革には反対しているが、その他の人々はこれに表向き賛成。積極推進・賛成論者の政治的なねらいは保守二大政党による政権交替。そのためには、小選挙区中心の選挙改革が必要条件。

細川内閣の実態は、政治的に保守派に塗り替えた政治集団による組閣で、保守権力の政権タライ回しの予行演習の意味合いがある。その準備段階として予備的・実験的に自民党対非自民勢力という「準保守二党制」にもっていっているわけである。

元来、デモクラシー社会は、数多くの思想や価値観の多元的な存在が必要で、価値観の多様性を反映したヨーロッパ型の多党制を生み出すための、大選挙区・比例代表制が一つの有効なモデルである。拙速な決定よりも民主的な決定のためにさらに時間をとり、政治的過渡期ゆえ、内閣交替・選挙の繰り返しを重ねるのは当然のことである。

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連合政権〔1993年版   政党関係〕

複数の政党の連合によってつくられる政権。一般には、一党のみで過半数を占めることができずに樹立される。連合政権には、 (1) 複数の政党が閣僚を送り込む政権 (連立政権) と、 (2) 一政党が組閣し一部政党が政策協定によって閣外協力する政権 (少数単独政権) の二つがある。西ヨーロッパの大陸諸国に多く見られる。日本では、一九四七 (昭和二二) 年の片山哲内閣、四八年の芦田均内閣が、社会党、民主党、国協党の三党連合で成立された。また、八三年に自民党、新自由クラブによる二党連合による中曽根第二次内閣が八六年まで続いた。

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細川連立政権の外交政策〔1994年版   外交問題〕

細川内閣は、連立政権をつくるにあたって、「外交・防衛問題について、これまでの政策は継承する」との連立八党派の合意を得た。「これまでの外交」とは、日米関係を最重要な関係と位置づけ、日本をアジアの一員と定め、国連を重視するとの三本柱で構成されていた。防衛政策は日米安保条約プラス自衛力である。この基本路線は変えない、というのが細川連立内閣の方針であろう。であれば、自民党政権と何も変わらないということになる。強いて相違点を見つけようとすれば、細川首相は就任直後の一九九三 (平成五) 年八月一〇日の記者会見で、「先の戦争をどう認識しているか」との質問に対して、「私自身は侵略戦争であった、間違った戦争であったと認識している」と言明した点である。

このあとの施政方針演説で「侵略戦争」という表現は「侵略行為と植民地支配」という表現に改められたが、歴代の自民党の首相よりも明確な発言をしたことだけは事実である。

このような考え方の延長線上に存在するものとして、九月二七日の国連演説が挙げられる。調子は落としつつも、首相は「私は、この機会に過去の歴史への反省を忘れることなく、今後わが国がいっそう世界の平和と繁栄のために寄与するとの固い決意を改めて申し述べたいと考えます」と言明した。もう一つは、八月の衆院本会議で、河野自民党総裁が、日本の今後とるべき道として、 (1) 軍事面での抑制路線をそのまま進め、国際的な貢献は憲法に沿って非軍事面で果たす、 (2) 国連の武力行使にも積極的に参加することと引換えに、国連安保理事会の常任理事国になり、「普通の国」になる、の二つのうちいずれを選ぶのか、と質問したのに対する細川首相の答弁である。

首相は「国際情勢は今までにも増して不透明で、流動的な状況である。二つの道のどちらかを選ぶような単純な問題ではない」と述べたうえで、「私としては指摘のようなミニ超大国を目指すつもりは毛頭ない」と答えたのである。

「ミニ超大国」が何を意味するかは不透明だが、河野総裁の立場は (1) であり、「普通の国」になるのを指して「ミニ超大国」と言ったものと考えられる。同総裁は「ミニ超大国は覇権主義につながりかねず、国際社会の緊張要因になるばかりか、究極的には、再び国民を不幸な状況に追い込むことになる恐れがあるのではないかと心配する」とも説明している。この解釈がいいかどうかは疑問が多すぎるが、細川首相が河野総裁のいう路線と同じ方向を目指しているのは明らかであろう。湾岸戦争の際にも、カンボジアPKOに対する自衛隊派遣のときにも、日本の世論は軍事面も含めてできるだけの貢献をするのか、あるいは非軍事面に限定すべきかをめぐって二つに分かれた。ただ、いまの日本が直面している問題点は国内の議論ではなく、世界一の超経済大国でありながら、貿易立国として非軍事面だけの貢献だけで、他の国が納得するかどうかである。

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自社さきがけ連立政権〔1995年版   政党〕

一九九四 (平成六) 年七月に羽田孜連立内閣の総辞職を受けて、村山富市社会党委員長を首相として誕生した連立内閣。羽田内閣は、九四年度予算の成立後に自社が提出した内閣不信任案をめぐって、自社の議席で衆参両院ともに過半数を越える状態から、衆議院解散か、内閣総辞職かを迫られた。羽田首相は総辞職し、社会党と旧連立与党との新たな政策協議が進められたが、消費税率の引き上げをめぐって対立。一方、社会党の左派は、反小沢の感情から反連立与党の姿勢で、自民党との連立協議を進め、ついに会期末に村山富市議員の首班指名となった。自社連立は、大きな反響をよび、諸外国では日本政治の改革の遅れが心配され、また国内では改革されないままの自民党の政権復帰に戸惑いが広がった。

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非自民連立政権〔1995年版   政党〕

一九九三 (平成五) 年七月の第四〇回総選挙後に新生党、日本新党の躍進によって社会党、新生党、公明党、日本新党、新党さきがけ、民社党、社民連、民主改革連合の七党一会派によって成立した非自民党の連立政権。発足からわずか一一カ月で一応終焉した。九三年、総選挙結果から、自民党が大きく議席を減らし、日本新党代表の細川護煕議員が首班指名の統一候補となり、自民党総裁を破って首相となった。非自民政権は、自民党政権が消極的だった太平洋戦争の戦争責任を明確にし、また解決できずに五年目の政治改革に一応の区切りをつけることに成功した。しかし、その後、国民福祉税構想などの政策決定過程の混乱、細川首相の熊本県知事時代の蓄財問題から、九四年四月に突如、細川内閣が総辞職。その後、羽田孜新生党党首が新首相に選任されたが、統一会派「改新」から新党さきがけに続いて社会党が離脱し、七月に羽田内閣も総辞職に追い込まれ、自社さきがけ連立政権に譲る結果となった。

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密室政治/楽屋政治 (Behind the scenes manipulation) 〔1995年版   日本政治〕

公式の政策決定の場ではなく、その舞台裏で決着を図ろうとする政治手法。民主政治の下では国が直面している問題の本質を十分に知らせ、国民が政策の善し悪しを判断する条件を整備することが不可欠。一九九四 (平成六) 年二月三日未明、細川首相が突然に発表した国民福祉税構想などは、連立与党間の合意さえなく、大蔵省とごく一部の与党政治家との間での闇取引。政治に裏取引はつきものとはいえ、欧米の民主国家では考えられない現象。

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3M連合・YKKライン・竹三関係〔1992年版   ワードウォッチング〕

自民党総裁選での宮沢・三塚・ミッチー (渡辺) 三派連合が「3M」、その各派の山崎拓・加藤紘一・小泉純一郎代議士が「YKK」、竹下、三塚で「竹三 (たけみつ) 関係」。★グループ・新世紀〔1995年版   政党〕

一九九四 (平成六) 年五月に発足した自民党議員による派閥横断的政策集団。当選一、二回の議員が、海部俊樹自民党内閣から続いた政治改革論議で慎重な姿勢をとりつづけた山崎拓、加藤紘一、小泉純一郎議員ら (YKK) を擁立して組織化した。小選挙区比例代表制の導入が決まったことから、新選挙制度に対応した党運営や、政治資金の透明化などを掲げ、派閥解体、世代交代による党の刷新を進めるとしている。七月の羽田内閣総辞職では、自社連立に積極的な態度をとった。加藤紘一代表、幹事長山崎拓。会員は六四人。

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ニューYKK〔1997年版   ワードウォッチング〕

自民党の山崎拓、小泉純一郎、加藤紘一代議士を「YKK」と呼んできたが、新しくNYKKが登場、ニューYKKという。野中広務、与謝野馨、亀井静香、高村正彦の四人。いずれも村山内閣改造時に河野洋平前総裁にクビを切られた形の前歴をもち、派閥横断的に一定の影響力をもってきている。

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YKK〔政党〕

加藤紘一、山崎拓、小泉純一郎のYKKトリオは国債の増発による景気浮揚論を厳しく批判して、自民党執行部と一線を画している。小泉純一郎は、森派 (清和会) の会長であるが、ポスト森は「加藤」と明言している。また、森政権の経済政策にも批判的立場である。このグループと旧河本派のリーダー高村正彦との連携も噂されている。自民党派閥の大再編となれば、YKKがひとつにまとまる可能性もある。自民党の派閥は二極化への方向に動きつつある。九九人となった橋本派の内部対立も含めてYKKは再編への台風の目となっている。

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郵政三事業の民営化論議〔1998年版   ホームエコノミー〕

郵便・貯金・保険の三事業からなる郵政事業は、同じ業種を営む民間企業の経営を圧迫し、その成長力や競争の自由を阻害するもの。財政投融資の在り方が見直されようとしている昨今、その「入り口」となる郵政事業の在り方を同時に見直すべきであるというのが、最近の郵政事業民営化論の論拠。一方、当の郵政省サイドは、民営化により発生しうる赤字は採算性の低い地域で郵便局の閉鎖や巨額の国庫補助の必要をまねき、「全国均一料金、ポスト投かん制」という郵便事業の原則をも崩す、などを反対の理由に挙げる。考えてみれば、この両論はいずれも当事者同士の論理にすぎず、本来、最も重要な利用者の意見が反映されていない。従来からの郵便局の姿が目の前から消えてしまうことの是非を本当に考え、意見を述べていかなければならないのは利用者であるはずだ。制度の改善=民営化が最善の手段なのか、全国どこでも利用できる少額の貯蓄・保障手段、低料金の郵便制度はもはや不要か。真に利用者自身が考えるべき課題で、一部の民間企業や役人、マスコミだけに論じさせておける問題ではない。

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郵政3事業〔流行語大賞'97〕

トップテン入賞
受賞者:小泉純一郎 (厚生大臣)

行政改革が遅々として進まぬ中、一石を投じたのが小泉。かねてからの持論である「郵政3事業の民営化」を具体化するように迫った。3事業とは、郵便・貯金・保険のことで、圧倒的な資金力を持つ郵政省が、同じ業種の民間企業の経営を圧迫しているという主張である。公共性と採算性の兼合いもあり、熱い論議を呼んだ。

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特殊法人の統廃合 (reform of special administrative corporations) 〔1996年版   行政〕

特殊法人とは特別の法律により設立される公益性の高い法人で、その新設・改廃には総務庁の審査を要する。名称は公庫・公団・事業団・銀行などさまざまだが、一九七五年に一一三あったものが、統廃合により九五年までに九二に減少している。八○年代の行革では、非能率な特殊法人の代表格だった国鉄・電電公社・専売公社の三公社改革 (民営化) が主要なテーマとなったが、九四年に成立した村山政権は改めて特殊法人の見直しを公約に掲げ、連立与党は行政改革プロジェクトチームを中心に九五年三月、改革案をまとめた。それによると、日本輸出入銀行と海外経済協力基金を四年後に統合、新法人の監督は大蔵省と経済企画庁が、また事務処理は経企庁が担当することになる。しかし、事務の重複が指摘されているその他の政府系金融機関や、すでに歴史的役割を終えたともいわれる特殊法人の合理化は先送りとなった。

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特殊法人等情報公開法 (Disclosure of Information Held by Special-status Corporations, etc. Act) 〔法律〕

特殊法人とは、総務省 (総務庁) 設置法四条一一号に規定される「法律により直接に設立される法人又は特別の法律により特別の設立行為をもって設立すべきものとされる法人」をいうとされている。具体的には、二○○○ (平成一二) 年七月一日現在、七八あって、例えば、日本道路公団等の公団、宇宙開発事業団等の事業団、住宅金融公庫等の公庫、商工組合中央金庫等の金庫などである。それらの情報公開をどのようにするかについて、一九九九年七月に行政改革推進本部に設けられた特殊法人情報公開検討委員会が、同年八月以降審議し、特定の特殊法人のほか、六○の独立行政法人、一定の認可法人をも対象とする情報公開法の制定について、二○○○年七月二七日、政府に対して意見を提出した。この意見は、基本的には、情報公開法 (→別項) と同趣旨の法律を提言しているが、情報公開法の中核をなす開示請求権制度とともに、情報提供制度の整備を特に掲げているところに特色がある。二○○一年には法案が提出されるであろう。

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三国人〔日本史〕

二○○○ (平成一二) 年四月九日、石原慎太郎東京都知事は陸上自衛隊「創隊記念式典」で「不法入国した多くの三国人、外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している。大きな災害が起こった時に、騒擾事件すら想定される」 (「朝日新聞」) と発言して問題となった。「三国人」という差別の言葉を使い、外国人は犯罪や騒擾に関わる危険な存在であることを含意したものと批判された。「三国人」という言葉は、連合国軍最高司令部 (GHQ) が旧植民地の人は日本に支配されていた面と日本の臣民として連合国と戦争したという両面をもつため「ザ・サード・ナショナル」とよんだことに由来する。その後関係がねじれ「日本人の軽侮、畏怖、差別を含む特殊な言葉となった」 (野坂昭如) 。異文化理解と共存がとなえられる現在、それに逆行する意識が日本人の深層に沈殿していることが注目される。

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題目〔現代宗教〕

法華経は、いわゆる大乗経典の中で最も影響力の大きかったもののひとつである。天台宗もこれを所依の経典としていた。しかし、法華経が真に広宣流布するのは、仏の白法隠没 (びゃっぽうおんもつ) して世の乱れる末法の時代だ、といわれる点に着眼して、自ら法華経の行者と化したのが日蓮であった。ここから鎌倉新仏教のひとつが展開する。その中心は、妙法蓮華経の五字の題目、あるいは、これに南無を冠して口に唱えること (唱題) である。そうすれば、経の功徳によって個人のみならず国家社会の全体的救済が実現し、現実に仏国土が建設されると説いた。また題目を文字に書いて本尊ともした。

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国際ハブ空港〔2000年版   交通運輸〕

国際線から国際線あるいは国際線から国内線へと乗り継ぎをするための拠点空港。ハブ (hub) とは、自転車の車輪の中心部にあるこしきのこと。スポーク (spoke) からハブに、またハブからスポークへ力が伝導することからこのようなシステムをハブ・システムあるいはハブ・アンド・スポーク・システムという。二一世紀初頭の超音速旅客機の就航する空港は世界に六カ所必要とされ、これをスーパー・ハブあるいはグローバル・ハブという。このうちアジアに一カ所必要と考えられている。わが国の国際空港である成田空港が、国内線の羽田空港との乗り継ぎがきわめて不便なため成田以外に日本を代表する国際ハブ空港の整備が急がれている。その理由は、ソウル (新ソウル・メトロポリタン空港、二〇〇二年開港予定) や香港 (チェク・ラップ・コック空港、一九九八年に二四時間空港として開港) で国際ハブ空港化構想が進んでいることによる。関西新空港や中部新空港が当てにできないため、新千歳空港がその候補にあがっている。

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羽田空港沖合展開〔1998年版   交通運輸〕

空港機能の増強と航空機騒音問題を解決するために東京・羽田空港の大きさを三倍にして沖合に移転拡張する事業。年間離着陸回数が約一五万七○○○回にのぼり、容量限界に近い羽田空港を現在の三倍に近い面積 (一一○○ヘクタール) に拡張する。計画は三本の滑走路を整備、年間の離着陸処理能力を一・五倍 (約二三万回) にする。工期は三期に分け、新A (三○○○メートル) 、新B (二五○○メートル) 、新C (三○○○メートル) の三本の滑走路を整備する。着工開始は一九八四 (昭和五九) 年一月、八八年七月から新A滑走路が使用開始で第一期工事は完了。二期工事は九三年九月に完了、新旅客ターミナルが完成。このターミナルはビッグバードの愛称でよばれる。三期工事は新C滑走路が九七年三月にオープンし、新B滑走路が九九年度末に供用予定。

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羽田空港〔2000年版   交通運輸〕

空港機能の増強と航空機騒音問題を解決するために沖合に移転拡張し、空港の大きさを三倍にした東京の西南部に位置する二四時間空港。三本の滑走路が整備され、年間の離着陸処理能力が約一五・七万回から約二三万回に増大した。滑走路は新A (三〇〇〇メートル) 、新B (二五〇〇メートル) 、新C (三〇〇〇メートル) の三本。一九八八 (昭和六三) 年に新A滑走路が、九三 (平成五) 年九月に、新旅客ターミナル (愛称ビックバード) 、九七年三月に新C滑走路がオープンした。新B滑走路は九九年度末に供用の予定。

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カジノの形態〔ゲーム〕

ヨーロッパのカジノは規模が小さく、郊外や保養地に点在することが多く、逆にアメリカにおいては規模の大きな都心型のものが有名。この従来からの二種類に加え、いくつか新しいタイプのカジノが台頭している。まず船上で行われるカジノ船とよばれるカジノがある。一定時間ごとに航行するタイプと、全然動かない (つまり水の上の建物のようなもの) タイプがある。次にアメリカ各州のインディアン自治区内に出現しはじめたカジノであるが、これは一九八八年の連邦法によるインディアン・ゲーミング・コントロール法を基礎としている。現在、アメリカで最も大きなカジノはコネティカット州のインディアン自治区にあるフォックスウッド・カジノである。現在二四州にインディアン・カジノが存在している。もうひとつ特殊な形態のカジノとしてインターネット (オンライン) カジノがある。たとえ本国で禁止されていたとしても、他国で決済がなされる場合、摘発は不可能に近く世界中で問題となりつつある。

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新進党議員らの尖閣上陸〔1998年版   外交問題〕

一九九七 (平成九) 年五月六日に新進党の西村真悟衆議院議員、石原慎太郎・元運輸相ら十数人の日本人グループが乗った小型舟が尖閣諸島の魚釣島に到着し、西村議員と石垣市会議員ら四人が上陸した。西村議員は上陸の目的を「国政調査の一環」と説明し、自身の選挙公約であると述べている。前年に台湾や香港から尖閣諸島の領有権を主張する人々がここに集まり、日本政府が断固たる行動に出なかったことに抗議した行動であることははっきりしている。

ところが橋本首相は「土地の所有者が上陸を拒否し、その意思を伝達しているにもかかわらず、それを一切無視し、行動する権利が国会議員といえどもあるのか」との論評を行った。また、梶山官房長官は「一連の事態で日中関係全体が損われることがあってはならないと考える。関係各位が冷静に対応することを希望している」と述べた。首相官邸が関係諸国とのトラブルを引き起こしたくないと強く考えていることを示す発言である。

この事件後に香港、台湾の強硬派は目立った動きをしていないが、尖閣諸島の領有権問題が表面化するごとに、主権の主張を強く貫くべきという意見と周辺諸国との関係を穏便に済ませたいとの主張がぶつかると考えられる。

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窒素酸化物自動車排出総量削減法〔2000年版   交通運輸〕

ディーゼル車から排出される窒素酸化物 (NOX) の総量削減を目指した特別措置法。単に総量規制、NOX規制ともいう。NOXは一酸化窒素 (NO) 、二酸化窒素 (NO2) などの総称で、酸性雨や光化学大気汚染の原因物質となる。その発生源としては、これまで工場のボイラーなどの固定発生源が主であったが、近年特に大都市においては、自動車などの移動発生源が主になり、車種別排ガス濃度を規制 (単体規制) してきた。これらをうけ、トラック、バスの使用者にNOX排出の少ない車種の使用を義務づけるための排出基準を作り、NOX汚染のひどい大都市を対象とした特定地域で基準不適合車の使用を制限する。また特定地域の一般運輸事業に対し、関係省庁が低公害車の導入や共同配送システムを取り入れるなどの対策を求めている。

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排ガス規制〔生活と環境・公害〕

窒素酸化物汚染については、一九七八 (昭和五三) 年に経済界からの要請で環境基準を二ないし三倍にゆるめるという大幅な規制緩和を行っている。しかし、いっこうに改善の傾向にないどころか、悪化する一方の窒素酸化物汚染には抜本的対策が待たれていた。このために準備されていた自動車窒素酸化物削減特別措置法が、九二 (平成四) 年五月、国会を通過した。この法律はトラックの総量規制、特定地域への流入規制、車種転換の三つの柱があったが、他省庁に骨抜きにされ、その結果、環境は好転しなかった。二○○二年にはこの法律の改正が行われる見通しで、窒素酸化物にSPMも規制、ディーゼル乗用車の禁止、さらに対象となる地域も六から一○都府県に広げる方針だ。二○○○年二月、東京都はこの規制にさらに上積みしたディーゼル対策を打ち出した。二○○六年までにはSPM除去フィルターのないディーゼル車は都内を走れなくなるというものだ。このほかにも都心部に入る車から料金を徴集して、流入量を減らすロードプライシングも導入の見通しである。

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企業内容開示制度 (disclosure system) 〔1999年版   財務会計〕

わが国の企業内容開示制度 (ディスクロージャー) には、株主、債権者の保護およびそれらの利害調整を目的とした商法会計制度と、潜在的投資者を含む投資者一般の保護を目的とした証券取引法会計制度とがある。商法会計制度は、現在の株主および債権者に対して計算書類等の閲覧権およびその謄本交付権を認めるとともに、定時株主総会の招集通知にはそれらの書類を添付することならびに一定の規模の株式会社に対しては貸借対照表等の公告またはその要旨の公告が義務づけられている。これに対して、証券取引法会計制度は、有価証券を上場している会社等に対して、公認会計士により監査された財務諸表を主内容とする有価証券報告書等を大蔵大臣に提出し、一定期間は公衆の縦覧に供させることになる。なお、最近における企業活動の多角化、国際化等により、企業内容開示の拡充化が以下に示されるように、つよく要請されている。

●新会計基準とその適用時期
【1999年4月1日以降開始する事業年度から適用】
  • 新連結会計基準の適用
  • 税効果会計の適用 (連結、単体とも)
  • 連結キャッシュ・フロー計算書の作成
  • 研究開発費等の費用処理
【2000年4月1日以降開始する事業年度から適用】
  • 中間連結財務諸表 (中間連結キャッシュ・フロー計算書を含む) の作成
  • 年金会計を含む退職給付の会計処理
  • 金融商品の時価評価の一部導入
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ディスクロージャー (disclosure) 〔2000年版   株式市場〕

株式などの有価証券を発行している企業が投資家に対して情報を開示することである。投資家は有価証券投資を自己責任の原則において行っている。そのためには投資判断に十分な情報が必要である。金融システム改革法では、有価証券届出書や有価証券報告書の記載事項を当該会社および子会社等で構成される企業集団の連結ベースで行うことに改正された。そのほか、公開買付制度、大量保有報告制度、構成取引ルールの整備が行われた。一九九八 (平成一〇) 年には株価に影響を与えるような業績の変化や事件の発生の場合、適時開示が求めれるようになった。

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ポピュリズム (populism) 〔1995年版   政治理論〕

ヨーロッパにおけるナチズム、北アメリカで拡大されていったマッカーシズム (McCarthyism) などを総称する用語としてポピュリズムがある。これを大衆の悪しき心理現象として、大衆デモクラシーとよぶ人があるが、適当ではない。悪しき騒乱状態をよぶのに「デモクラシー」を用いることは、いかがなものであろうか。

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ポピュリズム (populism) 〔21世紀の北米を知る用語集   『世界事典』〕

歴史的には19世紀末に農民の政治的不満を背景に現れた改革主義を指す。第3党として人民党 (populist party) を組織したことから生まれた名称である。ポピュリズムは政治の改革を要求してはいたが、自由競争と直接民主制が支配的であった過去のよき時代への復帰を願う点では、むしろ保守的であった。より広い意味では、大企業や中央政府などの強大な権力に対する民衆の反発に根ざした運動や思想を指している。今日でも、インフレや失業などで民衆の間に反ビジネス・反エスタブリッシュメントの感情が高まると、連邦政府への権力集中化やアメリカ外交の国際主義化、あるいは大企業を含む既成の大組織の政治的横暴に反対するポピュリズムが噴出することが少なくない。

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ネオ・ポピュリズム (新民衆主義) (Neo-populism) 〔中南米〕

ポピュリズム (民衆主義) は一般に、政治目的を実現するためカリスマ性をもつ指導者が民衆層を動員する運動、あるいは経済合理性というよりは大衆に迎合した政策をさす。中南米の現代史の文脈では、一次産品の輸出経済体制を支えた地主寡頭支配が動揺する段階において、中間層主導で、国内市場を向いた輸入代替工業化を推進しようとする階層間の連携運動として登場、二○世紀の国家主導の開発体制を支える政治運動であった。労働者民衆の支持を求めるため、国有化や農地改革などの改革と、雇用創出や福祉増大など所得再分配政策により需要を喚起し成長するが、それは慢性的な財政赤字とインフレを引き起こし、資本財や中間財の輸入増から外貨不足をまねいた。メキシコのPRI、アルゼンチンのペロニズム、ボリビアの国民革命運動 (MNR) など、各国でその例がみられるが、一九八○年代の債務危機を経て国家主導の開発が破綻するにともない古典的なポピュリズムも姿を消す。だが財政規律、民営化による小さな政府という新自由主義政策を推し進める政権でも、社会・所得格差の大きな中南米において、指導者が民衆層を動員する政治スタイルからは免れない場合が多い。むしろそこに政治資源を見出し、また貧困層にターゲットをしぼった社会政策を通じて民衆層との連携を強化し権力を握ろうとする動きがみられる。アルゼンチンのメネム (一九八九〜九九年) 、ペルーのフジモリ (九○年〜) 、エクアドルのブカラム (九六〜九七年) などがネオ・ポピュリズムの代表例。社会経済から排除されてきた民衆層の参加を促すという点で評価できる面をもつが、行政優位で三権の均衡や民主制度をくずす権威主義への危険性をともなう。

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震災ボランティア活動〔1997年版   ボランティア〕

阪神・淡路大震災では、災害発生からの三カ月間で延べ一一七万人のボランティアが被災地に駆けつけ、さまざまな救援活動に参加した。とくに、被災者と直接接し心を通い合わせた生活支援活動は、行政の救援対策本部が基礎的な救援活動を担うなかで満たすことができなかった被災者の個別ニーズに応えるなど、固有の役割を果たした。

被災地における活動では、時間経過にともない内容が変化してきた。発災直後は、行政の対策本部等の生活救援活動が十分に整わないなか、それを補完したり代替する場合もあった。とくに高齢者や障害者の安否確認や個別ニーズへの即応などが有効であった。それが、交通の復旧、行政の災害救援対策の確立などが進むにつれ、被災者自身が自立・自活することを側面から支援する活動へと変わっていった。仮設住宅への引っ越し、仮設ふれあいセンターでの活動支援などである。

また、被災者のニーズを受けとめ、活動者の持ち味を活かすためのボランティア・コーディネーターが重要な役割を果たし、ボランティア希望者とニーズの間の調整だけでなく、行政の対策本部による救援対策と活動との調整も行なった。また救援ボランティア活動は、その趣旨からいってもボランティアは自身の食事や飲料水等は自前で確保するなど現地に負担をかけない活動スタイルを確立する必要がある。

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角抜き〔流行語大賞'85〕

流行語部門・銅賞受賞者:山岸一平 (日本経済新聞政治部部長) この年、目白の闇将軍と言われ、キングメーカーとして政界支配を続けた田中角栄が倒れた。部下である竹下登の造反、そして脳梗塞の発症という事態に陥り、急速に政治的影響力は失われた。この状況を的確に伝える言葉として、社会的に広く認知された。

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三角大福〔政治・経済 1972『20世紀事典』〕

ポスト佐藤をめぐってしのぎをけずる三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赴夫の4人の実力者をまとめてさすことば。

7月の自民党総裁選では田中が当選して一番乗りを果たしたが、その後、三木、福田、大平の順で政権タライ回しの形となった。

いずれも2年そこそこの短命内閣。

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田中金脈問題〔政治・経済 1974『20世紀事典』〕

10月18日自民党総務会が雑誌『文芸春秋』に発表された「田中角栄研究/その金脈と人脈」 (立花隆・執筆) を取り上げ、田中首相の金脈問題を論議した。

この記事により、田中首相の政治資金調達と個人資産にからむ疑惑が表面化した。22日には参院大蔵委で田中金脈問題が扱われて紛糾。

党内外の田中批判はいっきにエスカレートし、11月26日、田中首相は辞意を表明した。

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ロッキード事件〔政治・経済 1976『20世紀事典』〕

2月6日、アメリカ上院外交委員会多国籍企業小委員会の公聴会で、航空機会社ロッキード社が航空機売込みのため、日本、西独などの有力者に多額の工作資金をばらまいたことが明るみに出た。また、ロッキード社のコーチャン副会長が、日本政府当局者にも児玉誉士夫や国際興業社主・小佐野賢治を通して、200万ドルの対日工作費を支払ったと証言。東京地検、警視庁、東京国税局は強制捜査に踏切り、丸紅、全日空、児玉ルートそれぞれで容疑者が逮捕され、7月27日に前首相田中角栄が外為法違反で逮捕、戦後最大の疑獄事件へと発展していった。

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よっしゃ、よっしゃ〔政治・経済 1977『20世紀事典』〕

ロッキード事件の初公判で、検察側が明らかにした田中角栄のことば。

丸紅の五億円提供をともなう請託を、田中が「よっしゃ、よっしゃ」と引受けたというところから流行語となった。

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直角内閣〔政治・経済 1980『20世紀事典』〕

田中派との連合で成立した大平内閣は、田中角栄の影響を強く映す“角影内閣”と呼ばれたが、大平首相の急死 (1980年6月12日) によって生まれた鈴木内閣は、より直接田中の影響を受ける“直角内閣”といわれ、組織にも田中色が濃かった。

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反角〔政治・経済 1982『20世紀事典』〕

田中角栄批判。
3月、三木武夫元首相の「一部の派閥の肥大化は目に余る」という発言にはじまり、田川誠一新自由クラブ代表が「数と力がまかり通る異常な状態」と批判、新潟、鹿児島 (二階堂幹事長の選挙区) などを回る反角キャラバンを行った。

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日中国交正常化 (Japan-China diplomatic normalization) 〔中国問題〕

米中接近に刺激を受けた日本国内では日中国交樹立への動きが加速した。当時の佐藤栄作首相は基本的に対中姿勢を変えなかったが、続く自民党の総裁選では日中国交正常化を公約に掲げた田中角栄が勝利した。田中新首相は大平外相とともに一九七二年九月中国を訪れ、毛沢東や周恩来と会見し、中華人民共和国を承認することで外交関係を樹立した。これにより台湾の中華民国との外交関係は断絶した。日中国交正常化に際しては共同声明が発表され、日本側は「戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」と述べ、中国側は日本に対する戦争賠償の放棄を宣言した。

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西山町公金流用事件〔1991年版   この一年の事件〕

田中元首相のお膝元、新潟県刈羽郡西山町で町長と収入役が2代、10年近くにわたって結託、建設会社2社に、28億円にのぼる巨額な公金を融資していた事件が発覚した。7月10日、前町長が品田建設社長から2000万円の新規融資を頼まれたのを拒否し、自ら「公金を流用した」と町議会に辞表を提出して警察に出頭したのである。新潟県警と柏崎署は9月4日になり、江尻勇・元町長 (77) 、駒野忠夫・前町長 (58) 、寺沢秀一郎・元収入役 (67) 、寺沢昇・前収入役 (61=9月13日懲戒免職) 、同町内にある品田良実・品田建設社長 (58) 、同県柏崎市内にある佐藤辰雄・佐藤組社長 (62) の6容疑者を背任の疑いで逮捕した。直接の容疑は、ここ5年間の不正融資5億円について。1980年ごろから、町の「一時借入金制度」 (国の交付金などが入るまで支出を補填できる制度) を悪用し、金融機関3社から極秘のうちに融資を受け、帳簿にも記載せず、2社に不正融資。一般会計予算や税金収納専用口座の預金からも流用していた。江尻前町長の遠縁にあたる佐藤社長にも泣きつかれて融資。倒産して事件が発覚するのを恐れて次から次へと不正融資が続いた。金は品田社長の場合、運転資金には4億円だけで、一攫千金を狙って韓国のバカラとばくや競走馬の購入などに充てていたとみられる。2社が事実上倒産した結果、約15億円が焦げついたことになり、そのツケは町人1人当たり25万円もの借金となる勘定。未返済の15億円の内訳は、品田社長が約11億円、佐藤社長が約4億円。江尻元町長は1964年から6期24年間、同町長を勤めて88年に引退。田中元首相とは幼なじみで、元首相の後援会「越山会」の大幹部。「地元企業の保護は行政の責任」などとうそぶき、「オレは目白直結」が口癖だった。この事件ではチェック機能が全く働かなかった。金権体質もさることながら、ロッキード事件に象徴される田中政治の影響が色濃く、恐れと甘えが錯綜する特殊な風土が背景として指摘されている。8月26日に出直し町長選挙が行われ、革新の推薦を受けた戸次義一氏 (77) が当選、町政刷新のための模索を始めた。9月25日、元町長、元収入役、二つの建設会社社長の4人が背任罪で起訴され、前の町長と収入役は処分保留で釈放された。

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経世会 (Keiseikai‐faction of TAKESHITA) 〔1992年版   政党関係〕

一九八七 (昭和六二) 年に田中派分裂によって誕生した竹下登、金丸信らを中心とする自民党最大派閥。田中派の約八○%を擁し、同年一一月の竹下内閣発足の原動力となった。その後リクルート事件、消費税導入によって内閣は八九年に倒壊したが、最大勢力を利用してその後の宇野、海部内閣の後見派閥として政権の中枢を担っている。派の指導力は竹下と金丸・小沢とに分裂しており、その時々の情勢によってキャスティングボートが移る。派の大多数は大勢に流されており、派の結束力がいま一つとなっている。橋本、小渕、羽田、奥田、梶山、渡部らの動きも竹下内閣倒壊後は同床異夢といったところだ。今後も党内のキングメーカー派閥としての位置づけを維持したいとしている。

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経世会分裂〔1994年版   政党〕

自民党最大の派閥だった、竹下派 (経世会) が一九九二 (平成四) 年一〇月に二つの分裂したこと。この派閥は七二年の田中角栄内閣発足以降、田中派として自民党に絶大なる影響力を与え、大平正芳、鈴木善幸、中曾根康弘の三内閣の発足に力を貸し、その見返りに内閣の政策決定に絶大な影響力を持ちつづけた。八七年七月には田中派の大部分をもって竹下登を領袖とする経世会が発足。同年に竹下内閣が発足した。

しかし、リクルート事件で八九年に退陣。その後、田中元首相と同じように最大派閥の力によって宇野、海部、宮沢の三内閣に絶大な影響力を与えることになった。しかし金丸巨額脱税事件によって派閥会長だった金丸議員が失脚してから、主導権をめぐって会長代行の小沢一郎と竹下登元首相やその側近小渕恵三、橋本龍太郎らとの対立が表面化。一〇月に会長が小渕恵三に決定。小沢は羽田孜らと政策集団「改革フォーラム21」を結成し、事実上の分裂となった。「改革フォーラム21」は、一二月に派閥として正式に旗揚げした。

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ASEAN10〔外交問題〕

一九六七年に加盟五カ国で発足したASEAN (東南アジア諸国連合) は、その後拡大を続け、九九年四月にカンボジアの加盟でついに一○カ国となり、「ASEAN10」が実現した。アジアの通貨・金融危機を経て、ここまで発展してきたことに対し、日本も新しいパートナーシップの構築に力を入れることになった。高村外相は七月にシンガポールで開かれたASEAN拡大外相会議で、「ASEAN10」実現の歴史的意義を強調する演説を行うとともに、これら各国の経済と密接な関係をもつ日本経済の再生に積極的な姿勢を示した。

一一月にマニラで開かれたASEANプラス三首脳会議に出席した故小渕首相は「東アジアの人材の育成と交流の強化のためのプラン」を提案した。これはエストラーダ・フィリピン大統領から「小渕プラン」と命名された。同じ日に開かれたASEAN首脳会議で小渕首相は「ASEAN10」を積極的に支援すると述べ、ASEANの域内格差を是正するため日本も協力したいと言明した。日本とASEAN諸国との関係は政治、経済、その他人的交流などの面で拡大していくと考えられる。

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